第38話 : 図書室での“密着事件” ― 心臓が限界突破 (1)
期末課題という地味で逃れられない現実に押され、俺――いや、“秀次の身体の俺”(中身は千華)は、放課後の図書室へ向かっていた。
ガラス越しに見える静謐な空間。ページをめくる音と、鉛筆が紙を擦る小さな音だけが漂っている。普段なら落ち着ける場所なのに、今日はなぜか胸がざわつく。
「……黒川、その資料棚の奥、だったよな?」
秀次(中身俺)が落ち着かない声で尋ねてくる。
「そう。……行きましょ。」
努めて平常心を装って返したが、なぜだろう。いつも見慣れている秀次の身体のはずなのに、隣を歩くたびに意識がそっちに引き寄せられる。
――いや、落ち着け私。これは自分の体じゃない。今は“秀次”なんだし。
……と言い聞かせても、効果は限定的だった。
目的の本棚まではすぐに辿り着いた。
棚と棚の間は人ひとりが通れる程度の狭さ。向こう側に探していた資料があり、同時に二人で覗き込んだ、その瞬間だった。
――近い。
いや、“近い”なんてもんじゃない。
胸が、肩が、ほんの数センチで触れそう。
秀次(中身俺)が動きを止めて、同じようにこちらを見る。
私も止まるしかない。呼吸すら浅くなる。
図書室の薄い静寂の中で、心臓の音だけがやけに鮮明だ。
「あ……」
声にならない声が漏れた。
自分の胸が上下しているのがわかる。
近すぎる。
けど、離れられない。
ほんの一歩、秀次の腕が動けば、肩が触れる。胸が当たる。
そんな想像が一瞬で駆け巡って、体が微妙に震えた。
秀次の喉が、ごくりと鳴った。
(な、なにこの距離……動けない……!)
私の指先が、本棚の影に落ちた秀次の肩へ、ふと伸びてしまった。
本当に、触れる直前。
――そのタイミングで、
「すみません、ここ通りますねー」
突然、図書委員が割って入ってきた。
「っ……!」
「わっ、す、すみません!」
反射的に離れた。
一瞬で距離が広がったのに、顔の熱だけ残ったままだ。
図書委員はなんでもない様子で本を抱えて去っていく。
その後ろ姿を見送りながら、私たちは同時にため息を吐いた。
まるで何かが“寸前で”止められたみたいに。
資料を数冊抱えてテーブル席へ移動したものの、さっきの距離の余韻がどうしても抜けない。
文字を追っているはずなのに、脳がうまく回らない。
その証拠に、同じタイミングで同じ本を手に取ろうとして――
そっと重なった。
秀次の手と、私の手が。
「――っ」
触れた瞬間、お互いビクッと反応した。
「あっ、ご、ごめん! ほんとごめん!」
慌てまくる秀次(中身俺)。
その必死さに、逆に胸が変にくすぐられる。
「べ、別に……気にしてないわよ。触れたくらいでどうってこと……ないし」
と言いながら、耳が熱いのを自分が一番よく知っている。
秀次もその変化に気づいたのか、一瞬こちらを見て、すぐ目をそらした。
その目の動きが、また心臓に悪い。
なんなの、今日は……。
妙に、全部が近い。
距離も、声も、温度も。
課題をひとまず終え、図書室を出るころには、外はすっかり夕焼けに染まっていた。
「……帰り、コンビニ寄っていく?」
なんとなく、いつもより少しだけ柔らかい声で秀次が言った。
「うん。アイス、食べたい。」
「じゃあ……半分こ、する?」
「……べ、別にいいけど」
本当はちょっと嬉しい。
そんな自分に驚きつつ、コンビニで買ったアイスの包装を二人で開けた。
夕暮れの空気は涼しく、アイスの甘さがじんわり舌に広がる。
並んで歩きながら食べていると、自然と会話は少なくなった。
でも――
その沈黙が、不思議と心地よかった。
さっきの距離のせいだろうか。
意識しなくても、横にいる秀次の存在がやたらと近く思える。
アイスの棒を見つめながら、胸の奥が妙に落ち着かない。
(……なんでこんなにドキドキしてるんだろ)
理由はわかっている。
でも、認めたくなくて、目をそらす。
――ただひとつだけ確かだったのは。
今日の“距離”は、もう元には戻らない気がしていた。




