最終話
二〇二三年七月十六日 連休中日
あの子は入院前に年末までの家賃を前払いしていた。だけれど帰ってくる気なんてなかったと思う。あの子は私に、気持ちを整理する時間をくれたにちがいない。だから私は日曜日の来ないこの部屋で、ひとり遺品整理をしている。
遺族から東京の遺品は私の自由にしてほしいと言われていた。遺品といっても機材とグッズがほとんどだ。権利関係や著作物、発注業務の残務処理もある。事務所との契約で、私は死後の代理人に指名されていた。デビュー当初から手伝っていたので、難しい仕事ではない。
調理配信の準備で私が書いたレシピを見つけ、運営宛の書類箱に放り込む。これが本番中に見つからなくて焦ったことも思い出す。処理済みの書類箱がいっぱいになって、もう夜だと気付いた。
あの子が飲んでいた大量の薬をゴミ箱に放り込むと、スマホの通知音が聞こえた。ひと休みしよう、とスマホ片手に冷蔵庫を開ける。水しかない。仕方なく手にした水のペットボトルは、私の手をすり抜けて床で凹んだ。あの子のチャンネルからの通知だった。
『最後の日曜日』が間もなく配信される、という報せだ。
マウスを操作する手が震える。もちろん事務所のスタッフが手配したのだとは、わかっている。思い出すのがつらいかと言うと、まだ思い出にもなっていない。最後の手掛かりを前に興奮しているのとも違う。
あの子のチャンネルを開くとき、胸がピリついた。きっと私は『一週間の謎』など解きたくなかった。あの子を連れて行ったVtuberという職業を、嫌っていたかっただけなのだ。
絵文字の一つもなく素っ気ない、配信の概要欄を見る。あの子は生配信できなくなる可能性も考え、事前に収録した動画を事務所に送っていたようだ。気付かなかった。私が留守の間に収録したのだ。事務所はそれを生配信するので、チャットもできるようだ。
『最後の日曜日』が始まった。月島いくらの2Dモデルと、これまで『調理実習』で作ってきた料理の写真が並んでいる。私が作ったものだから、すべて覚えている。嫌な予感がしたし、それは的中すると思った。
――今日はみんなに謝りたいことが三つ、あります。
――ほんとはね、『この映像を見ているということは、わたしはもうこの世にいないということだ』とか言ってみたかったんだけどさ。一生に一度はさ。でも今はまだ、みんなのチャットもないしね。みんなだったら「今、言ってて草」とか書くじゃんね?
――謝る時にふざけるのよくないね。謝ることが増えちゃった、ごめんね。じゃあ一つ目。月島は病気でたくさん薬を飲んでいます。それで四月くらいから匂いがわからなくなっていました。投薬の影響でね。だから最近の『お取り寄せグルメ』の説明は台本でした。信じて楽しんでくれてた皆さん、ごめんなさい。案件をくださった企業様には事前に説明していました。この動画が公開されたということは、事務所が了解を取ってくれたのだと思います。ご迷惑をおかけした事務所と企業様にもお詫び申し上げます。
チャット欄が目で追えない速度で流れ始めた。これは謝罪配信だ。だめだ、インターネット上でのこれは悪手だ。叩ける人を見つけた獣たちが、あの子の亡骸に群がってくる。病室でお別れした、安らかな寝顔が切り裂かれる。死後まで自分の身を削らなくても、いいじゃないか。
――二つ目。月島はフードスペシャリストですが、お料理はもんじゃ焼きとお好み焼きしか作れません。『調理実習』を楽しんでくれていた皆さん、ごめんなさい。たこ焼きも目玉焼きも作れません。どうしてだろうね? じゃどうやって調理の動画撮ってたかとか気になると思います。それは三つ目。
三つ目はダメだよ、絶対。
――月島は普通の会社員の女の子とルームシェアをして暮らしています。お料理は全部その子が作ってくれていました。動画に映っていたのも、その子の手です。最近は『お取り寄せグルメ』の台本も書いてくれてた。今までだましていて、ごめんなさい。
三つの嘘の告白はチャット欄に火を付け、私の存在意義ごと燃えた。あの子の発言に対する批難と擁護。次に否定派と肯定派の論争。そこに客観的お気持ちを投げ込む外野。論点がズレ始めた。議論が制御できなくなったら、炎上だ。
私はノートパソコンを閉じようとして、やめる。私にも責任があるから。代わりに目を閉じる。
『信じていたレビューが嘘だった』と非難する人は、あの子の味覚にリスペクトがあるから推してくれていたのだ。薬の副作用が出るまでは、本当に類稀な味覚だった。
料理できないことを非難する人は、料理の手際をリスペクトしていたのだろう。それは私なので、ちょっと恥ずかしくなる。
『推しの手だと思って拝んでいたのに、知らん一般人の手だった』、そこに怒っている人には私も申し訳なくなる。知らん一般人でごめん。
『Vtuberと同居できる一般人ズルい』、『男かもしれない』。これはどうすればよいかわからない。私はズルかったのだろうか。男じゃないと、どうやって証明すればいいだろう。私を責めているようで、実のところあの子を責めていないだろうか。あの子をズルいとか、ふしだらだとか言ってないだろうか。もし、あの子を貶めるようなことがあったら、事務所は対応してくれるだろうか。
『他人の台本を読んで楽をしていた』、『他人に作らせて楽をしていた』。この論点で叩かれると、私はもう冷静でいられない。あの子が楽をしていたなんて言われたくない。
それは嘘だ。間違っている。
そもそもVtuberなんて嘘の塊じゃないか。外見も声も口調も、配信内容だって作られたものだ。エンタメにならない部分は視聴者に見せない。だけれど、それはあなたを傷付けるためのインチキとは違う。あなたを楽しませるためのフィクションだ。嘘と言われてもいい。その嘘をみんなで楽しんでいたじゃないか。
配信の音声が止まっていると気付き、目を開けた。画面中央に文章が表示されている。動画は一時停止のようだ。
――視聴者の皆様
――平素より弊社タレントへのご声援ありがとうございます。
――動画の内容は弊社内で事前に精査されており、問題のないものと認識しております。
――「配信はリスナーさんのチャットで完成する」という月島の考えを、弊社は支持します。
事務所の社長から署名入りの声明文だ。ここ数か月は顔を合わせることが多かった。たったこれだけの文章で、チャット欄は静まり返っている。火消しのために慌てて書いた、というより事前に準備していたようだ。いつもはとらえどころのない女社長が、葬儀で見せた寂しそうな顔を思い出す。五万人を超えていた同時接続数が今、二万人を切った。「これ以上燃えない」とわかった野次馬たちが離脱すれば、こんなもの。それでも、いつもの配信より多い同接数が沈黙していた。チャット欄が黙祷しているみたいだと思うのは、私の願望だろうか。
――月島、子供の頃、入院したことがあってさ。何がつらいって、おいしいもの食べられないんだよね。だから退院したら、残りの人生はおいしいものだけ食べよう、って思った。
――人間、生きてる間に食べられる回数には限度があるからね。旅行に行くと実感しない? 胃袋は一つだって。
「牛じゃないからね」と呟くようなチャットが入る。生きていたら、きっと拾った。ギアラが好きだったから、焼肉かモツ串の話でもしただろう。
――いつも見てくれてる人は知ってると思うけどさ。月島は地元の劇団に入ってたんだよね。楽しくてさ、高校出ても続けたくて、でも進路で親と揉めたんだよ。進学しろって。
――夏休み前で、周りが楽しそうなのが余計に辛かった。親とケンカするって、どえらいじゃんね。放課後、みんなが帰ってもなんか動けなくてさ。教室でグズグズしてたら、クラスの子がひとり入ってきたのさ。で、なんか、食べ物くれた。すごく助かったんだよ、夕飯食べる気なかったから。親と顔合わせるの気まずいからさ。落ち込んでる時って、どうせ喉通らないじゃんね。ちょっとつまめるものがあれば、それでよかったの。
十年前の放課後の話だ。この子とあの日の話をしたことはない。私からすれば黒歴史みたいなものだし、この子はもう忘れていると思っていた。
――それが、すっごいおいしかったんだよね。こんなおいしいもの食べたことない、ってくらい。マリオがキノコで大きくなる、あの感じ。わかる? なんか泣けて来ちゃってさ。泣いたら味なんてわからないのに、それでもおいしかった。そう、おいしかったんだよ。
そういえばあの頃から、この子はちょっとズレていたのを思い出す。おいしいから大きくなってるわけじゃないだろ。
――後で調べたら『鶏肉のコンフィ』って料理でさ。三時間以上マリネした鶏肉を、マリネ液ごとオーブンに入れて、低温で二時間火入れするんだよ。女子高生が部活で作るメニューじゃないよね。
あの頃の私はオーブン調理にハマっていた。家で作ると電気代が高いから部活でやるのだ。もちろん前の晩からマリネした材料を持ち込んで。
――月島のダメなところはこれだ、って思った。劇団員続けて、その後どうしたいか考えてなかったのさ。地方の劇団なんて生活できないもんで。そりゃ親は許してくれないじゃんね。
――高校卒業してからは、地元の学校でフードスペシャリストの勉強をしながら、おいしいものがくれる感動をどうやって伝えるか研究してさ。たまに東京のイベントとか講演会にも来てたよ。
――Vtuberもそのつながりで知ってさ。お料理の配信自体はもうたくさんあったから、いいじゃんねー? くらいの気持ちでオーディション受けて、落ちた。「視聴者が親近感や憧れを抱くコンテンツ」じゃないって。当時はVtuberって十代が見るものだったからね。
――それでもしつこく選考受けたんだよ、回数制限ないから。手も品も変えずにね。配信とか業界に詳しくなっていったから、伝え方は変わったかもしれない。そのおかげか、しつこいからもういいか、って思われたのか知らないけど、合格してさ。
――デビューが決まった時さ、最初にしたのはあの子にちゃんと、「一緒に住もう」って言うこと。『鶏肉のコンフィ』をくれたあの子さ。月島はデビュー前から居候してて、おいしいお店教えてもらったり、お料理の話したりして。『月島いくら』はさぁ、その子が産んでくれたようなものだからね、うん。一緒にいてくれたらいいな、って思うじゃんね。その時はまだ月島のビジュアルできてなかったから、最初のママだね。
少し恥じらいながら、デビューの経緯を語った。配信では初めてだ。ルームシェアを始めた理由なんて私も初耳だった。あの時は契約違反を回避するため、とだけ聞かされた。イラストレーターでもないのに『最初のママ』なんて言われて、私はどんな顔をすればいいだろう。この子のことだから、「え、言ってなかったっけ?」なんだろうけれど。
――あの子はね、デビューからずっとお仕事手伝ってくれてたんだ。お料理だけじゃなくてね。なのに病気で迷惑かけても、まだ月島を助けてくれるんだよ。お薬の量が増えて匂いがわからなくなってからは、毎朝アロマオイルを嗅がされてさ。お肉はおいしく感じなくなったって言ったら、エビフライを作ってくれてさ。エビはプリプリだけど、サクサクにするために衣が厚くて、タルタルソースにはピクルスが多め。だから普通の人には、おいしくなかったかもしれないけど。少しでも食事を楽しめるように、食感と刺激を強くしてくれたんだよね。苦手な盛り付けも頑張ってくれたし。
嗅覚を刺激し続けることで改善した事例がある、と医師に言われたのだ。食べても太らない裏切者体質のこの子が、味がわからなくなった途端に痩せた。いっそデブにしてやろう、そう思って頭をひねった。香りの強い料理といっても限度がある。東南アジアの料理をあらかた試した後は、見た目や食感で楽しめるように工夫した。
――病気になる前からさ、月島は好きなものも苦手なものも、できるだけおいしいよって皆に伝えてきたよ。なんでもおいしいと思えたら最強じゃんね。月島はそれが本当の「おいしい」だと思うんだ。それもこれもね、あの子がいてくれたから。ありがとう。今日の最後にそれをさ、どうしても配信で、みんなの前で伝えたかったんだよね。最初のママに、月島はこんなに大きくなりました、ってさ。
――絶対に病気治して帰ってくるからさ。それまで、皆はおいしいもの食べて待ってて。そんで、帰ってきたら何食べたか教えてね。
最後はやけに早口で言ったっきり、マイクをミュートして無言になった。声を出すと、よれよれだから。2Dモデルは口を開けたまま上を向き、困ったような顔をした。実物の表情をトレースできなかったのだ。涙を流さない無言の2Dモデルは、液晶画面に美しく映っていた。
この子らしい、最後の一週間だった。自分の死を受け止めながら、したいことは何一つあきらめなかった。視聴者や仲間と過ごして、隠し事を打ち明けて、最後に私を紹介した。少し恥ずかしそうに。
チャット欄がゆっくり流れている。過去の月島いくらに語りかけるそれは、エンドロールのようだ。病院のベッドで、痩せた身体を最後に抱きしめた、あの体温と感触。それは焼かれた骨と、この美しいモデルのどちらにあるのか。
過去と現在。データと肉体。虚構と現実。そのどれからも自由なVtuberに私も憧れた。私は『Vtuber 月島いくら』も大好きだった。
テーブルの上に齧りかけのプロテインバーを見つけ、手を伸ばす。味がしないのは鼻が詰まっているから――それだけだ。今日は、私の日曜日なんだ。
(終)




