第29話 : 調理実習で“距離バグ”が限界を突破する
家庭科室に入った瞬間、油と出汁の混ざったような、懐かしい匂いが鼻をくすぐった。
「今日の調理実習、ペアで味噌汁と生姜焼き作りまーす。怪我しないようにねー」
家庭科の先生の声が響く。
(ペアか……)
嫌な予感しかしない。
だって俺、“千華の身体”の中にいながら――料理スキルゼロだ。
いや、ゼロどころかマイナスかもしれない。
包丁なんて、たまに家で野菜切る時に手のひらまで一緒に切りそうになるレベル。
そんな俺が“黒川千華の完璧ボディ”を使って料理……?
(やばい……絶対やばい……)
隣を見ると、“秀次の身体の千華”が腕を組んでため息をついた。
「あなた、包丁の持ち方わかるの?」
「……わかるわけないだろ。俺の料理レベルなめんなよ」
「なめてるわよ。最大限」
「お前ほんと遠慮ねぇな!」
千華(秀次ボディ)は呆れながらも、エプロンを俺の腰に結び直してくれた。
「ほら、動くな。ずれてる」
「え、ちょ……」
腰に回された手が近い。
距離が近すぎる。
(やべ……開始前から心臓が死ぬ……)
周囲の女子がちらちらとこちらを見てヒソヒソ。
「黒川さん、田辺くんとめっちゃ仲良くない?」
「なんか距離近すぎじゃない?」
「ひえぇ……美少女とイケメンって絵になるね……」
……聞こえてんぞ!?
千華は気にしたふうもなく、淡々と準備を続けている。
「じゃあ、玉ねぎ切って」
「ま、任せろ……」
まな板に玉ねぎ。
手に包丁。
(ここからが本当の地獄か……)
俺は包丁を構えるが、手がプルプル震える。
「おい、手元が不安定すぎるわよ」
「そんなこと言われても……!」
「貸して」
千華は俺の背後に回り込み、そっと俺の手の上に自分の手を重ねた。
「っ……!」
距離、ゼロ。
背中に千華の胸板(秀次ボディ)が軽く触れる。
手の甲に、千華の指がぴったり沿う。
(む、無理だ……こんなん……!!)
「ほら、包丁はこうやって握るの。人差し指と親指で支えて……」
「お、おう……」
耳元で声がする。
息がかかる距離。
頭が真っ白になる。
(やばい……やばい……! 落ち着け……!)
しかし千華も微妙に呼吸が乱れているのがわかった。
(……なんで私、こんなに緊張してるのよ……)
そんな内心が聞こえてきそうな沈黙が、しばらく続いた。
「で、玉ねぎをこうやって……」
千華が少し身体を前に乗り出した瞬間――
「あ」
俺の手元の包丁がずれて、指先に向かって滑った。
刃が触れかけた、その瞬間。
「危ねぇだろ!!」
千華が俺の手を強く引いた。
声が思った以上に強く、優しかった。
一瞬で空気が変わる。
クラス全員が一瞬だけこちらを振り向くほどの、大きな声だった。
でも――怒鳴ったわけじゃない。
心配が本気すぎて声が出た、そんな声。
「お、お前……」
「なにやってんのよ……!」
千華の眉がきゅっと寄る。
叱られてるのに、胸が熱くなる。
怒ってるんじゃない。
本気で心配してくれてる。
それが、わかる。
「っ……悪い。マジで危なかった……」
「ほんとよ……。……気をつけなさい」
千華は包丁を取り上げると、俺の手を軽く握って確認した。
「切れてない? ちょっと見せて」
「だ、大丈夫だって……!」
「大丈夫じゃなさそうだから言ってるのよ!」
耳まで真っ赤だ。
心配の強さと照れが入り混じって、すごく可愛い……いや、千華は今俺の身体に入ってるんだった。
(でも……中身は千華なんだよな……)
その事実が胸にじわりと広がる。
周囲の女子がまたヒソヒソ。
「ねぇ、あの二人……距離近すぎない?」
「黒川さんって誰とでもあんなに仲良かったっけ?」
「なんか……カップルみたい……」
ぎゃあああああ!! 聞こえてます!!!
千華も聞こえているらしく、眉をひそめながらそっぽを向く。
「……もう。ほんと、どいつもこいつも……」
ぼそっとつぶやきながらも、耳だけ赤かった。




