星影の向こう
ヒマラヤの冷たい風が、女の頬を刺す。
数時間前まで、この空は「希望」の色をしていたはずだった。ネパール。愛した男の故郷。彼が「子供も一緒に」と言ってくれた時、彼女は初めて過去の亡霊から解放された心地がした。一度捨てられた自分を、この異国の地が、そして彼が救ってくれるのだと信じていた。
しかし、現実はあまりに鋭い刃だった。
彼の実家で浴びせられた、母親の烈火のごとき怒声。理解できない言葉の端々に混じる、拒絶の響き。そして、隣にいた彼の横顔が、見る間に「息子」の顔へと戻っていくのを彼女は見逃さなかった。
実家を飛び出し、あてもなく歩く山道。彼の表情は、沈みゆく太陽よりも暗い。
「……すまない。母親は裏切れない。……別れよう」
その言葉は、謝罪というよりも、彼自身を納得させるための呪文のようだった。彼は一度も彼女の目を見ることなく、来た道を引き返していく。遠ざかる背中を見送りながら、彼女の心の中で、何かが音を立てて砕け散った。
「ママ?」
足元から、幼い声がした。その瞬間、彼女の中に宿ったのは慈しみではなく、黒く濁った**「拒絶」**だった。
(この子がいたから。この子さえいなければ、私は彼と……)
「……こっちに来なさい」
彼女の声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
彼女は子供の手を引き、深い森の奥へと足を踏み入れる。木々の隙間から差し込む光が、子供の無垢な瞳を照らす。彼女は膝をつき、最後の一片の理性を総動員して、最高の笑顔を作った。
「いい? お母さん、さっきの男の人と大事なお話を……仲直りをしに行ってくるわ。だから、ここでいい子で待っていてね」
子供は、疑うことを知らない顔で小さく頷いた。
「うん、待ってる」
彼女は立ち上がり、一度も振り返ることなく歩き出した。
背後で子供が自分の名を呼ぶ幻聴が聞こえた気がしたが、足は止まらない。彼女が向かう先は、彼のものでも、日本でも、ましてやこの森でもなかった。ただ、自分を縛り付けるすべてから逃げ出せる「どこか」へ。
ネパールの深い森に、一人の子供と、二度と戻らない女の足跡だけが残された。
いつか続きをかきます




