クジラベーコン
夜明ヶ前のドアを開けると、今夜は何やらいつもとは違う雰囲気だった。その理由はBGM。普段は普通にジャズを中心に流しているのだが、今夜はどういうわけか三味線が流れている。どうもバーには不似合いなBGMだ。俺はマスターに掛ける第一声をどうしようか考えながら、いつものカウンター席の隅に腰掛けた。
「コレは誰の三味線? 吉田兄弟とか」
取り敢えず三味線は門外だ。知ってるプレイヤーの名前はそれくらいしかないので、とにかく知ったかぶって入れてみた。
「福居典美さんだよ」
全く知らない名前が返ってきた。もうまるでお手上げである。三味線の知識は全くないので、これ以上話を発展させる自信がない。
と、普段なら入店と同時に俺のマティーニの支度を勝手に始めてしまうマスターが、今夜に限って用意する気配がない。何やら企んでるのかも知れない。と警戒していると、
「日本酒を呑まないかい?」
いきなり日本酒を勧められたけど、今夜はそんな気分じゃないんだよなぁ~。いつも通り、マティーニでビシッと決める予定だったんだが……。
「いいや、今夜は遠慮しとくよ」
「そうかい、せっかく美味いクジラベーコンが入ったんだけど残念だ」
何かありそうだと思ったら、そういう話か。全く意地悪なマスターだ。
「そういうことは最初に言ってよ。それだったら話は別、日本酒いただきますよ」
「高いけどイイかい?」
「マスターに勧められたら断われないよ。こういうのは一期一会だからさ、値段は別」
マスターはすました顔で冷蔵庫から酒を取り出し、俺に背を向けるようにしてワイングラスに注ぎ俺の前に置いた。そのまま何も言わずに肴の支度に移る。日本酒のイメージからするとワイングラスで提供されることにちょっと違和感を感じるのだけど、まず一口呑んでみた。
「美味い! 何コレ! どこのお酒?」
あまりの美味さについ大きな声を出してしまった。日本酒はあまり呑まないが、これはスゴい酒だ。一体ここのマスターはどこからこんな美味い酒を見つけてくるんだろうか? よく冷えているがふくよかな甘みがあって、日本酒に対する印象が根底から覆されるようだ。
「当ててごらん。一杯タダにしてあげるから」
「そういうの苦手なんだって。なんだろうなぁ。吟醸酒ってのはさすがに分かるけど、銘柄まではなぁ・クジラだから“酔鯨”とか」
「当たらずとも遠からじ、ってとこだな」
「え、唐辛子?」
初めて呑んだ美味い酒の銘柄を当てろと言われても、俺如きが見当の付くはずもない。お手上げ状態でいると、マスターは緑を基調とした灰釉の俎板皿にクジラベーコンを盛り付けて俺の前に置いた。
「畝須っていう赤身の多い鯨ベーコンだ。鯨は結構当たりハズレがあるけど、コイツは最高だ。俺が味見したんだから間違いない」
悔しいが、ここのマスターがそう言うなら間違いなく美味いに違いない。鯨の、特に赤身の部分なんかは保存の仕方によってかなり味が左右されたりするけど、マスターが仕入れるくらいだからよっぽど美味かったんだろう。
俺はひと切れ箸でつまんで口へと運んだ。何とも言えない豊かな風味、あの鯨の独特な臭みもなく、脂臭さもなく軽やかでしつこくない。柔らか過ぎず適度な口当たり。コレは確かに美味い。飲み下すのが勿体なくなるような旨さだ。そこへ先程の酒を流し込むと、えも言われぬ絶妙な味わいだ。これがワインやビールだったら台無しになるところだろう。いや、たとえ日本酒でも今呑んでいるような美味い酒じゃなかったらこれほどの満足感は得られないだろう。
「どうだい、美味かろう?」
陶然として押し黙ってしまった俺は、マスターの一言で我に返った。
「美味いなんてもんじゃないよ、コレはまさに最高だね」
「サラシクジラや赤身も旨いけど、私はね、このベーコンが最高に好きなのさ」
俺の子供の頃には鯨の味噌漬けが学校給食で出たりしたけど、それからは想像も出来ないようなクジラベーコンの味だった。
「これはなんて言うクジラなの?」
「ツチクジラだよ。ミンククジラなんてのもよく聞く名前だと思うけど、コッチの方が捕鯨頭数が多いんだ。千葉県の特産品で“くじらのたれ”なんてのがあるだろ? あれはこのツチクジラを使ってつくってるんだ」
“くじらのたれ”は俺も大好きだ。ちょっとビーフジャーキーみたいな感じで、焼酎のつまみにもよく合う。
俺はマスターの話を聴きながら、ゆっくりとクジラベーコンを食べて酒を呑んだ。勿体なくて出来るだけ時間を掛けて楽しみたくなってしまう。
「この鯨と酒の取合せは最高だね、ホントに。こうなるとますます酒の名前が知りたくなってきたよ。いや、どうしても知りたい! マスター教えて」
「当てたら奢ってやるのに。もうギヴアップかい?」
「ギヴアップも何も、全く初めての味なんだから当てられるわけないよ」
「そうかい、残念だね。じゃあ教えてあげようか」
マスターはそう言って冷蔵庫から酒を取り出そうとしたが、その時丁度二人連れのお客が来店してしまった。マスターは出し掛けた酒をそのまま冷蔵庫へ仕舞い、若い男女の客を一瞥した。残念だがどうやらまだしばらく、この美味い酒の名前はお預けになるらしい。
次回に続く