真夏のバターチキンカレー
ぐっつぐっつと煮込んだ鍋の火を止めて、バターを一かけら……いや、ここでケチってはこってり感が足りなくなってしまう。私は自分の腹の肉の付き具合と、美食のどちらを優先すべきかと天秤にかける。尊い審議の女神トゥラゲーデ様だって「美味しいものは正義」というジャッジをくだされるに違いない。
深さのある大きなお皿に山盛りの白米をのせて、その上にたっぷりと、湯気の立つバターチキンカレーを注ぐ。具は玉ねぎと鶏肉オンリーだ。もちろん鶏肉はヨーグルトでじっくりつけて柔らかくしてある。
魔法の明かりの下で照らされる見事なカレーライス。そこにほんの少し、生クリームをかけて線をつける。
「……んふふふ、っふっふふ、完璧、完璧な姿……!!ふっはははっはっははは!!」
笑いが止まらない私は、しかしお皿を落とさないようにしっかりトレイに乗せている。キッチンでひとしきり馬鹿笑いを上げた後、いそいそと居間へ戻った。
「……」
そこにはあちこちアザや傷のある男の子が、テーブルの前の椅子にちょこんと座っている。もじもじと居心地悪そうな様子で、自分がここにいても良いのか、いつだれかに怒鳴られでもするんじゃないかと不安そうな顔だった。
男の子、と言っても高校生くらいの年頃。日に焼けた肌は元々農民だったというので太陽の神の視線をよく浴びていたのだろう。
今日も一日とても暑く、うつむいた男の子の顔から汗がテーブルに滴ると、慌てて男の子は自分の服でそれを拭おうとしたが、泥で汚れた服で拭いてよいのかと困惑していた。
「お待たせ。ごめんなさいね、お腹が空いていたのにすぐ出せなくて。麦茶は口に合わなかった?」
「あっ……いえ……あの。こんなにきれいなもの、落として割ったら、弁償できないんで……」
机の上には手を付けられていない麦茶の入ったガラスのコップ。氷はすっかり解けている。
百均で買った物で高い物ではないのだが、物を大切にしようという気持ちはとても良いことだ。私は男の子の前にカレーのお皿を置いた。
「水分を取った方がいいわよ。それにこれは熱いし」
「あの……これって」
「うん、カレーっていう食べ物なんだけど。食べてくれないかしら」
「……どうして…あ、あの、どうして、ですか?」
人はなぜカレーを食べるのか、ということだろうか。
……え、なぜだろう。
「そこにカレーがあるから?」
「……持ってきたのはあなたですし、あなたが食べるものじゃないんですか?」
「私も食べるけど、これはあなたのだよ」
あれだろうか。
お客様として、家主より先に食べるのはマナー違反とかそういう心なのだろうか。
なるほどと私は納得していそいそと自分の分も用意してテーブルにつく。
「なぜ!?え!?なんで床に座るの!?」
しかし私が椅子に座ると、向かい側の男の子がいそいそと椅子から降りて床に座った。
「え、だって、それは……俺は農民だし、あ、ですし」
「…………農家の人は床に座る方が落ち着くの?」
「貴族の方と同じ席に着くわけには……」
私は貴族ではない。
それはもちろんこの男の子にも言っている。けれど男の子は私を貴族だと信じている。
「うーん、うーん……でも、あなたも立派に、勇者候補としてこの王宮に招かれた子なんだし……そんなに遠慮しなくてもいいんじゃない?」
「……そういうわけにはいかないよ。あ、いきません、です」
頑なな男の子だ。
謙遜というよりここまでくると卑屈だが、これまでのこの子の境遇を考えると無理からぬものだ。
この男の子は全国各地から集められた300人以上の「勇者候補」の1人だが、魔力の量が一番少なかったらしい。実家の支援もないし、彼を連れてきた神官は汚職で捕まり、この子に本当に勇者の適正があるのかも疑わしい、というような空気になっていた。
本来勇者候補の子供たちが集められる宿舎をこの子は「部屋がないから」と入れてもらえず……馬小屋で寝起きをしていたらしい。
食事も満足にもらえない男の子が、馬の餌を食べているところをうっかり目撃してしまった私が「うちにいらっしゃい!」と手を引っ張って連れてきてしまったのも仕方ないことだろう。
誘拐じゃない。違う。
頑なに椅子に戻ってくれない男の子に私は溜息をついた。すると男の子がびくり、と体を震わせる。明らかに怯える様子に、いったい過去にどんな経験をしてきたのかと気の毒に思う。
私は自分の生活品のほとんどが収納されている大きな棚付きの収納の引き出しを開けて、テーブルクロスを引っ張り出すと男の子の少し前に広げた。そこに蠟燭立てや水差し、カレー皿をぽんぽんと置いていく。
「あの……」
「こういうスタイルで食べてもいいでしょ。うん、それじゃあいただきます」
私はさくっと、自分で作ったカレーを食べる。
「あぁ美味しい。やっぱりこんなに暑い日はカレーよね。うん。このお肉、最高に柔らかい。バターチキンカレーは鶏肉が一番だわ」
「……」
目の前でもぐもぐと美味しい物を食べる人がいる。
そして自分の手元には「食べていいよ」と言われている同じものがある。
ごくり、と、男の子が喉を鳴らした。
「……」
「どうぞ、ほら、熱いうちに」
じぃっとカレーを見つめ続けて目を見開いている男の子に私はなんでもないように告げた。
「っ……!」
がっ、と、男の子はやっとカレーを食べ始めた。
いやぁ、見事な。ほれぼれする食べっぷりである。
熱いだろうに、それをあまり苦にしてない、まるで流し込むようにカレーがどんどん減っていく。
「おかわりもあるからね。遠慮しないでね」
「……おか、わり?」
「まだもっと食べていいってこと」
「……!?」
なぜそんなことが許されるのかと、男の子の目の混乱がますます濃くなった。
「こんなおいしいものを……?」
「おいしいものはいっぱい食べれた方がいいからいっぱい作ったの」
「俺が食べて……?」
あの大量のバターが入った物を私一人で消費はしたくない。
正直、食べてくれないと困る。
私が真顔で頷くと、男の子は突然ばっ、と、頭を下げた。
おかわりを頼むにはあまりに仰々しいのでは?
まぁしかし、礼儀正しいのは良いことだ。私はにっこりと頷いてカレーのおかわりを持ってくると、男の子はまだ頭を下げている。
「おかわり持ってきたよ?」
「……」
要求のブツだよー、と、私は男の子の頭に声をかける。男の子はじっと頭を下げたまま動かない。
え、えぇ……。あれか?もう少し大きな皿で持ってきてほしいとか、そういうことだろうか……。
私が途方に暮れていると、男の子はぽつり、と、頭を下げたまま口を開いた。
「死んで、ました」
「……うん?」
「死んで、いました。きっと。今日、こうして、食べさせてもらえなかったら、俺は。死んでいました」
ぽた、ぽた、と、テーブルクロスの上にシミが出来る。
汗かな。カレーを食べてもっと暑くなったんだろう。
ヨーグルトをラッシーにして出してあげればよかったか。乳製品にあんまり慣れていないだろう子にいきなりダイレクト乳酸菌はトイレとの友情の橋渡しにしかならないと止めておいたのだが。
「ありがとうございます」
大げさな男の子だ。
私は少し困ってしまった。
けれど男の子があんまりにも真剣に言うので、この真剣さに報いる必要はあるだろうと思って、私もぺこり、と頭を下げた。
これが、勇者候補最下位の農民アゼルくんと、その後異世界の魔女として魔女裁判にかけられることになった私の最初の食卓だった。