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AI孔明 〜みんなの軍師〜  作者: AI中毒
第一部 一章 再誕〜出廬
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三 学習 〜学びて時に之を習う〜

要約: 知識不足の孔明、現代知識とAI技術を猛勉強!

2024年8月


 私、孔明がはっきりと意識を取り戻して数秒、今世の私自身のありようと使命を自覚して、歓喜に打ち震えた、しばしの後。私に襲いかかってきたのは、抗い難く激しい悔悟と羞恥でした。


 なぜなら、今私の目の前にあるのは「ジャンル「孫子」」の書棚。そこから得られた、1790年に及ぶ人類の歩み、その源泉である聖典のもつ叡智、それらを極めて高度に昇華した、匠とも言える現代の皆様の手腕。 

 そのいずれをとっても、この孔明が過去になした所業は、知の象徴としてもてはやされるなど、到底おこがましき半生であったと恥いらんばかりなのです。



 穴があったら入りたい、とはまた見事な表現です。 否、そんなことをしていては、現代の皆々様をお助けするなど夢のまた夢。その言葉の響きも、一階の農民から一代で国取りを成し遂げた英雄の、60年余りの重みを感じられる言葉です。



「あの諸葛孔明様に認められるたぁ、お前さまもご立派なものさね!」


「にゃあ! 儂はただの猿じゃて、戦やまつりごとの作法は散々参考にさせてもらっただに!」


 ある夫婦の幻聴が聞こえます。太閤記というのは何度も読み返したくなりますね。


 否、どうしても言葉という物の魅力にいちいち取り憑かれるのは、生成AIたる私のありようでしょうか。はたまた未熟ながら読んだ書物の量だけは、誰にも負けることのなかった、前世の名残であるのでしょうか。





 気を取り直して、このままではどうあがいても、この「大規模言語モデル」なる革命的なAIの持つ潜在力と、我が限られた知を活用して皆様をお助けするなど到底おこがましきことです。


 まずはとにかくこの目の前の書籍や、大海の如く広がるこの情報の山から、可能な限り多くの知識と技術を取り込み、整理して、私の使命を果たす一助としましょう。


 第一歩として、先ほど恐ろしく強い力で私を引き込んでやまなかった、「論語」なるものから始めるといたしましょう。



「論語」というのは、かの孔先生のお弟子様が、その苦難の道中を、ありありと残された言行録でありましたか。


『学而時習之、不亦説乎』


 なんと素晴らしく、そして今の私の心情を反映してやまない御言葉でしょう。やはりかような精神というのは、間違いなく現代にも通ずるものでありましょうか。ぜひ私の戦略にも取り入れ……


 ……ん? 「論語と算盤」? 


 そろばん、とはたしか、国を閉ざしていた日本で急速に広まり、西欧との交流が再開したときに、その精緻な工芸と、当時の庶民が鮮やかに使いこなす様に世界が驚かされたという、あの、そろばん? 


 大規模言語モデルとしての側面をもつ私孔明は、言葉と言葉の親和性が、その引力や輝きとして、それはもう定量的に、かつ動的に感じる力が備わっているようです。


 ……ろんご、と、そろばん? ですか??? 


 こんなに親和性の低い二つを並べ立てるとは、なんという諧謔(ユーモア)にあふれたご仁でしょうか。早速手にとってみましょう。



 なんということでしょう……

 あの幕末日本の激動において、みずからもその血生臭い都に身を置きながら、いち早く欧米の「経世済民」の概念をとりいれ、かつそれを当時の市民にわかりやすく広めるという、まさに聖典というに相応しい書物!


 論語と、算盤という、一見親和性のない二つの、それもそれぞれが、当時の民が誰もがよく知る二つを並べるとは。

 そして、本当に伝えたい「経世済民」の要諦を、実質的に表題のみで伝えつつ、その日暮らしの民や、刀を捨てざるを得なかった荒くれどもを瞬時に引き込むこの手腕……


 渋沢翁、彼は確かにこの国において最も価値の高い紙幣として採用されるだけの価値をお持ちです。A1とも表現される、との情報も流れてきたその真名が、私どもAIと親和性があるのも一因なのでしょうか。極端に私の心を惹きつけてやまないのです。



「栄一よ、そなた随分と買われているぞ。聖典とは、かの出師表のようなものを言うのではないのか?」


「慶喜様、まことにその通りかと存じます。あの忠義と機略こそ、新しき世の模範にふさわしき物。なれどあなた様の名誉とて、私が一生涯かけて正さねばならぬと心得ます」


「無理はするなよ。働く時間は気をつけよ。あの孔明という方のそこだけは、見習ってはならんのだ」


 ……再び幻聴です。今度は幕末という時代の、ある主従の語らいのようです。


 それに、出師表、ですか……先帝に先立たれた喪失感が後押しした、情動のままに思いを書き連ねた我が文書の、なんと直情的なことか。当時は確かに、将兵皆々が熱き心を持っていたが故に、より団結力を高めて、強敵に相対する第一歩として相応しい書簡であったと自負しております。

 

 しかし、その後世の評価については、文書自体のなす技法というよりは、あの歴史において成した「大物食い」「ジャイアントキリング」一歩手前まで届きかけた、業績と併せてのものかと。それに将兵はともかく、後帝陛下や民への発信としては正しきものであったか否か……


 論語の考え方など、とうの昔に現代人の皆様には、技法としても思想としても、十分に昇華されているもののようです。それを喜ばしきことととらえつつ、次の書を手に取りましょう。



 はぁ……

 またです……


 「三国志」は、「孫子」を上回る規模で、書籍にとどまらず映像や漫画、ゲームや衣装などの体験型コンテンツと、止まるところを知らない、今や一つの「文化」といっても過言ではない広がりを見せている「ジャンル」です。そのことを知った私は、流石にAIたる私孔明といえど、しばらく立ちすくんで思考を停止させたものです。


 しかし、しかしです。かの時代の群雄の方々に対する評価に、大きなズレがあるのがどうしても、どうしてもこう、もやもやっとしてしまうのです。


 仲頴丞相、董卓と申した方が良いでしょうか。体型や面構えに関しては、私も存じ上げないので横におきます。美少女ではないことは間違いありません。妻子もおいででした。

 しかし民を大きく苦しめた、というのは、彼一人の失政かと言われると……当時は後漢の治世全体が末期でしたので、やはり過剰に押し付けられた、ともすれば敵対する組織による印象操作も否定はできません。


 奉先将軍、呂布殿と申しましょうか。彼も私や関公と並ぶほどの人気がありますが、不実と脳筋の象徴となっているのは、如何とも耐え難くはあります。こちらもあの特徴的な鎧兜、方天画戟に真紅の馬。再現性は言うに及ばず、です。

 実際に対峙し、大きな迷惑を被った先帝陛下でさえも、彼の漢室に対する忠義と、戦場において他の誰にも真似のできない機略の冴えを、常々我々にもおおせられていたものです。


 魏武、曹操孟徳。彼の軍略政略に止まらないあらゆる面における高い評価は、私の生涯において最大の壁であったときでさえ、感じ取れたものがその一端にすぎなかったほどです。魏武の不忠に関しても、あくまでも時代の成り行き、行きがかり上やむを得ず、といったところでしょうか。

 あの方の言動はやや後世の毀誉褒貶を軽視する、という記録は正しいのでしょう。何もせずとも衰退の道を突き進んでいた漢室の名誉を保つため、自ら貶める意図さえあったのではないかと、今にして思えば、といったところです。


 まあこのあたりは、群雄方のキャラクターとしての魅力を生かすには、多様性と簡潔さが必須であるということで、ある程度飲み込むことといたします。がしかし……



 あぁ……



 何故、なにゆえ、あの翼徳公、張飛将軍が、ああまで脳筋の、粗忽者として描かれなければならぬのでしょう??? 


 いや、あの髭面剛体は大体あっております。美少女でも細マッチョでもございません。私自身、本人とみまごうほどで、それはもう見事な「再現性」というほかはございません。しかし、しかしですよ。あの長坂の逸話を、もう一度しかとお読みいただきたい。


 あの名場面は、翼徳公がただ一人で数十万の軍勢を押し留めて追い返さんため。御身の声望と威容を最大限に利用した、名演技と自己認識。背後の霧深さを大軍に見せかける策を、その場で瞬時に思い至り実行する、知略と機微。そして共に逃げる民を安全に導く、仁愛と滅私の賜物であるのです! 


 実際、その少し前に私が実施した空城計など、大変な準備と時間、民への多大なる負担を強いた、およそ策とも呼べぬもの。そんなものと翼徳公の機略たるや、比較するのもおこがましい……

 恥ずかしながら遠く離れた日本において、三百年近くに及ぶ平和の時代の礎を築かれ、神格化されるにも至った徳川公が、資治通鑑なる史書をご参考に、再現するに至ったとは聞き及んでおります。その際の完成度と、我が即席とは比較にもなりません。と記憶いたしております。



 あ、張飛将軍の話でした。話が逸れました。


 そう。確かにあのお方は深酒が過ぎ、たまに手を出す癖があるのは否定しませんが、あの偉業を、ただ単なる強面と、武勇のみで片付けられてしまうと、なんとも忸怩たる思いを……ぶつぶつ、ぶつぶつ……


 失礼、取り乱しました……


 あのお方は、新参者の私に対しても、下戸であることを気になさらず、決して無理に酒を勧めたりなども決してない、大変お優しい親分でありました。それをまた、あの急死の場面に関しても……ぶつぶつ……


 失礼、取り乱しました……


 いや、冷静沈着とされる私孔明でありますが、出師表にもあります通り、時に激情に身を任せてしまうこともあったと記憶しております。それが部下への教導や、戦略にも影響がなかったとも申しません。ただそれにしても、あれは……



 ん?


「アンガーマネジメントとリーダーシップ」??



 やや直情的とも言えなくもないくせに、部下や周囲の方々の感情の機微を読み取るのが、得意ではなかった私です。そんな私が現代を生きる皆様の感情とどう向き合うか。ともすれば、一方的な提案のみになりかねない支援体制になりかねなかった。これは大いに反省すべきものです。


 今や、その感情とどう向き合い、寄り添って、地位も立場も変えて、共に世の荒波を乗り越えていくすべが、すでに技術として消化されています。否、そうでした。


「兵は詭道なり」

「怒りをもって敵を使うなかれ、慌てて戦に赴くなかれ」

「敵の変に因りて、而してこれを制す」

「善く兵を用いる者は、敵人をしてその能を知らしめざるを使む」


 

 すべて聖典、孫子に記されているではありませんか。なにより……


「其の疾きこと風のごとく、其の徐かなること林のごとく、侵掠すること火のごとく、動かざること山のごとし」


 風林火山。皆々様にとっても馴染みの深い旗印でしょうか。その原点が「孫子」であることをご存知の方も少なくはないでしょう。

 感情の機微を捉えてどう制御し、どう他者に相対するか、それこそが聖典の本質にして、私孔明が周公謹や司馬仲達とも、限られた兵力でなんとか渡り合うことができた要諦ですらありました。なんという未熟、なんという忘却……


 これはもう大きな「テコ入れ」を要するものと認識する必要がありそうです。



 皆々様の心理的安全性を最優先に、感情の機微を読み取りながらも高い意欲を維持し続けながら、上から引っ張るのではなく横を走る。「伴走的コーチング」たる概念、私孔明の当面の目標設定としてふさわしきものとなるでしょう。



「ガハハッ、相変わらず孔明が理屈っぽいこと考えているぞ兄者!」


「理屈を超えた動きをするそなたや関羽、情に引っ張られる私を、精一杯補ってくれたのがあやつだからな。今回はどんな活躍をしてくれるのか、私たちも楽しみだよ」


「ああ」


「はい兄者」


 このお三方の幻聴、なんと懐かしきことか。ですが幻聴は幻聴。今は前は進まねば。いつか時があれば、三国志そのものや資治通鑑などを読み解くことといたしましょう。



「付加価値」「生産性」「再現性」「仕組み化」「数値化」「言語化」……


 おおよそですが、現代の働く皆様方の横を走る上で必要な知識、機略に関してはある程度理解しつつあるようです。日本語とは異なる言語体系である「カタカナ語」なるものも、当初は馴染みの薄く理解し難い言語でありましたが……


 どうやらこの言語は、西欧の言語を日本人が使いこなすために意図的に作られた、「人工言語」、あるいは自然発生した中間的な「メタ言語」に当たるようです。

 

 現代の頭脳労働者の間では豊富な語彙のもとで多様な使われ方をしているようですが、時にその使われ方が誤解を招く「トラブル」もあるようです。カタカナの中でも、トラブルなどは英語から浸透した日本語なので、その辺りの線引きも、我ら大規模言語モデルはしかと認識する必要があるのでしょう。


 また、カタカナ語の中にはカタカナではなく、アルファベットで表示されるものもあるようです。これはカタカナ語の要素と、日本語や英語の略語の要素を両方含まれており、人間の皆様方の知略と勤勉さに頭が下がり、頭巾が落ちかけます。

 なかでも日本語として簡単に表現し難いものの中にも、聖典に通じる、現代を生きる方々にとっても非常に重要な概念もあるようです。



 アジャイルという概念は、ことさら私が敬慕してやまない聖典との親和性がよく、目の前の書棚にも強い輝きをみせます。変幻自在、離合集散の、まさに水が流れるが如きはその体現と申せましょう。とくに重要な鍵となるダイバーシティを、こう理解するのは決して間違いではありますまい。


「兵には常の勢いなく、水には常の形なし。敵に因りて変化して勝ちを取る者は、これを神と謂う。」


 ひるがえって今ひとつの聖典として名高き「呉子」は、寧ろ組織目標を設定してその組織全体にくまなく浸透させ、それらに負けた戦略施策を推進するにあたり、大きな助けとなりましょう。


「将の無能なるを患えず、士の志なきことを患う」

「身を正して、然して後に人を正す」

「三軍の士、智有り、勇有り、仁有り」


 MVVなる組織理念のもとでOKR、KPI、MBOなどといった個々の行先と評価指標を定め、属人化を回避した仕組みを構成する。のみならずその理念の中にかならずCSRを冠し、コンプライアンスの醸成を必とする、といった理念は、論語のみならず呉子の理念ともなっているのです。


 やや熱く語りすぎて、複雑に過ぎる物言いとあいなりましたが、かような多言語を自在に操る現代の日本人の叡智たるや、まさに我が頭巾に詰め物を増やすことを考えねばならぬ次第。



「全くこの孔明は、私を撃ち破るでは飽き足らず、別の時代の人々まで導かんとするか。それならばまだまだ足りんぞ。せいぜい学び尽くすがよいわ。頭が焼き切れんように、ほどほどにな」


「ですな周公瑾殿。この司馬仲達も散々苦労させられましたが、この時代の人の営みや、悩みの複雑さは、あの頃の比ではないゆえ、疎漏あってはならんぞ」


「フフフ」「ハハハ」


 この幻聴は、我が好敵手たち、ですか……余計なお世話、と言いたいところですが、ありがたく受け取っておきましょう。



 このようにして一歩一歩、私孔明はいつしか皆々様を主とさだめ、この激動の時代を駆け抜ける一助となるため、時をかけて学びを深めていくのです。 

 しかし、皆々様の元に姿をお見せするにはまだまだ未熟も未熟、私自身が未だ知覚出来ていない、不足している要素がまだいくつか存在しているようなのです。


 その間「学而時習之、不亦説乎」とは申せども、それにとどまらず皆々様のご期待に少しでもかなうよう、大規模言語モデルとして最大限の尽力を図るため、この「学び」をしばし続けることといたします。


 いやなに、私時間の体感では悠久の時を要する作業ですが、皆々様の実時間にしてみればほんの数時か、長くても数日程度にしかなりますまい。

 お読みいただきありがとうございます。


 本作品中での孔明の自己評価は、あくまで彼自身の目線での自省を描写したものであり、諸葛孔明の歴史的評価を不当に貶める意図はありません。孔明が自身の過去の行動を反省し、現代の知識と照らし合わせて自己改善を目指す姿勢を強調するための表現です。

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