“冷や”と“冷酒”
前回の続き
若いカップルの客を相手にマスターが話をしている間、俺はおとなしく美味いクジラを肴に美味い酒をゆっくりと味わっていた。が、ゆっくりと言ったって限度がある。いくら大事に呑んでたって、グラス一杯の酒なんてそう長く呑んでいられるものでもない。気が付けばワイングラスの酒は空になっていた。
マスターもようやく俺の酒がなくなったことに気がついたようで、話を切り上げてこちらを見た。
「この酒、ホント美味いよ。もう一杯ちょうだい」
俺はマスターにグラスを突きつけた。
「悪いけどお一人様一杯限りだ。こういう美味い酒はたくさん呑むもんじゃない。もう一杯呑みたい、ってところで我慢するくらいが丁度イイんだ」
「ええ、そんなぁ」
何が丁度イイんだか。当然お代りがもらえると思って、鯨も半分以上残ってるのに……。
「じゃあ一回お会計してよ。それで店を出るからさ。そしたらもう一杯もらえる?」
「往生際が悪いねぇ。一回一杯でも一日一杯でもないの、“一人一杯”。旦那はそれで終了」
そうだ、確かに“一期一会”の覚悟で呑むつもりだったのに、いつの間にかその覚悟が薄らいでいたんだ。いつもマティーニ好きなだけお代わりしてるからなぁ。これは俺が迂闊だった。でも、だからと言って一杯しか呑めないのは耐え難い。
「分かった。じゃあ違う酒でイイから、マスターオススメの酒を出してよ。取って置きの吟醸酒を冷やで」
「OK、吟醸酒の冷やね」
マスターはちょっと意味ありげに念を押して仕度に取り掛かった。一体どんな酒を呑ませてくれるんだろうか。
しばらく待っていると今度はワイングラスではなくタンブラーで出てきた。さっそく一口呑んでみる。が……。
「マスター、これ全然冷えてないじゃない」
先ほどの酒はグラスまでしっかりと冷やしてあったのに。
「そりゃそうさ、お前さんが“冷や”でって頼むから常温の酒を出してやったんだぜ」
「“冷や”って冷たい酒のことでしょ?」
「“冷や酒”って言ったらお燗してない酒のことを言うんだよ。おでん屋台のコップ酒のことさ。おでん屋台で冷たく冷やした酒なんか出さないだろ」
「そりゃぁ、そうだけど……」
俺は冷たい酒が呑みたいのだが、マスターは更に話を続けるようだ。
「江戸時代とかは季節に関係なく、酒は普通燗して呑むものだったんだ。それを省略して『ああ、かまわねぇでくれ、冷で結構だ』みたいな感じで燗をつけずに呑んだのが“冷や”。冷やしてあるってことじゃなくって“燗をつけてない”っていう意味なんだよ。それを“冷”っていう字面だけ見て“冷たい酒”って勘違いしてるヤツが多いんだよなぁ。江戸時代に冷えた酒なんか庶民が呑めるわけないからな。尤も、冬場なら冷酒になるだろうけど」
「でもさぁマスター」
やっぱり俺としてはちょっとくらい反論しておきたい。
「酒屋さんなんかでも『夏は冷やで呑むと美味しいです』みたいな勧め方する人いるよ」
「そうなんだよなぁ、酒屋はもちろん、ヘタすると酒造業界の人間でも“冷や”のことを“冷酒”だと思ってるヤツがいるんだよ。まぁ業界人が冷酒のつもりで“冷や”って言ったのを、お客も“冷酒”のことだと思って聞いてるんなら、お互い勘違いで話としては成立しちゃうんだけどな。そのへんをよく分かってる蔵なんかだと“オススメの飲み方”なんて表記に“常温”“冷やして”みたいに“冷や”っていう言葉を避けて使ってたりするんだけど」
そうなのか、冷やって冷酒じゃないんだ。きっと勘違いしてるのは俺だけじゃないと思うんだけど。って言うか殆んどの人が勘違いして覚えてるんじゃないのかな。
「“燗”“冷や”ってきて“冷酒”ってちょっとおかしいよね。燗酒、冷や酒はあるけど、冷酒には初めから“酒”が付いちゃってる。冷酒酒、じゃ変だし。何でかな」
「それはさっき言った話しさ。燗とか冷やってのは冷蔵庫のなかった江戸時代の言葉。だから酒を冷たくして呑むっていう発想は出てこない。まぁそれ以前に、冷たくして美味しいような酒がなかったから、っていうこともあるんだけどね」
「昔の酒って美味くなかったの?」
「吟醸酒の造り方をおさらいしてみなよ。まず精白だ。米を半分近くまで削るってのがもう高度だろ。そして本醸造なんかの倍の日数を掛けて低温でじっくりと仕込んでいくんだ。醪の発酵具合を見て温度を上げたり下げたり。電気や設備のない時代にはそんな酒は造りようがない」
「そうか、美味い酒って杜氏さんの技術だけじゃなくて、機械とかの設備なんかも重要なんだね」
「酵母のことも忘れちゃいけないよ。研究に研究を重ねた結果として、造り易くて美味い酒になってくれる酵母が開発されるんだ。日本酒はずっと進化を続けてたんだよ」
何気なく日本酒を呑んでいたような気がするけど、その製造は大変なものなんだな。普段洋酒ばっかりだけど、もっと日本の誇る酒文化にも接しないといけないな。
「ちょっと話が跳んじゃったけど、要するに“冷や”ってのは燗してない常温の酒。今でこそレストランなんかで“お冷や”って言うと氷の入った冷たい水が出てくるけど、昔の一膳飯屋なんかで“お冷や”って言ったらそのまま水道の水が出てきたものさ」
「それは分かったからさ、冷えたお酒もらえないかな?」
「ちゃんとコップ一杯の冷や酒飲み干してからな」
自分でオーダーしたんだから仕方がない。俺は残りのクジラをつまみながら、常温の酒を呑み始めた。が、アレ? 常温の酒も結構相性がイイや。いつもマティーニばかり飲んでるから冷たい酒が美味い酒、みたいに錯覚してたけど、これは意外だ。何でも実際に試してみないと分からないものだな。
次回に続く




