第一楽章・四、青色の願望
「うーん……」
……朝?
ゆっくりと目を開けるローゼ。
しっかりと布団を被っていて、辺りには赤い薔薇の花びらが散らばっている。ただ服が……軽い。見てみると、あの派手なエプロンドレスが、パジャマらしき寝やすい服に変わっていた。
……着替えた覚えがないのに。
起き上がって周りを見回すと、そばにあるソファーにヴァイスが横たわっていた。
「わぁ……」
ただソファーに横たわっているだけなのに、ものすごく絵になる。それだけヴァイスは綺麗な姿で寝ていた。
「お目覚めですか?」
「ひゃっ!」
いきなり目が開いたので、驚くローゼ。
「もしかして、見とれてました?」
「そそそんなことないって!」
焦るローゼに、ヴァイスは少しはねた前髪をかきあげて、いたずらっぽく微笑んだ。
「貴女の寝顔の方が数倍美しかったですよ」
ヴァイスは立ち上がり、ローゼの隣に座ると、「ちゅっ」とわざと音をたてるように彼女のおでこにキスをした。
「……あの」
ヴァイスからちょっと離れるローゼ。
「なんです?」
「この服……」
「あぁ、あの後貴女が眠ってしまったので、僕が着替えさせておきました。……あれ? どうしたんですかそんな赤い顔して。安心して下さい。僕はキスしかしてませんよ」
いや、そういう問題じゃなくて。服脱がすとか脱がすとか脱がすとか……
「ご心配なく。貴女の肌はとても綺麗」
パン!
ヴァイスの白い頬に赤い手形がついた。
「だから……キス以上はしてないって言ったじゃないですか」
頬を押さえて少し悲しそうな顔をするヴァイス。
「うるさいぃ!」
「でも求めたのは貴女でしょ」
「………」
ベッドの上の薔薇の花びらが数枚、床に落ちる音が聞こえる。ローゼは黙って下を向いた。
「それでは、僕は雑務があるのでこれで失礼させていただきます。シャワーでも浴びたらどうですか? あと、城の案内などは他の者に頼みましょう」
ヴァイスは微笑んで一礼すると、部屋から出ていった。
私はなんでここにいるんだろう……。
部屋に備え付けのシャワーを浴びていたら、ふとそんなことを思った。
なんで?
答えがない疑問。考えても気分が悪くなるだけなのに、考えは止まらない。
私は、誰?
メーアに呼ばれた名前、フリア。
それは、私?
「色々考えすぎなんだよ。ローゼはローゼだぜ」
いきなりシャワールームの扉がガラッと開いて、黄色い髪の男が顔を出した。
「キャア!」
この人……
「酷いなぁ。せっかくタオルと着替えを持ってき」
バン!
扉を思いっきり閉める。
誰……!?
「本当にひどいよ。ありがとうの一言も言わないなんてさぁ」
エプロンドレスを着たローゼは真っ赤な顔で下を向いている。
反対側には、先程の黄色い髪の男が面倒くさそうにソファに寝転がっていた。
「だって、人のお風呂のぞき見するなんて……ありえないって」
「でもあんたの叫び声、なかなか良かったぜ」
一瞬でローゼの目の前に現れる、黄色い髪の男。そして、ローゼの頭をくしゃっと撫でた。
「やっぱりローゼだな。オレのお気に入りの」
「へ?」
「そんな顔しないでよ。もっと叫ばせたくなっちゃうじゃん」
「どういう意味……?」
「だーかーらっ」
にやにやと笑顔のゲルプに、傍のソファーに押し倒されるローゼ。
「こーゆーことっ☆」
「ちょ……やめっ」
バタン!
いきなり部屋のドアが開いた。
「ローゼの声がしたけど、ここにいるのかなー?」
気の抜けた声とは裏腹に、勢いよく渦巻く水柱が、黄色い髪の男を包んだ。
「うわっ!」
「おぉ、ゲルプじゃないか」
たった今気付いたように言ったあと、下を向いてふっと笑う薄青のロングスーツの男。
「そんなに濡れてどうしたんだい? そのまま近づいては、ローゼに風邪をひかせてしまう」
「お前のせいだろ!」
「はて、知らないな。早く着替えたらどうだい?」
すまして言う男は、人差し指で銀縁眼鏡のズレを直す。
「ふざけるのもいい加減にしろ! ちっ、もうちょっとだったのによ」
ゲルプと呼ばれた男は軽く舌打ちすると、水を滴らせながらそのまま部屋を出ていった。
「ブラウ……さん?」
「呼び捨てでいい」
青い髪の男──ブラウは、深い青の瞳を細めて少し笑った。
「さっきの人は?」
「彼はゲルプ。奴にはあまり関わらない方がいい。厄介だからね」
確かに……。
「ブラウって、あの時のブラウよね」
「あの時というと?」
「人混みの中で……」
「あぁ、あれは失礼だったね。君のような可愛らしい女の子は、久しぶりだったからね」
困ったように笑うブラウは、初めて会った時よりも優しい。
「最初はヤなやつって思ったけど……」
「俺かい?」
大袈裟に驚いた表情をして言うブラウ。
「悪い人じゃなさそう、ね」
「それは当たり前だ」
ローゼの手をとるブラウ。
「俺は、君が嫌と思うようなことはしない」
「信じて……いいの?」
「信じてもらえるまで、この手を離さないよ」
気障な銀縁メガネの奥の青い瞳と目が合う。
「……分かった。信じてみるわ」
「ありがたいお言葉だね」
ブラウはローゼの手の甲に軽く口づけすると、手を離した。
「この城は旋律の城といってね、この国の中心的な城だ」
「へぇ……」
「城の案内をする」と言われ、ブラウの後をついていくローゼだが、迷路のように広い城。ついていくだけで精一杯だ。
ちゃんと自分の部屋に戻れるかな……?
少し心配になるローゼ。
「そしてこっちが、君のホールだ」
扉を開け、中に入って行くブラウ。走って追いかけるローゼ。
「わぁ……」
広いホールの真ん中に、白いピアノが佇んでいた。
「弾いても……いい?」
ブラウは軽く微笑んで頷く。
ローゼはそのピアノに駆け寄ると、鍵盤に触れた。
「あれ……?」
なんだろう。このしっくりくる感じ。
ピアノには、それぞれ性格がある。初めて弾くピアノは、すぐ慣れるピアノもあるし、時間をかけないと、かけてもなかなか慣れないピアノもある。
でも、このピアノは……
ホールに響く『ド』の音。
「私のピアノ」
「よく分かったね」
急に視界が遮られ、柔らかくて冷たい『何か』が、ローゼの頬に触れた。
「ブラウ……?」
「どうかしたかい?」
一瞬の出来事だった。目の前のブラウは変わらず微笑んでいる。
「いや、あの……」
「もしかして、しちゃ駄目だったかな?」
「駄目っていうか……」
やっぱりあれはキスだったのね。
少し赤くなるローゼ。
「ピアノを前にしたあなたがあまりにも美しくて……つい、ね」
ブラウは言うと、ローゼの頭をゆるゆると撫でた。
「っ……なんで?」
「ん?」
「なんで、なんで、そんなに優しいの? あなたも、ヴァイスも」
「それは皆、君のことが好きだからね」
頭を撫でる手を止めると、その手をローゼの頬に移動させる。
「何故? 会ったばかりなのに」
「皆、君を小さい頃から知っている」
「じゃあなんでキ……キスとか、するの?」
ブラウの顔が近づく。鼓動が早くなる。
「ヴァイスとのファーストキスはどうだったかい?」
耳元で囁かれ、ローゼの頬が紅潮した。
「なぜ……知って……の?」
うまく話せない。
ヴァイスとは違う低い声は、ローゼの鼓膜を通じて心を惑わせる。
「俺は、君の全てを知っている」
君の何もかもを知っている
だから君も俺を知って欲しい
俺のことを好きになって欲しい
「ローゼ……」
頭が真っ白になる。体の全てが機能を停止したかのように、動かない。虚ろな目は、ブラウを見つめることしか出来ない。
──この感じ。
昨日も体験した気がするのは、気のせい……?
「ゆっくりでいい。俺を好きになってくれるのなら、いつまでも待つよ」
震えるローゼの唇が少し開く。
「す、き……に?」
「そう。ゆっくり、ね」
ローゼと自分のおでこをこつんとぶつけてそう言うと、そっとローゼの体を抱きしめた。
優しく、優しく。
まるで今にも壊れそうなガラス細工を抱きしめるように。
ローゼは皆のもの
だけど、今だけ俺のもの
俺は君を悲しませない
君を泣かせない
だから、俺だけに見せて
君の最高の笑顔を、ね
「ねぇ」
「何?」
どれくらいこのままでいたのだろう。少しこの状況に慣れたローゼが口を開く。
「あなたはなんでそんなに冷たいの?」
「体温、かい?」
「えぇ」
「……ヴァイスは、暖かかったでしょう」
「え?」
「俺は、君を優しく抱きしめることは出来る。でも、暖かく抱きしめることは出来ない」
ローゼから離れるブラウ。表情が少し歪む。
「やはり、君に好きになってもらうなんて、無理な願いのようだね。君にはヴァイスのような暖かさが必要だ」
「ちが……」
「嗚呼、どうすれば俺は」
「違うって!」
驚くブラウ。でも、それ以上に驚いているのはローゼの方だった。
「だって言ったでしょ! 私はあなたを信じるって!」
なんでこんなにむきになっているのだろう。
私はブラウの何でもないのに……
──暫しの沈黙。ブラウはそっとローゼから離れた。
「……ふっ」
メガネの奥の瞳が、研究者のように鋭くなる。
「面白い」
「へ?」
「ローゼ、君はやはり俺を退屈させない」
ロングスーツをひるがえし、背中を向けるブラウ。
「では他の部屋を案内しようか」
さっさと歩いて行くブラウ。急いで追いかけるローゼ。
なっ、なんなのこの人!!
「そういえば、君はヴァイスにどこまで説明してもらった?」
いくつか部屋を案内された後、歩きながらローゼに問うブラウ。
「何を?」
ローゼはブラウの後ろを小走りについて行きながら返した。
「俺達の事についてだよ」
「うーん、何も……」
そのとたん、急にブラウの足が止まった。
「何も聞いてない!?」
急に止まったので、勢いあまったローゼはブラウの背中に思いっきり鼻をぶつけてしまった。
「痛っ」
「ヴァイスのやつ! することだけして後は俺に押し付けるのか! せっかく『初めて』は譲ってやったのに!」
「あの……ブラウ?」
ブラウの急な変貌ぶりに戸惑うローゼ。
「あぁ……すまない。取り乱した」
こめかみを押さえて息をつくブラウ。
「知らないのなら仕方がない。ローゼ、紅茶は好きかい?」
「紅茶?」
「あぁ」
「まぁ、好きだけど」
「ならティールームに行こう。あそこなら落ち着いて話せる」
そして案の定……
「ちょ、ちょっと……キャア!」
お姫様抱っこ♪
でローゼは連れていかれた。
「さて、着いたよ」
ドアの前でローゼを降ろすブラウ。
「なんで……お姫様抱っこ?」
「また君の鼻を俺の背中にぶつけてしまっては悪いからね」
ローゼの目の高さまで屈むと、金色の髪を撫でる。
「君は最高に美しくいなければならない」
耳元で囁かれるその『声』に、ローゼはびくっと反応する。
声だけでまた胸の鼓動が速くなる。
「ブラウ……?」
「そんな赤い顔して、隙があったら襲うよ?」
冗談めかしてそう言うと、ローゼの頭をぽんぽんと叩いて立ち上がる。
「えっと……」
今、さらっと危ない事言ったよね、この人。
「さ、入ろうか」
ブラウのメガネの奥の瞳が細くなる。ローゼの反応を面白がっているようだ。
「や、いやぁ!」
くすくすくす。
楽しそうな笑い声。
くすくすくす。
歩くたびに大きくなる上品なざわめき。
「ブラウ様!」
手前のコスモスが揺れた。
「ブラウ様よ」
隣のチューリップが嬉しそうに揺れる。
「あら、ブラウ様。お久しぶりですね」
撫子がスッとお辞儀をするように垂れた。
「そうだね」
普通に応対するブラウ。
「あの……」
少し不安げに声を出すローゼ。
「どうかした?」
「そこのお嬢様はまさか……ローゼ様!?」
百合の花が大きく揺れた。
「そうだよ」
ブラウが言う。
「やっぱり!」
「噂通りお美しいですわ!」
「まだ枯れないでいて良かった!」
「わたくしたちは、なんて幸福なのでしょう」
そんな声が花畑のように花だらけの空間にこだます。
「ねぇ、ブラウ」
「なに?」
「この声って全部花なの?」
「そうだよ」
さも当然のように言うブラウ。
「……花って話せるの?」
「生きているものは言葉を話す。常識だよ」
「常識、ね」
まぁ実際動物達も言葉を話してる訳だし……。驚くことないのかな。と冷静に考えみたりする。
「今日はどうなされたの?」
花達が揺れる。
「お茶会を開いてもらえる?」
「お茶会ですって」
「久しぶりだわ」
「いいですわよ。さっ、みんな、すぐに準備をしましょう!」
「それでは、ご褒美だ」
ブラウが腕を真一文字に振った。と同時に、そこから現れた水がきらきらと舞う。嬉しそうに受け止める花達。
「わぁ」
花達がローゼとブラウを囲むと、くるくるとまわりだした。
「紅茶はお好き?」
「えぇ、まぁ」
目の前にポットとカップを持ったマーガレットが現れ、目の前で紅茶を淹れた。
「何を入れます? レモンにミルクに、そのままがお好みかしら?」
「じゃあ、そのままで」
「お席にご案内致しますわ」
花達に案内され、ローゼはブラウと共に部屋の奥へと行った。
「なんか、本格的ね」
「当たり前じゃないか」
香りの良い紅茶をごくんと飲み干す。と同時にまた注がれる。テーブルの上にはたくさんのケーキや茶菓子が並べられていた。
「家よりも豪華だわ」
家……? 家って?
たった今自分が言った言葉に疑問を持つローゼ。
「どうかした?」
「きゃっ」
急に目の前にブラウの顔が現れた。
「近いって」
「君が困った顔をしていたからね」
「別に……」
「ふうん」
ブラウの瞳がまた細くなる。
「あのっ」
「また何か?」
「なんか説明するって言ってなかった?」
「ああ、そうだったね」
ブラウは紅茶を一口飲んで唇を湿らすと、話し始めた。
「実はこの城には、六人の天使がいるんだ」
「天使?」
なんてファンタジーなと思ったが、動物も花も言葉を話すこの国で、別に驚くことじゃないかと一人納得する。
「俺もその一人だ。あと、ヴァイスもね」
「そうなの?」
それじゃあ私、天使とキスしたの! それもファーストキスを!?
なんてファンタジー……ってえぇ!?
「天使にはそれぞれ役割がある」
一人慌てるローゼに、構わず続けるブラウ。
「俺は水、ヴァイスは光、他にも雷、葉、火、闇を司る天使がいるんだ」
「へぇ……」
じゃあ……
ローゼは犬のような動物(アーツルトに言わせると『雑食犬』)に襲われかけた時の、ヴァイスのテノールボイスを思い出す。
「光……」
「それは、力を放出する時の言葉だね」
「ヴァイスはそれで助けてくれた……」
なんで?
私が雑食犬に食べられそうになったから?
そもそも私はなんで森にいた?
その前はどこに……
ど こ に い た の ?
バン!
急にドアが開く音がして、ヴァイスが現れた。
「ブラウ、こんなところにいたんですね!」
「君のせいでね」
「は……?」
一瞬、時が止まる。
「とにかく、仕事です」
「またか」
「この時期は多いものですよ」
「分かった。すぐ行く」
ヴァイスは無言で頷くと、部屋を後にした。それは、ローゼと二人きりだった時と全く異なるヴァイスであった。
「すまない。急用ができてしまった」
ブラウが申し訳なさそうに言う。
花達が、「今日はヴァイス様にも会えて良い日だわ」と口々に言いながらカップなどを片付け始めた。
「仕方ない。戻ってくるまで、城の見学でもしていてほしい」
「ちょっと、ブラウ?」
あっという間にブラウは消えてしまった。
「もう……」
ティールームも片付けられ、仕方なく部屋の外に出たのだが……
「ここ、どこ?」
迷路のように広い城。右も左も分からない。
「とりあえず……行くしかないわよね」
歩きだすローゼ。
「みーつけたっ」
それを陰から見つめる男。
「お楽しみの始まりだね」
ローゼは、きょろきょろと辺りを見回しながら前に進んでいく。
「オレも行くかな」
その男もそろそろとついて行った。
《ブラウ》
水を司る青の天使。その実体は知的天使。聞こえはいいが、時々観察者の目になるのがキズ。興味のあるものはとことん知りたがる。常に銀縁眼鏡を着用。