第16話 : 女子トイレの洗礼/男女の壁を痛感する秀次
四時間目の終わり頃。
静まり返った教室の中で、ひとりだけ限界を迎えかけている人間がいた。
(やばい、やばい、やばい……!!
なんでよりによって今なんだよ……!)
千華ボディの秀次は、背筋をこれでもかというほど伸ばし、太腿に力を込めていた。
女子の身体は構造もリズムも違う。
健康優良児・黒川千華のボディは、水分代謝もよくて――
(つまり、トイレ行きてぇぇぇ!!
でも女子トイレって……女子トイレって……!!)
先生の声は右から左へ素通りし、
黒板の文字はすべて「ト」「イ」「レ」に見える。
チャイムが鳴った瞬間、椅子がガタンと鳴った。
「い、いってきます!!」
反射で立ち上がる。
「千華? どうしたの、そんな勢いで」
「なんでもねぇッス!!」
語尾が完全に男子。
それに自分でツッコむ余裕すらない。
女子トイレの前に立った瞬間、足が止まった。
(ここが……異世界の入口……)
心臓が、持久走のラストスパート並みに暴れる。
(大丈夫……俺は今“黒川千華”なんだ……
見た目は100%女子なんだ……
堂々と入ればバレねぇ……バレるわけが……)
深呼吸を三回。
半分泣きそうになりながら、ドアを押した。
――ふわっと、甘い香りが鼻をくすぐる。
シャンプー、ハンドクリーム、柔軟剤。
どこかのお気に入りの香水。
(なにこれ……空気の成分から違うんだけど……!?)
鏡の前では女子たちがメイクを直しながら、楽しげに話している。
「ねぇ聞いた? 影山ってさ、千華のことガチなんだって」
「それ聞いた〜。今日の昼も探してたらしいよ」
「やっぱさ、あれ絶対“狙って”るよね」
胃のあたりが、きゅっと縮んだ。
(……また影山……!?
どこ行っても名前出てくんじゃんあいつ……!)
慌てて個室に避難する。
けれど、ドア一枚くらいでは女子たちの声は遠ざからない。
「影山って、千華にだけ態度違うよね〜」
「うんうん、優しすぎ。あれは狙ってる」
「でも千華ってさ、ああいう“完璧タイプ”苦手そうじゃない?」
(情報量、多ッ!!
なんで俺の身辺情報が女子トイレで分析されてんだよ!!)
急いで用を済ませながらも、耳だけは勝手に反応してしまう。
(……千華、こんなところまで“影山の影”が入り込んでたのか……)
妙な寒気が背筋を走った。
手を洗っていると、不意に肩を軽く叩かれた。
「千華、その髪型、今日めっちゃ似合ってるよ!」
「……っ!?!?」
心臓が、変な音を立てた。
振り向くと、同じクラスの女子がにこにこと笑っている。
「リボンの色変えたでしょ? なんかさ、今日いつもより大人っぽい」
「あ、あぁ……えっと……ありがと……?」
(近い近い近い!!
距離感!! ゼロ距離で褒めてくんじゃねぇ!!
ていうか“褒められる側”の負荷……やば……)
鏡の中には、少し照れた顔の黒川千華がいる。
自分のはずなのに、自分じゃなくて、まともに直視できない。
(……この顔で、毎日人と向き合ってんのか……
メンタルお化けだな、千華……)
なんとか会釈して、その場を離れる。
そして――問題は扉の外だった。
女子トイレを出た瞬間、廊下にいた男子数人の視線が一斉に向く。
「黒川だ……」
「女子トイレから出てきても絵になるって何」
「今日ほんと大人っぽいよな」
(いや、出てきただけだよね!?
トイレ出ただけで評価されるって何事!?)
顔を伏せ、早歩きでその場を去る。
(女子って……ハードモードすぎない……?)
一方その頃、男子トイレ。
秀次ボディの千華は、個室にこもって軽く震えていた。
「男子トイレ……なんか生々しい……」
外からは、遠慮のかけらもない声。
「マジ腹減った〜」
「次コンビニ行かね?」
「先生の走り方、今日やばくなかった?」
(なんでそんな大声で会話できるの……!?
どうして手洗わない人いるのよ!?
女子トイレと情報の密度は似てるのに、方向性が違いすぎる……)
用を済ませて外へ出ると、
男子たちは千華(中身秀次)にほとんど注意を向けない。
「……逆に怖いわね、これ」
誰も見てこない。
誰も気にしない。
――その「軽さ」が、千華には別種の恐怖に感じられた。
放課後。
いつものように、神社の境内。
「女子トイレってさぁ!!」
開口一番、秀次(千華ボディ)が叫んだ。
「空気甘いし、匂い濃いし、噂の精度高すぎるし……
あんな場所で日常生活してんのかよお前ら!!?」
「男子トイレも十分ホラーだったわよ!?
なんであんなに自由なの!?
野生の何かが住んでるの、あそこ!?」
「野生言うな!! 男子全員に謝れ!!」
「じゃあ手ぐらいちゃんと洗わせなさいよ!!」
互いにツッコみ合いながら、
言っていることは本気なのがおかしくて、声を出して笑ってしまう。
ふと、笑いの余韻の中で、秀次がぽつりと言った。
「……女子ってさ、
あんな世界で生きてんだな」
思い出すのは、女子トイレで飛び交っていた影山の噂。
千華の名前は、そこでは「本人のいないところで」話題にされていた。
「近づこうとするだけで、いろんな目に晒されて、
勝手に噂されて、勝手に期待されてさ……
……きついわ、あれ」
千華は、少しだけ視線を落とした。
「だから――」
言いかけて、言葉を選ぶように短く息を吸う。
「だから、近づかれるの……嫌だったんだよ」
ほんの少しだけ掠れた声だった。
影山のことも。
その他の「近づいてくるもの」も。
それがどれだけ彼女の負担になっていたのか。
その一片が、ようやく伝わってくる。
(……そうか)
秀次は、何も言えなくなった。
軽い慰めの言葉も、安い励ましも、
この場では全部、違う気がしたからだ。
ただ、となりに座る千華の横顔を、
いつもより少しだけ長く見つめてしまう。
夕暮れの光が弱まり、
境内はゆっくりと夜の色に染まっていく。
男女の世界の違い。
見られる側と見られない側の違い。
それを同時に味わってしまった二人は、
もう元の「知らないまま」には戻れない。
そのことだけが、はっきりと分かっていた。




