Grim Reaper - sandy
砂が落ちる。
砂時計の粒は、かすかな音を立てて、落ち続けていた。だが、減らない。上の器から下の器に移動しているのに、すり鉢状にすぼまった形も、堆積した砂山も姿を変えない。
竹原美羽は、それをじっと見る。
行き過ぎる人々の顔にそれを見る。
サラサラ
耳を澄ませば聞こえる。
都会の喧噪の中でも、砂の音は耳に届いた。
子供の声を聞いた。押し殺した泣き声だった。砂の音に混じって聞こえる。ざらついた音だった。
街を歩いていると、時折、そういう音を聞いた。聞きたくなくても、聞いてしまう。耳を傾ければ、音の発生源もわかった。
――いたい。
――ごめんなさい。
二つの言葉が繰り返されていた。
美羽は住宅街の中を走った。厚手のコートが邪魔だった。脱いで脇に抱えた。冬の寒さが肌を刺す。
タイトなスーツのスカートが膝の動きを制限し、あまり早くは走れない。パンツスタイルにしておけばよかったと、今更ながら後悔する。ヒールの低いパンプスが、少しだけマシだった。
もう一度、悲鳴を聞いた。幼い男の子の声だとわかった。
――いたい。
苦痛の言葉を聞いている人間がいる。痛みを与えている人間だ。子供に酷い仕打ちをしている当人が、間近で悲鳴を聞いている。
――ごめんなさい。
繰り返される幼い言葉。悲鳴を聞いても、やめない人間がいる。
――いたい。
子供の声が聞こえないのか。あるいは、聞かないのか。聞く気がないのか。
美羽は一軒の家を見上げた。築一年も経っていない。クリーム色の外壁には、汚れひとつなかった。
二度、呼び鈴を鳴らした。
いびつな砂の音がやんだ。ここだ。美羽は確信した。
険しかった表情を緩める。しばらくして、ドアホンから声がした。
「どちらさまですか」
女の声だった。母親だろう。美羽は小さなカメラに微笑んだ。
「お子様の英会話のご案内をさせていただいております、竹原と申します。ただいま、キャンペーン中のため三ヶ月無料となっておりまして、よろしければご紹介をさせていただけないでしょうか」
無料というところに力を込めて、一気に喋った。こんなときのために、用意していた口上だった。もちろん、教材など持っていない。
「タダなの? ちょっと待って」
軽く会釈して、息を継いだ。
数分後、玄関から現れたのは、美羽よりも少し年上の女性だった。うっすらと化粧の色がある。待たされたのは、そのためだった。
「お子さまは?」
リビングに通された美羽は、さっそく子供の姿を探した。
「今は出掛けているのよ。それで、タダって本当なの?」
「はい。三ヶ月間、無料でご提供させて頂いております」
美羽の耳は、再び砂の音を聞いていた。時折、ざらついたものに変わる。二階から聞こえていた。
――いたいよ。
膝を抱えた男の子の姿が、目に浮かぶようだった。
「四ヶ月目からは、料金が発生いたしますが、お気に召さなかった場合は解約することも可能です」
「三ヶ月でやめたらタダなの?」
主婦の感覚で、無料というのは大きいようだ。
「はい、そうなります。たいていのお子様は、三ヶ月のうちに効果が出まして、それ以降も継続していただいております」
「あら、そうなの」
学習効果についても、興味を引くことができたようだ。
「実は、誰でもというわけにはいかないのです。ある程度、能力のあるお子さまでないと、効果はないものですから」
美羽は、相手の理解を待った。
「つまり、まるっきりの素質のない子はダメってこと?」
「はい。ですので、ちょっとした面接をお願いしております」
母親の目が泳いだ。天秤にかけているのだ。タダと、息子の面談とを。
「ちょっと待ってね。もしかしたら、もう帰ってきているのかもしれない」
「はい」
いるのはわかっていた。美羽は出されたお茶を一口飲んだ。
母親の後ろから、男の子が入ってきた。
美羽のみぞおちがきゅっと締まった。立ち上がりかけた膝を落とし、膝に指を突き立てた。
男の子の砂時計には、ひびが入っていた。幾筋もの白い亀裂が表面を覆い、触れれば壊れてしまいそうだった。
ひどい。
美羽は唾を飲み込んだ。お茶を飲んだばかりだというのに、喉が渇いた。だけど、もう母親が入れた湯飲みには触りたくもなかった。
ザラザラ
砂の音が耳に残った。
「では、面接を行いますので、お母様は少しの間だけ、席を外していただけませんでしょうか」
早く、二人を引き離さなければならない。
「立ち会ってはダメなの?」
母親は驚いた様子だった。
「ええ、これからの学習も、お子様一人でやり遂げなくてはなりませんので」
美羽は有無を言わさなかった。
「そ、そう……」
不安な様子の母親を尻目に、美羽は男の子の手を取った。下を向いたままだった目が、美羽の顔を見た。
「わかったわ。隣にいますので、終わったら呼んでください」
母親が出て行ってから、美羽は男の子の頭を撫でた。
「よく、がんばったわね」
美羽は違和感に気づいた。この年頃の子供なら、母親と離れたくないはずだ。部屋を出る母親の後についていこうとしたり、目で追うはずだった。この子にその素振りはなかった。
「痛い?」
男の子は少し口を開いた。
美羽はかすかな声を聞いた。
――ごめんなさい
壊れそうな幼い身体を、美羽はそっと抱いた。
児童相談所の職員が到着するまで、美羽は話を引き延ばすのに苦労した。彼らが来てから、男の子の身体の怪我について指摘した。
母親はひとしきり泣き叫んでから、虐待を認めた。教育に無関心な夫は、子供のことをすべて母親に押しつけていた。休日も、ゴルフか仕事だった。
相談する相手もおらず、母親は家庭教師や習い事を勧められるがままに契約していた。休みなく勉強させても、あまり効果が上がらず、子供に手を挙げることも多かったという。
この家族には、児童相談所が介入することになった。父親を含めて、一度しっかり相談をするらしい。
美羽は、男の子の傷ついた砂時計が治るように願った。あと何日か遅れていれば、砕け散っていたかもしれないのだ。
身体の傷は、時間が経てば治る。だが、心の傷は治りにくかった。また、治るとも限らなかった。
美羽は行き交う人々を見た。
ほとんどの砂時計は曇りさえ見えなかった。まれに、うっすらと濁っているものがあるくらいだ。ひびが入ったものはなかった。
みんな、強いのか。いや、自分で自分を守っているのだ。守る方法を知っているのである。
あの男の子は、守ってくれるはずの母親から傷をつけられていた。自分自身を守ることは、思いもつかなかったのだろう。
砂時計は時を刻んでいた。落ち続ける砂は、生きている証だった。
サラサラという砂の音が、幾つも重なって聞こえた。
美羽は耳を澄まして、しばらく佇んでいた。