歌声BAR
グラスの氷がカランと音を立てた。マスターは一瞬俺のグラスに視線を注ぐが、まだ空いていない事を確認すると、また仕込みに戻った。今夜はちょっとゆっくり目にスコッチをオン・ザ・ロックでやっている。グレンモーレンジ10年。ピート香が抑えられていて、バーボン樽由来の甘やかな香りがこのシングル・モルトの魅力だ。
BGMにはセロニアス・モンクの“ブリリアント・コーナーズ”が掛かっている。モンクのヘタウマな演奏も、このモルトに負けないくらい味わいがあって楽しい。2管のフロントがまた見事にモンク・ワールドを体現している。
「マスター、モンクはやっぱり天才だよね」
俺はマスターの選盤に賛意を示すつもりでそう言った。が、マスターの返答は違っていた。
「私はそうは思わないね。確かに唯一無二なピアノだけど、天才とは言い難い」
「そうかな。じゃあどんなのが天才なの?」
「そうだな」
マスターはそこで仕込みの手を止めて、腕を組んで考え出した。
「チャーリー・パーカーは、まぁ天才だろう。後はバド・パウエルとキース・ジャレットくらいじゃないのかな、天才ジャズマンってのは」
「え、三人だけ?」
「マイルスだってトレーンだって、ちょっと天才とは言えないだろ。ビル・エヴァンスもアート・ペッパーも。ジャズに天才ってのは合わないんじゃないのかな。クリフォード・ブラウンでさえ、天才の部類に入れるのは躊躇するよな」
そうかぁ、パーカーとバドとキース。確かに天才だよなぁ。
「でもマスター、キースのソロとかあまり掛けないよね。何で?」
「キースは興が乗ってくると発情ザルみたいにキーキー鳴くだろ。ちょっとお店では掛けづらいよな。あれをカットしてくれたらBGMでも使えるんだけどな」
酷い言われようだが、確かにあれは気になる。
最後の曲、“ベムシャ・スゥイング”が掛かった時、二人連れの客が入ってきた。まだ20代前半の若者だ。一人は茶髪、もう一人は短髪で髭を生やしていた。
「ホラ、普通のバーじゃん。カラオケとか無いよ」
茶髪の言葉にマスターがピクっと反応する。“カラオケ”はマスターの嫌いな言葉の一つだ。何の愛想もなくおしぼりとメニューを渡す。
「どうする?」
「取り敢えずビールでいいよ」
「じゃ俺も」
“取り敢えずビール”もまた、マスターの嫌いな言葉だ。変な絡み方しなければいいけど……。
「ビールっても、色んなのがあるぜ。何にするよ」
「キリンでイイよ」
マスターは怖いほど無表情だ。この二人、そのうち追い出されるんじゃないのかな。二人の注文は“キリンビール”だったが、マスターは緑のボトルの栓を抜いて、二人の前にグラスと共に置いた。“キリン ハートランド”だ。二人は気にもせずハートランドをグラスに注いで飲む。
「美味いなぁ!」
ヒゲが一気に飲み乾し、残りを注ぐ。
「お客さん、うちにはカラオケはないけど、よかったらアカペラで歌っていただいても結構ですよ。今のところあそこの隅にいるお客さんだけだし」
マスターが俺を指差す。全く失礼だなぁ。それにしてもやっぱり絡まずにはいられないんだなぁ、この人は。二人の若いのは一体どんな対応をするんだろうか。見ものと言っては見ものだ。ちょうどレコードも終わったところだ。マスターが針を上げジャケットに戻す。
「歌ってイイってさ。折角だから歌っちゃえよ」
ヒゲが茶髪に言う。
「そうだな、美味いビール飲んで喉も潤ったし。いっちょ歌うか」
茶髪は構えるでもなく至って自然体で歌いだした。曲は“フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン”、それもキレイなテノールで、まるでジャズ・バーでプロの歌を聴いているかのようだった。俺は勿論びっくりしたけど、マスターも目が点になっている。
抑揚もつけずビブラートも掛けず、まるでBGMのように自然な歌い方だった。しかもこのバーで歌う曲としては抜群の選曲と言える。歌い終わった時、俺もマスターもしばらく余韻に浸っていたが、俺が拍手するとマスターも思い出したように手を叩き出した。
「いやぁびっくりした。良かった良かった! いい歌を聴かせてもらったお礼に、一杯ご馳走させてくれ」
「え、イイんですか? じゃあさっきのビールをもう一本」
「お、イイなぁ。じゃ俺も歌っちゃおうかな。お前もまた頼むよ」
そう言うとヒゲは“ウォーシング・マチルダ”を歌い始める。2小節歌ったところで茶髪がハモる。これもまた息がピッタリで素晴らしい歌唱だった。美味いモルトが更に美味くなったように感じる。そう、酒の味には“雰囲気”も大切な要素だ。味だけなら家で飲んでればイイんだから。だからこそバーの雰囲気に客はお金を払う。しかし、こんな素敵な生歌を聴けるってのは堪らない贅沢だ。こういう嬉しいハプニングがあるから外飲みはやめられない。
二人が歌い終わって、またもや拍手喝采。
「オーストラリア民謡に敬意を表して、君にはこのビールを奢ろう」
マスターはそう言ってXXXXをグラスに注いでヒゲの前に置く。
「やった! ありがとうございます」
「悪かったなぁ、観客もいないのに歌ってもらって。勿体無いことしたな」
「いやぁ、歌えてビール奢ってもらって、ラッキーっすよ」
少ない、というか唯一の観客である俺としては、やっぱりお礼しないと気が済まないな。
「良かったら俺からも何か一杯奢らせてもらえないかな」
「いただくのは一杯までにしときますよ。タカリみたいになっちゃったらこの次、来づらいですから」
茶髪が言う。なかなか感心な心懸けだ。
「いやぁ立派なもんだ。是非ウチの常連になってもらいたいもんだ。いつでもお待ちしてるよ」
マスターも現金なものだ。最初は喧嘩吹っかけようとしてたくせに……。
さて、そろそろお代わりを頼みたいところなのだが、マスターは若者二人と意気投合しちゃってるみたいだ。まぁこの若者二人のおかげで楽しい時間を過ごすことができたし、しばらくは一人、余韻に浸っているか。マスターが気付くまで……。




