二百十五 司馬 〜進化を司る者、馬は車に、人は?〜 過去
今回はやや重めの過去展開です。
時は十年近くさかのぼり、AIあるいはデータサイエンスという存在が、今とは別の形で世の中に革新を与えていたころのこと。
情報技術の重要性が、産学あらゆる分野で高まり、多くの理系大学でその倍率が突出し始め、あらゆる分野の専門家が一定レベルの情報技術の素養を求められ始めた。
だがその一方で、国内では当分野の男女比は相変わらず。陰キャやオタク、変わり者のイメージ、そして働き方や評価の合理性、周囲の理解の薄さは、対応が後回しになっていた。
つまり、ITあるいはデジタル化、そしてデータ活用技術の普及推進は、もともと持っていた社会の歪みを、時に別の形で同じくらい、あるいはより大きな歪みに変えることすらあった。
これはそんなありふれた物語。ある五人か六人の、若き情報技術者のこれまでとこれから、でありつつも、それは何百万、あるいは億を超える人の写像、縮図なのかもしれない。
同時に、彼ら彼女らの未来を決める分水嶺は、十年前でも十年後でもなく、今なのかもしれない。
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201?年 某大学 研究室
「それで、君はどういう理由でこの研究室を選んでくれたのかな?」
「はい、僕はちょっとしたゲーム作りとかが趣味で、プログラミングの力が社会に活かせればいいなと思って。ノーコードツールも、開発にはその力が生きるんじゃないかって」
「私は、プログラミングはまだまだなんですが、最近急にネットとかで言われるようになってきたノーコードっていうのに興味を持ち始めて。まだ全然
「うんうん、確かにきっかけなんて様々だからね。でも心配はいらないよ。これまでの先輩たちだって、入って来たきっかけはそれくらい軽いもののことも多いし、それで扱いを変えるなんてことはないからね」
「あたしは、小さい頃から機械いじりとかが好きで、そこから論理回路の細かい原理まで理解できるようになって来たんです。そっからは、言語を媒体としないアルゴリズムってのもありなんじゃないかっておもっていたら、ちょうど先生の研究が、その最先端に行っていそうな気がして、これだ! って思ったんです」
「「おお……」」
「え、あ、そんなに? すごいね。でも女性でそんな感じだと、なかなか周りとも合わなくて大変なんじゃない?」
「そうですね。男兄弟より男らしいなんて、親戚にもしょっちゅう言われていましたし。確かに男性のほうが食いつきはいいんですけどね。よくよく話してみると、女の子にもそういう緻密なところに話が合う人なんて、いくらでもいますからね」
「そうなのか。この研究室で女性が入って来たのは初めてだから、困ったことがあったらなんでも相談してくれていいよ。相談しづらかったら、事務の人とかも助けになると思うから」
おわかりだろうか。一見気を遣っているようには見える。それに、同期や先輩、そして次年度に入ってくるたちも、明らかにレベルの違う彼女に対して一目置く存在。
だがこの後彼女は、先輩や、指導教員自身に対して、容赦ない議論を繰り返していく。最初は物珍しがっていた彼らも、次第に「遠慮なさすぎる議論への煙たさ」「自らの地位を脅かされる殆うさ」に、彼女への扱いに困っていく。
徐々に彼らは、彼女を避けるようになる。折悪くリモートワークが流行り始めると、なかなかアポイントを取れなくなったり(平等かどうかは当人にしかわからない)、研究室への出入りが制限されたりすると、その「やりづらさ」は爆発。
そして、時間が起こる。
「君が執筆した投稿論文。この先輩を著者に加えてほしいんだけど、いいかな?」
「まあ別にいいですけど、この人私の研究にあまり関与していませんし、何か聞かれても答えられないと思いますよ」
「そこは、どうにか彼に理解してもらえるようにして欲しいんだよ。彼も業績がちょっと伸び悩んでいてね」
「それは、あたしが努力することではないですよね? あの人全然議論に参加すらしませんよね?」
「この分野、女性に慣れていない人なんていくらでもいるだろう? そんなことが理由で、彼のキャリアが伸び悩むなんて、勿体無いだろ? 君は十分才能あるし、この先珍しい女性エンジニアとして、社会でも重宝されるはずだよ。これくらい気を遣ってもいいんじゃないかな?」
「わかりました。ご自由に。ですが、その責任は先生にありますからね」
「ああ、もちろんだ」
そしてその数ヶ月後、その先輩の博士審査。彼は本人の実績が少しだけ足りず、彼女の研究内容の一部を間借りする形になった結果、その部分の質疑応答でまともに答えられず、合否を保留という結果が下された。
彼は就職内定先の厚意で、博士取得保留のまま、そのキャリアを始めることとなる。そして、その指導教員は、「後輩の協力が十分ではなかった」ことを匂わせるようになる。国内だけでなく米国などの英語圏でも少しずつ名が売れ始めていたその教員は、一人の学生のキャリアに大きな影を落とす。
進藤咲楽。大学修士課程中退。現職、南米某国にて、ハードウェアエンジニアに従事しながら、現地にて論文博士号を取得。
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同時期 某大学 別の研究室
「張部君、やっぱり今回も飲み会は不参加? 普段の気さくな君なら、飲まなくても全然
「はい、すみません。やっぱ体質が厄介ですよね。料理やグラスに少し入っただけでもダメですし、隣の人の息がかかるだけでも相当気持ち悪くなってしまうんです。何度かそれで迷惑かけたこともありますし」
「そっかー。残念。まあ君とコミュニケーションうまく行ってない人とか、留学生含めても誰一人いないから、大丈夫っちゃ大丈夫なんだけどさ。何カ国喋れるんだよ君?」
『(タイ語)シュン、やっぱむりかー。卒業前に一度、とはおもったんだけどね』
『(英語)はい。僕が原因で両親別居しちゃっているんで、本当にこの体質を恨んでいます。あんな仲良いのに、父が飲んで帰ったら、それだけでアウトなんですよ。母は飲めない程度なんですけどね。なんすかこのfu〇〇n ゲノム』
「お、おお。なんだその重たいエピソード、そして流暢かつ日本人でもわかる英語」
「そういえば高専の同期とは、お茶会とかしているんだっけ?」
「はい。彼らも、お酒が入る時は最初っから声かけてこないですね」
『(英語)ねえ、そしたらこういうのはどうなのかな? 最近近くにできたよ?』
『(英語)ん? ハラールダイニング、ですか? 確かにあのへんは、アルコール厳禁ですからね。一回今度行ってみますね。ありがとうございます』
その後彼は、その店が行きつけになる。夜になると、アルコールを提供する飲食店にすら行くのをためらう彼にとって、それはこの上なくありがたいことだった。
彼の言語のラインナップに、アラビア語とインドネシア語が加わることになる。そしてなぜか、夜だけでなく昼の飲食店でも、食後のだるさが軽減されるという、副次的な効果があったらしい。
彼のプログラミング言語は、その多国籍コミュニケーション能力も相まってか、とんでもなくわかりやすいという評判だった。その定量的な指標が限られており、指導者としても明確な加点は与えられなかったが、知る人ぞ知るという評判で、公私共に順調といえた。
当然ながら、大学の部活動やサークルには、参加を検討することすらなく、アルコールのないコミュニティは、この国では広がりが相当に制限されているのも事実だが。
彼は、その言語力を武器に、セパタクローやカバディといった、各地域のローカルスポーツ、芸能のイベントにも積極的に参加し、そして打ち上げには決して参加しない。広く浅く、それでいてしっかり留学生たちの記憶には残る、という、そんな学生生活を送っていた。
しかし翌年、彼に大きな不幸が降りかかる。
感染症の拡大、リモートワークが増え、当面外出が自粛。オンライン飲み会なるものにも参加し、ようやく彼は、曲がりなりにも研究室の飲み会に始めて参加できた。彼の参加は、本来は大きく盛り下がるそのオンラインでのトークに、大きな花を咲かせた。
そこまでは、むしろ良かったともいえる。だが、その自粛明け、街が、大学のキャンパスが、彼にとっては地雷原の潜む戦場となった。
アルコール消毒。飲食店やキャンパスばかりか、切符売り場や改札、買い物の場すらも。最悪なパターンでは、それが義務化されて、入店すら出来ないことも。
そして、どこにそのアルコールの残滓があるのか。多くの人の手にアルコールがついていて、電車の中すらもその匂いが漂う。
彼は復帰初日、救急搬送された。
そして、搬送先の病院で感染。幸い命に別状はなかったが、入院期間の延長を余儀なくされる。
さらに病院である。つまり、アルコールがそこら中に存在する。彼にとってはスタッフ全員がゾンビにも見え、ドアノブや床の全てが地雷原であったかも知れない。
その事情をかんがみて、入院は最低限で済まされたが、処置の不備を招いた結果、呼吸器系の後遺症がやや長く続き、半年以上の休学を余儀なくされる。
なかなか声も戻らず、オンラインのコミュニケーションも悪化。少しずつ友人や研究室内での対話も減り、研究進捗そのものも悪化。結果的に、国内での就職の機会を逸することとなる。
『(アラビア語)まあ、でも結果的に、就職してもむりだったんじゃないか? どこいったって、アルコール消毒なんて必須だろう? 君にとっては他の人のPCが全部劇物だよね』
『そうですねマスター。そういう意味では、性急な就活を避けられたのは、不幸中の幸いとはいえたのかもですね』
『君がこの店に来て、数ヶ月でもうその喋りのレベルになったよね。それに、多分君がこの店で調子がいい理由も、今の君の話を聞いて、当たりがついたよ。これだよ』
『げっ! 消毒液! 近づかないでくだ……あれ? ノンアル? 水性?』
『そうそう。中東でも、一部の厳しい国でしか一般的じゃないんだけどね。うちはなんちゃってハラールの店じゃないからさ。こういうのも真っ先に取り入れているんだよ。ほら、表の看板にも』
『おお。消毒も含めて、一切のアルコールは提供していません。酒気帯び者の入店もご遠慮いただいています、か』
『これかもね。飲食店って、掃除が忙しい時はアルコール消毒で済ませることも多いからさ。お昼とかでもその気体が舞っている可能性は高いんだよ。シュンは元々食べた後のだるさだとか思ってたみたいだけど、あれも原因だったのかもね』
『これは……そうか。僕の生きる場所は、もしかしたら。マスター、一生のお願いがあります』
谷部儁介。一年遅れで修士卒業後、中東で最も戒律の厳しい国の大学に進学、そのまま同国で就職。多言語プログラミングの分野で注目の若手エンジニアとなる。
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