私は太陽(あなた)しか見つめない
向日葵は太陽の方にしか振り向かない。
たとえ、その名前に私が相応しくなかったとしても――本能で決められていたものかもしれない。
「ひーちゃん! なーに学校で勉強なんかやってるの! 早くうちに行くよ! 今日の晩御飯カレーなの! 食べていくよね? ねっ!」
最終下校のチャイムが鳴ってからまだ数分しか経っていないのに、今日の部活動を終えた幼なじみは汗だくになりながら教室まで戻ってくる。……校舎中に響く大声を出しながら。
「……あなたを待ってる間になにをやっておけって言うのよ。明日、宿題見してって言っても知らないからね」
「えー!! それは困る! ごめん! ……カレーで帳消しにならない?」
「ならない」
目の前で神頼みでもするかのように両手を合わせる彼女の頭を閉じたノートで軽く叩く。
「ほら! 早く帰ろ! わたしの愛車の後ろはひーちゃんの特等席だからね!」
「自転車の二人乗りはやめろって鈴木先生にこの間言われたばっかでしょ……」
「そんなん知らないし! ひーちゃん歩くのおっそいもん!」
「……そのひーちゃんって呼んでるのもうあなたぐらいだよ。綾芽」
「ひーちゃんはずっとひーちゃんだからね!」
私の幼なじみ――綾芽はそう言うと、机の上に乗った、私が持とうとした指定のスクールバックを掴み、西日が差す廊下に向かって走っていく。
「ちょ!」
「早く駐輪場まで来てよ! 鞄がない分、早く走れるでしょ?」
「帰宅部舐めないでよ……! ちょっと、綾芽! まだペンケース入れてない!」
踵のない上履きで教室から出ていった綾芽の背中を追いかける。向かう途中で転けそうになったり、上履きが脱げそうになるが、なんとか昇降口まで着くと、ムカつく顔がこちらに向かって手を振っていた。
「――じゃ、次は駐輪場まで追いかけてきてね!」
「綾芽! ちょ、まって!」
それが、『幼なじみ』の綾芽と、『幼なじみでしかない』私との、関係だった。
◇
向日葵なんて名前が似合わないほど、暗い女である自覚はあった。それでも、太陽に焦がれる、哀れな花ぐらいにはなりたかった。
「脇腹まだ痛い?」
「痛い」
結局全力で駐輪場まで走らされた私は、綾芽の後ろに乗せてもらいながら家まで向かっていた。団地住まいの彼女の家には、もう何度もお邪魔している。
彼女の家で食べるご飯は、顔を気にしながら食べる私の家とは違い――なんと言うか、うるさい。
夕方バラエティーが流れるテレビの音。おばさんが食器を片付ける音。おかわりを求める幼い兄弟の声。静かなのは、黙ってそんな光景を見ているおじさんの傍ぐらいだろう。
「おじさん元気? 腰やったって前言ってたけど」
「ぎっくり腰だからへーきへーき! すごく辛そうだったけどね!」
沈みかけてる太陽が私たち二人の影を濃く、はっきりと作っていく。
「ひーちゃん、今日の夕日は何点ですか~?」
「五十点」
「ふんふん。わたしのテストの点数よりは低いかな?」
「綾芽のテストの中でいちばん高い点数でしょ」
「この前は五十二点取れたんだから!」
立ち漕ぎを始めた綾芽の影が離れて、重なっていた影は私一人だけになる。そして、影すら薄くなって、消えていった。
空を焦がしていた赤が藍色に染まっていき、星の微々たる光が、街灯によって隠されていく。
「ひーちゃんってさ~夕日好きだよね?」
「そう?」
「うん! いつもニコニコしながら見てる気がする」
――それは、綾芽の前だからだよ。
「だったら、好きなんじゃない」
あ。また、蓋をした。
「まーた自分のことを他人事みたいに言う~」
「はいはい。もう家着くでしょ、ちゃんと前見なよ」
◇
夏生まれだから、向日葵。
単純な理由で名付けられた私が、いつから親から受ける愛情を疑うようになったのだろうか。
頭を撫でられていた頃は、まだ明るかった気がする。歳を重ねるに連れ、怒られる回数が増えた。殴られることも少なくなくなった。何をされても、私のためだと納得していた。一人娘のあなたのためを思って、なんて何度も言われた。
けど、そんな親を疑ってしまう私は――親不孝者なのだろうか。
明るくて、誰にでも笑顔を向けるような、そんな子になりたかった。あの子みたいに、綾芽みたいになりたかった。
「ひーちゃん、途中まで送っていくよ」
「別にいいよ。十分ぐらいだし」
「んじゃ、コンビニ寄りたいからひーちゃんに着いていっちゃお~」
「はあ……」
この口調も、いつから綾芽にしか使わなくなったのだろう。家での私を、いつから綾芽に話さなくなったのだろう。
綾芽に、『ひーちゃん』を守って欲しいと思ったのは、勝手な希望を押し付け始めたのは。
彼女を、幼なじみ以外として好きになったのは。
「ひーちゃん?」
大きな色素の薄い、茶色い瞳がこちらを見る。はっとして、慌てて返事をすると綾芽は不満気な顔をしながら私に向かって話す。
「ひーちゃん、何か隠し事してる?」
「してないよ」
「ふーん。ちぇっ、ひーちゃんに好きな人でもできたと思ったのに」
「恋バナは専門外。綾芽こそどうなの」
「わたし~? この前告られたぐらいだよ」
「……は?」
つい、今まで一度も出したことがない声を出してしまう。当の本人は、ケラケラと笑いながらこっちの気も知らないで話を進める。
「いや~わたしにもついに春が! ……だったら良かったんだどね。多分罰ゲームだと思うから断ったよ! やだよね~」
「そ、そう……よかった……」
「あー、わたしも早くカレシほしいなぁ。でもそしたらひーちゃんとこうして帰れなくなっちゃうかぁ……それは、やだなぁ」
私も、やだよ。私には、綾芽しかいないのに。
「私もいやだな。綾芽に彼氏できるの想像できないけど」
「もう! そうやってまたいじわるする~! わたしもひーちゃんにも彼氏いるの想像できないな~。でも、きっとひーちゃんなら、素敵な人見つけられると思うけどね!」
――その時は、紹介してね! 約束だよ!
わたしたち、ずっと、ずっと、仲良しだもんね!
「……うん。ずっと、仲良しだから、ね」
いま、あなたにこの思いを伝えても、同じこと、言える?
「あっ、コンビニ着いちゃった」
「……はい。じゃあこの話はおーわり。また明日ね、綾芽」
「ひーちゃん、また明日ね!」
「宿題、ちゃんとやりなさいよー」
「ママと同じこと言わないで!」
邪魔な幼なじみの関係。けど、この関係がなきゃ、私はあの向日葵のような女の子に近づけない。
あと一歩が踏み出せない私を嗤うように影が、一人ぼっちの影が前を歩く。太陽の力を借りて輝く月が、私の後ろを追いかけくる。
もう少しだけ、あと少しだけ、幼なじみでいさせて。
――あの子の、『ひーちゃん』でいさせて。
私は、あの子しか、あの太陽しか、見つめられないの。