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BAR 夜明ヶ前  作者: 沼 正平
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日本酒の飲用温度

前回の続き

 冷酒のつもりで頼んだ常温の冷や酒だけど、あらためて呑むとこれがまた美味かった。さっさと飲み干して次によく冷えた酒を頼もうと思ったが、この酒もまたあだや疎かには呑み下せない。

 向こうのカウンターでは先ほどのカップルがマスターを呼んでオーダーしている。

「すいません、次のお酒、何かおすすめの奴を選んでもらってイイですか? よく冷やしたのを」

 どうやら先ほどの俺とマスターのやりとりを聞いていたらしい。やっぱり冷酒が美味い時季だからな。ちょっと癪に障るけど、知識として覚えた以上は“冷やで”なんて頼むはずがないよな。マスターは冷蔵庫からよく冷えたボトルを出して二人に出した。ちょうど音楽が止まってCDを入れ替える。また三味線の音が流れてきた。すると今度は俺の方へ顔を向ける。

「どうだい、美味いだろ?」

「美味いよ、常温でも美味い酒だね。何て言う酒なの?」

「青森の“田酒”」

 初めて聞く銘柄だ。そんな酒もあるんだなぁ~。

「この三味線は?」

「これは上妻宏光」

 そちらも初めて聞く名前だ。どうもそちらの方は疎いな。

「津軽三味線聴きながら津軽の酒を味わう。どうだい、いい企画だろ」

「あ、なるほどね。そういう取り合わせなんだ」

 とは言え三味線とか良く分からないし、この田酒っていう酒も今回初めて知ったところ。その取合せの妙をしっかり理解出来てるかどうかって言われると自信がない。それどころか津軽地方ってのが大体どの辺かって訊かれても、ちゃんと答えられる自信もない。困ったものだ。

「この酒だって冷やせば冷やしたなりに美味いし、吟醸酒だけど燗すれば燗したなりに美味い。日本酒の飲用温度ってのは洗練された酒類の中でもずば抜けて広いんだよ」

 確かに言われてみればその通りかも知れないな。俺自身、洋酒ばっかり飲むせいで、酒は冷たく冷やして飲むものだっていう思い込みがあった。

「赤ワインなんか室温がイイって言うよね」

「そうだな。でもね、ヨーロッパの室温と日本なんかでは違うからね。それなりにコクのある赤は大体15度から18度くらいが飲みごろ温度とされてるけど、室温が25度だったら当然冷やさなけりゃならない。それに15から18って言ったら温度帯の巾はたったの4度しかない。その温度より上でも下でも美味しくないよ、ってことだからね」

「そう考えるとやっぱり日本酒は特殊な感じがするね。ビールだって冷たくないと美味しくないし」

「エールなんかは多少高めの温度で飲まれるけどね。ただ“常温”はあっても“燗”ってのはあまりないよな。ドイツ圏では赤ワインをホットで飲んだりするけど、あれはハーブとか入ってたりしてリキュール的な感じだし。日本酒の燗に比べれば一般的な飲み方じゃない。日本以外では中国の紹興酒とかがあるけど」

「なるほどね、確かに燗って独特だね。ウイスキーとかお湯割りやホットカクテルとかってあるけど、そのまま温めてのむことないし」

「焼酎も燗で呑めるけど、日本人はアルコール弱い人が多いからあまり一般的じゃないな。やはりお湯割りだろう」

「よく“熱燗”とか“人肌”とか言うけど、どのくらい種類があるの?」

「熱燗・ぬる燗・人肌、これだけ覚えとけば十分だよ。細かく分ければ他にも呼び方はあるけど、そんなにこだわる必要がないしね。ぬる燗や人肌あたりが一番酒の味が美味く感じる温度帯だよ。寒い時には熱燗も悪くないだろうけど」

 俺はマスターの話を聴きながら、また田酒の冷やを口に運んだ。この酒を燗したらどんな味わいになるだろうと、興味がわいて来た。

「食事に合わせようと思った時、“燗”ってのは非常に優れた呑み方なんだよ。獣肉の脂なんかは低温で固まるだろう。つまり肉を食って冷たい酒を呑むと、口の中で脂分が固まって美味しく感じない。ところが温かい酒なら脂をスッキリと流すことが出来る。もっと肉食の盛んな国に輸出してもイイと思うんだけどね。何しろ日本酒はどんな食事にも無難に合わせられるからな」

 そりゃまた贔屓の引き倒しみたいだけど。

「“冷酒”にも色々種類があるの?」

「冷酒ってのは冷やした酒、っていうくらいの意味しかないけど、温度帯によって涼冷えとか花冷えとか言ったりするみたいだ。でも概ね冷蔵庫で普通に冷やしたものが“冷酒”だろうな。霜のつくようなパーシャルショットや、凍りはじめのフローズンスタイルも、暑い時は見た目にも涼しいけど、そこまで冷やしちゃうと“酒の味”としてはちょっとな」

 こんなに色々な呑み方が楽しめるなんて、ちょっと日本酒のイメージが変わるな。いつもマティーニやジンストばかりの俺も、たまには日本酒を楽しみたくなってきた。

「随分昔の話だが、日本酒の試飲販売をやっていたことがあるんだよ」

 これはまた初耳だ。マスターにそんな過去があったとは。

「その時、蔵元の社長さんから言われた言葉が今も耳に焼き付いて離れないんだ。その社長さんは試飲の酒をしっかりと冷やすように指示してこう言ったんだ。『ウチの酒は特別美味いワケじゃない。冷たくして飲ませるのは味が分からなくなるようにだ。冷たくし過ぎると味が分からなくなってしまうと思ってるんだろう。それでいいんだよ、わざとやってるんだから。お客なんて味なんか分からないんだから、冷えていれば美味しいと思うんだ』ってね。その社長さんは経営だけで酒造りには全く関与していなかったんだ。それを聞いたら杜氏さんや従業員はどう思うんだろうね。いや、それ以前にお客さんを馬鹿にしてるのが許せなかったけど……」

 最後の方は力無く、つぶやくように吐き出した感じだ。その表情は哀しげに見えた。やっぱりここのマスターは心から酒を愛してるんだなぁ。


 

次回に続く

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