*アゼル*
振り返るといつまでも手を振ってくれる優しい女性の姿が見えた。どういう原理か、ランプの明かりよりも煌々と輝くあのひとの部屋は、月明りよりずっと眩しく彼女の姿をアゼルに見せた。
「……」
何度も振り返ってはぺこり、と頭を下げる。
こんなことでしかあのひとに感謝を示すことが出来ない。
「先生」
角を曲がり、少しして、アゼルは数歩先を歩く騎士。勇者候補たちの指導官であり、この国に一人しかいない「黒騎士」の称号を持つ師に声をかけた。振り返ることなく「なんだ」と声は返ってくる。
「俺があの人に会うのは、よくないことでしょうか」
「勇者候補生であれば宿舎より深夜の無断外出は咎められるべき事である。が、お前はそもそも規律を守るべき宿舎に身を置いてはおらず、規律を守る勇者候補生が与えられるべき恩恵を何一つ得てはいない」
つまりどういうことかとアゼルが問えば、騎士は何も答えなかった。だが問題があるのなら、そもそもアゼルと共に今夜あのひとの元へは行かなかっただろう。
(……大それた願いだ)
アゼルは目を伏せ、いつもテーブルの向かい側でアゼルに微笑みかけるあのひとを思い浮かべる。
生まれたのは貧しい村。
兄妹たちは生まれてはやせ細り、育たない。母はいつも俯き、父はいつも何かに怒っていた。村の人間は優しい人はいたが、その優しさは自分の家族に向けることが精いっぱいで、誰もが余裕なく、一粒でも多くの麦を得ようとしていた。
アゼルはいつも空腹だった。
唯一まともに七つをこえた男の子だからと、少しの間は父も喜んで自分の食事をアゼルに分けてくれていたと思う。
けれどそれでもアゼルは空腹だった。
食べてもちっとも、他の人が言う所の「満腹」あるいは「飢えていない」状態になれない。
貧しい村で、アゼルが自分の食欲を優先できるわけがなく、アゼルはいつも空腹で、くらくらした。
村に来た聖職者がアゼルを見て「勇者候補に!」と言ったのは、冬が来る少し前のことだった。誰もがアゼルが勇者になれるわけがないと言って、思って、アゼル自身もそう思った。勇者候補というのが本当だとしても、たくさん集められる勇者候補の中で自分が勇者になれるだろうとは、いつも腹を空かせているだけの自分が、何者かになれるとは思っていなかった。
けれど村を出れば、何か食べさせてもらえると聞いた。
そして、自分がいない方が、家族も食べられる分が増えるだろうと、そう思った。
それで村を出て、大きな町、王都にやってきて、けれどそこでも、空腹はあまり変わらなかった。
ひもじくて、辛くて、苦しくて、なぜ自分だけ、いつまでもいつまでも、空腹なのだろう。馬小屋の藁や土を食べても満たされない。
苦しい思いばかりが集まって、空っぽの体にどんどんと積もっていった。
だというのに、それだというのに。
(あのひとは)
アゼルに食事を与えてくれた。
お腹いっぱいになるまで食べていいと、そういって、微笑んで、アゼルが食べると嬉しそうにしてくれた。
これまで家族はアゼルが物を食べると嫌そうな顔をした。
どうせ満足しないのだから、何を食べても一緒なのだから、お前は食うなとさえ言われたことがある。
アゼルは日中、自分が人にどう扱われようと、構わなかった。
夜になれば、明るい部屋であのひとが待っていてくれて、そして、アゼルに微笑みかけてくれる。
(大それたことを、願ってるんだ)
アゼルは自分が欲深いと、恥じ入った。
いつまでも、続けばいいと。
いつまでも、いつでも、あのひとが自分に笑いかけてくれればいいと、そんなことを願ってしまっている。