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BAR 夜明ヶ前  作者: 沼 正平
10/99

歌声BAR

 グラスの氷がカランと音を立てた。マスターは一瞬俺のグラスに視線を注ぐが、まだ空いていない事を確認すると、また仕込みに戻った。今夜はちょっとゆっくり目にスコッチをオン・ザ・ロックでやっている。グレンモーレンジ10年。ピート香が抑えられていて、バーボン樽由来の甘やかな香りがこのシングル・モルトの魅力だ。

 BGMにはセロニアス・モンクの“ブリリアント・コーナーズ”が掛かっている。モンクのヘタウマな演奏も、このモルトに負けないくらい味わいがあって楽しい。2管のフロントがまた見事にモンク・ワールドを体現している。

「マスター、モンクはやっぱり天才だよね」

 俺はマスターの選盤に賛意を示すつもりでそう言った。が、マスターの返答は違っていた。

「私はそうは思わないね。確かに唯一無二なピアノだけど、天才とは言い難い」

「そうかな。じゃあどんなのが天才なの?」

「そうだな」

 マスターはそこで仕込みの手を止めて、腕を組んで考え出した。

「チャーリー・パーカーは、まぁ天才だろう。後はバド・パウエルとキース・ジャレットくらいじゃないのかな、天才ジャズマンってのは」

「え、三人だけ?」

「マイルスだってトレーンだって、ちょっと天才とは言えないだろ。ビル・エヴァンスもアート・ペッパーも。ジャズに天才ってのは合わないんじゃないのかな。クリフォード・ブラウンでさえ、天才の部類に入れるのは躊躇ちゅうちょするよな」

 そうかぁ、パーカーとバドとキース。確かに天才だよなぁ。

「でもマスター、キースのソロとかあまり掛けないよね。何で?」

「キースは興が乗ってくると発情ザルみたいにキーキー鳴くだろ。ちょっとお店では掛けづらいよな。あれをカットしてくれたらBGMでも使えるんだけどな」

 酷い言われようだが、確かにあれは気になる。

 最後の曲、“ベムシャ・スゥイング”が掛かった時、二人連れの客が入ってきた。まだ20代前半の若者だ。一人は茶髪、もう一人は短髪で髭を生やしていた。

「ホラ、普通のバーじゃん。カラオケとか無いよ」

 茶髪の言葉にマスターがピクっと反応する。“カラオケ”はマスターの嫌いな言葉の一つだ。何の愛想もなくおしぼりとメニューを渡す。

「どうする?」

「取り敢えずビールでいいよ」

「じゃ俺も」

 “取り敢えずビール”もまた、マスターの嫌いな言葉だ。変な絡み方しなければいいけど……。

「ビールっても、色んなのがあるぜ。何にするよ」

「キリンでイイよ」

 マスターは怖いほど無表情だ。この二人、そのうち追い出されるんじゃないのかな。二人の注文は“キリンビール”だったが、マスターは緑のボトルの栓を抜いて、二人の前にグラスと共に置いた。“キリン ハートランド”だ。二人は気にもせずハートランドをグラスに注いで飲む。

「美味いなぁ!」

 ヒゲが一気に飲み乾し、残りを注ぐ。

「お客さん、うちにはカラオケはないけど、よかったらアカペラで歌っていただいても結構ですよ。今のところあそこの隅にいるお客さんだけだし」

 マスターが俺を指差す。全く失礼だなぁ。それにしてもやっぱり絡まずにはいられないんだなぁ、この人は。二人の若いのは一体どんな対応をするんだろうか。見ものと言っては見ものだ。ちょうどレコードも終わったところだ。マスターが針を上げジャケットに戻す。

「歌ってイイってさ。折角だから歌っちゃえよ」

 ヒゲが茶髪に言う。

「そうだな、美味いビール飲んで喉も潤ったし。いっちょ歌うか」

 茶髪は構えるでもなく至って自然体で歌いだした。曲は“フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン”、それもキレイなテノールで、まるでジャズ・バーでプロの歌を聴いているかのようだった。俺は勿論びっくりしたけど、マスターも目が点になっている。

 抑揚もつけずビブラートも掛けず、まるでBGMのように自然な歌い方だった。しかもこのバーで歌う曲としては抜群の選曲と言える。歌い終わった時、俺もマスターもしばらく余韻に浸っていたが、俺が拍手するとマスターも思い出したように手を叩き出した。

「いやぁびっくりした。良かった良かった! いい歌を聴かせてもらったお礼に、一杯ご馳走させてくれ」

「え、イイんですか? じゃあさっきのビールをもう一本」

「お、イイなぁ。じゃ俺も歌っちゃおうかな。お前もまた頼むよ」

 そう言うとヒゲは“ウォーシング・マチルダ”を歌い始める。2小節歌ったところで茶髪がハモる。これもまた息がピッタリで素晴らしい歌唱だった。美味いモルトが更に美味くなったように感じる。そう、酒の味には“雰囲気”も大切な要素だ。味だけなら家で飲んでればイイんだから。だからこそバーの雰囲気に客はお金を払う。しかし、こんな素敵な生歌を聴けるってのは堪らない贅沢だ。こういう嬉しいハプニングがあるから外飲みはやめられない。

 二人が歌い終わって、またもや拍手喝采。

「オーストラリア民謡に敬意を表して、君にはこのビールを奢ろう」

 マスターはそう言ってXXXXフォーエックスをグラスに注いでヒゲの前に置く。

「やった! ありがとうございます」

「悪かったなぁ、観客もいないのに歌ってもらって。勿体無いことしたな」

「いやぁ、歌えてビール奢ってもらって、ラッキーっすよ」

 少ない、というか唯一の観客である俺としては、やっぱりお礼しないと気が済まないな。

「良かったら俺からも何か一杯奢らせてもらえないかな」

「いただくのは一杯までにしときますよ。タカリみたいになっちゃったらこの次、来づらいですから」

 茶髪が言う。なかなか感心な心懸けだ。

「いやぁ立派なもんだ。是非ウチの常連になってもらいたいもんだ。いつでもお待ちしてるよ」

 マスターも現金なものだ。最初は喧嘩吹っかけようとしてたくせに……。

 さて、そろそろお代わりを頼みたいところなのだが、マスターは若者二人と意気投合しちゃってるみたいだ。まぁこの若者二人のおかげで楽しい時間を過ごすことができたし、しばらくは一人、余韻に浸っているか。マスターが気付くまで……。


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