蛇口からちょろり突き出た蛇の舌
星屑による星屑のような童話。
お読みいただけるとうれしいです。
あるところに、今年で50歳になる木村という名の男の人がいました。
古い市営住宅の一室に住んでいる、ごく普通の会社事務員です。
物心ついた頃から、ずっとお母さんと二人暮らしだった木村さん。でも、今はひとり暮らしなのでした。ちょうど一年前くらいのこと、木村さんのお母さんが突然天国に召されてしまったからです。
優しい笑顔の絶えなかったお母さんが急に亡くなってしまってからというもの、木村さんからも笑顔が消えてしまいました。それはまるで、木村さんの体から『心』が離れてしまったかのようでした。『能面』のようにぴくりとも眉を動かさず、1日を過ごすようになってしまったのです。
でも、その頃からだったでしょうか。
薄っぺらい表情とは裏腹に、体にたまった不満みたいな黒い気持ちが「ちょろちょろ」と勝手に漏れてしまうような、そんな人になってしまったのです。口が軽く、ついつい余計なことを言ってしまう、木村さん。人の秘密も、思いついた悪口も、気がつけばその口から「ちょろちょろ」とこぼれ落ちていきました。
以前は、仲の良い同僚もたくさんいました。けれど今では、会社の誰からも信頼されず、距離を置かれるようになりました。
木村さんは、ひとりぼっちでした。
ある晩のこと――。
そろそろ床に就こうかと、木村さんがテレビの電源を消したときでした。キッチンの方から、「ちょろちょろちょろ……」とまるで水道の蛇口から水がもれるような音が聞こえてきたのです。
不思議に思ってキッチンをのぞいてみた木村さんでしたが、びっくりして、後ろにのけぞってしまいました。なぜって、さっきのちょろちょろは蛇口から水が流れ出ているからではなく、蛇口から1本の赤い舌のようなものがちょろりと伸びていて、蛇のようにその身をくねくねと躍らせながら、どこにあるかわからない口でぶつぶつとつぶやく音だったからです。『舌』そのものが、1匹の動物のようでした。
「ちょろちょろ、ちょろりん。そこの木村とやら……おまえの舌も、ちょろちょろとよく動くようになったのう。やはり、わしの力はすごい。だが、まだまだ動きが足りないようじゃ。もっと、ちょろちょろするようにしてやらねばならぬ」
あまりに恐ろしくて、蛇ににらまれたカエルのように木村さんは身動きできません。
何より、目の前でせわしなく動く『舌』の言っていることがよくわかりませんでした。とまどうばかりの木村さんの前に、今度はキッチンのシンク下から1匹のねずみがちょろり現れ、目にも止まらぬ速さで木村さんのもとへとやって来ました。
「そんなところに突っ立てたら、危ないぞ。こっちだ!」
「ええっ!?」
ねずみがえらい剣幕で怒鳴りたてるので、一緒に奥の部屋へと木村さんは走りました。
「僕の名は、『ねずみ大佐』。あの恐ろしい蛇の舌のような魔物、『ジャタン』から世界を救う抵抗勢力に属している者だ。よろしくな」
「ねずみ大佐? ジャタン?? レジスタンス!?」
「ああ、そうだ。いきなりいろいろなことが起こって混乱しているかもしれないが、よく聞いて欲しい。あの魔物に舐められ、とりつかれてしまった人間は、心の中にある水が漏れだして止まらなくなるんだ。言葉が止まらず、秘密も悪口も嫌味も、とにかく全部ちょろちょろとこぼれてしまう。もしもすべての人間がそんなことになったら、この世界は大変なことになるだろう?」
「そ、そうかもしれないね……」
木村さんは、自分の口が軽くなってしまったのは、既に一度、あの『舌』の化け物に舐められてしまったからではないかと思いました。けれど、今でも心の中の黒い水――悪い言葉が勝手に漏れてしまって大変なのに、今よりもっと漏れるようになってしまっては大変と、レジスタンスのねずみ大佐にすがることにしました。
「あの魔物から逃れる方法はないのか?」
「僕らも今、それをひそかに研究してるんだ……。けれど、今のところは、見つかっていない。とにかく、あの『舌』に舐められないことだ」
「ならば、ここから引っ越そうかな。逃げちゃえばいい」
「残念だが、それは意味がない。『ジャタン』は、水道や河川、地下水など、水のあるところを伝って、どこにでも行くことができる魔物なんだ。人間は、水なしでは生きていけないからな。一度、奴に狙われたら……ジャタンがその人物に興味を失くすまで、攻撃をかわし続けるしかない」
それから、木村さんの生活は一変してしまいました。
キッチンなど蛇口のある場所の横を通ったり近づかねばならないときは、ジャタンが蛇口の中に納まっていることをねずみ大佐が確認し、木村さんに合図を送ります。それを見た木村さんは、さっと動いて用事を済ませ、ジャタンに舐められないようにしました。
問題は、夜でした。
木村さんは昼間働いていますし、どうしても夜は寝なければいけません。
木村さんが寝ている間は、ジャタンの魔の手――いや、魔の舌――がびゅんと伸びてきて舐められてしまわないよう、ねずみ大佐が様子を見張ることになりました。全然、心が落ち着きません。
けれど、そんな生活が続いたのも、一週間でした。
いくら夜行性のねずみ大佐といえども、連日の見張りに疲れていたのでしょう。深夜、彼がうつらうつらとしていた隙に、水道の蛇口からべろんととてつもなく長い舌が伸びてきて、奥の部屋で寝ていた木村さんの体をべろりと舐めてしまったのです。
「うわ、しまった! もうお前も終わりだな。さらばだっ!!」
そう言い残すと、ねずみ大佐はちょろちょろと目にも止まらぬ速さで駆け出し、壁にある穴からどこかへ逃げて行ってしまいました。
「ああ、ねずみ大佐! 俺を置いていかないでくれ!」
ジャタンは満足げにその細く赤い体を震わせると、もとの蛇口の中へシュルシュルと戻っていきました。と同時に、体の力が抜けていった木村さん。自分の体の中で、何かが変わって行くのがわかりました。
胸がジンと熱くなり、口元がたまらなくうずうずしだしたのです。
「俺、母ちゃんが死んで、ホントに苦しかった。切なかった。悲しかった……。でも、口に出して言えなかった。情けないし、声に出したらもっと悲しくなってしまう気がしたから……。でも、やっと本当のことが言えて、すっきりしたよ」
「おう、やっと本当の自分をさらけ出すことができたのう……。ならば、ここにわしがいる必要もなくなったわ」
どこからともなく聞こえてきたのは、蛇口の中から発せられたジャタンの言葉でした。
それを薄れゆく意識の中で聞いた木村さんの表情が、みるみる穏やかなものになっていきます。そしてそのまま、寝入ってしまいました。
その、翌朝。
すっきりとした気分で目覚めた木村さんは、何気なくキッチンへと向かいました。木村さんが蛇口をひねると、そこから出てきたのは恐ろしい蛇の舌ではなく、きれいな水でした。ちょろちょろ、ちょろちょろ、と小さな音を立てて流れていきます。どこか優しい音でした。まるで、すべての心の中のわだかまりが流れてしまったかのような、澄んだ音――。
木村さんはその水で顔を洗いながら、思いました。
(ちょろちょろって音、本当は心を潤してくれる、いい音だったんだな)
そしてこれからは自分に正直に、でもその分、他人への思いやりを忘れずに生きていこうと心に決めた、木村さんなのでした。
(おしまい)
お読みいただき、ありがとうございました。
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