第一楽章・三、白色の接吻
「ローゼ様。はぐれないように気をつけて下さい」
人が増えてきた夕方。街は沢山の人(動物?)で賑わっている。仕立屋の近くで軽く食事をとった二人は、ヴァイスの言う旋律の城へと向かっていた。
混雑してきた中、ローゼはヴァイスの後ろ姿を追うのに必死になっていた。白いスーツの裾を掴もうとしたその時──
ドン!
「痛っ!」
誰かに、ぶつかった。顔は見えなかったが、凄い力で。
「もう、何よ。謝りもしないで」
しりもちをついてしまったローゼは、ドレスをはたきながら怒ったように呟く。そして一つ、重要なことに気付いた。
「ヴァイスは……?」
立ち止まっているローゼの横を、忙しそうに行き交う人々。──その中に、ヴァイスはいない。
その時、また強い力で誰かに引き寄せられた。
「ヴァイ……うっ」
そばにあった壁に押しつけられるローゼ。
「残念ながら、ヴァイスではないな」
耳元で囁かれ、ローゼはびくっとする。甘く響く低い声。目の前の相手は、銀縁の眼鏡をかけていた。その奥の青い目と目が合う。ローゼよりも深い、青の瞳。
「あのっ、ど、どちら様……ですか?」
顔が近い……。どぎまぎしながら聞くローゼの瞳を、面白そうに覗き込む青い瞳。
「俺はブラウ。君はローゼだね。いったい一人で何をやっているんだい?」
「……はぐれたっていうか……」
「駄目だねヴァイス。こんな可愛い女の子を一人にするなんて」
「あのっ……そのっ」
「誰が狙ってるか分からないのに。ふっ、困った天然天使様だ」
あわてふためくローゼの顎を、ブラウの右手が捉える。そして、顔を近付けてきた。……
ピシッ
「探しましたよ。ローゼ様」
鋭い音と共に、怒ったようなヴァイスの声がした。
「ヴァイス!」
ブラウは、右肩を押さえてローゼから離れる。
「おや、正義の味方登場ってところかな?」
「ふざけないで下さい」
「……にしてはちょっと本気だったな。この辺で退散しておこう。争うのは余り好きではない」
ローゼはブラウの右肩を見て驚いた。薄い青のスーツが破けていて、少し血が滲んでいる。
「どうせ済ませてあるんなら、と思ったんだが。あ、もしかしてまだだったかな?」
「……黙って下さい」
「あなたはなんでも慎重だものね。いや、失礼失礼。それではまた会おう、ローゼ」
ブラウは片手をあげると、人混みの中へ消えていってしまった。
「あの……」
「なんですか?」
「さっきの話は何? その……ブラウ、との」
「そのうち分かりますよ」
ヴァイスは、それだけ言って微笑んだ。
「それでは、行きますか」
抱き上げられるローゼ。それは、まさかの……
お姫様抱っこ♪
「ちょっ……私怪我してないよ!」
「でも、こうすればはぐれませんよ」
「いやや……でもっ、周り人いっぱいいるしっ!」
「ほら、ちゃんと首に手を回して下さい」
あれ? なんかいきなり大胆になった? って!
「キャア!」
ヴァイスはいきなり飛び上がった。
「ななな何?」
「近道です」
ものすごいスピードで屋根を渡って行くヴァイス。
「わぁ! キャア! いやぁ!」
ローゼの悲鳴だけが、赤みがかった空にこだましていた。
「着きましたよ。といっても寝ていますか」
本当は気絶しているのだが、それに気付かない天然天使。
「ローゼ様、起きて下さい」
軽く体を揺らす。
「……ふぇ?」
間抜けな声とともに目を開くローゼ。
「着きましたよ。ローゼ様」
「着いたって?」
「旋律の城に着いたんですよ」
「城……?」
「とりあえず中へ入りましょう。説明はそれからです」
まだボーッとしているローゼを抱き直すと、ヴァイスは凝った作りの大きな門をくぐっていった。
「もう一人で歩けるから……降ろしてよ」
やっと頭がはっきりとしてきたローゼ。
「嫌です」
「なんで?」
「嫌だからです」
なんという理由になっていない理由!
「ほら、貴女の部屋に着きましたよ」
ヴァイスがドアを開けようとした時、下の方でミャーという声がした。その声に素早く反応するローゼ。
「メーア!」
『よく分かったね』
ヴァイスの腕から降りると、黒い猫の方へ走っていくローゼ。
「鳴き声で分かるって! でも……なんであなたがこんなとこに?」
『あんたが一人じゃ色々と心配だから、ついて来ただけ』
抱き上げて頭を撫でるローゼから、顔を背けるメーア。
「ご友人ですか?」
「えぇ。飼い猫よ」
「四つん這いの猫は初めて見ました。服も着てないなんて」
『余計なお世話ね』
「この世界では服を着ていた方がいいですよ。彼に頼みましょう」
ヴァイスが、にこやかな笑みと共にぱちんと指を弾くと、急に一人の男が現れて、メーアを抱き上げた。
『離しなさいよっ』
「俺を呼び出すなんて……。面倒事は全て俺に押し付けるんだね」
ミャーミャー騒ぐメーアをおさえ、そう言って顔を上げたのは……
「ブラウ!?」
「ローゼ、また会えて嬉しいよ」
先程のことを思い出し、目を背けるローゼ。ふっと目を細めて微笑むブラウ。
「それでは失礼。ヴァイス、ほどほどにしてあげなよ」
意味ありげに言って、メーアを抱いたまま歩き出すブラウ。
『フリア! その男には気をつけなさいよっ!』
フリア?
気をつけろって……?
「ローゼ様」
「ねぇ、フリアって?」
「聞き違いでしょう。貴女はローゼ様です。色々とお話しなければならないので、中に入りましょうか」
ヴァイスはローゼの手をとると、部屋のドアを開けた。
「どうぞ、お入り下さい」
中に入るローゼ。ヴァイスはドアを閉めると、後ろ手で鍵も閉めた。彼女はそのことに気付いていない。
「やっと二人きりになれましたね。ローゼ様」
ヴァイスの呟きは、ローゼには聞こえていないようだった。
「綺麗な部屋ね」
ピンクと白を基調とした可愛らしい部屋。いわゆる女の子らしい部屋だ。
ヴァイスはローゼをソファーの上に座らせる。そして自分も隣に座った。
「どうですか? この部屋」
「可愛い……かも」
「気に入ってもらいましたか?」
「うん……」
ピンク色は嫌いではない。ローゼは、女の子らしい色が好きなのだ。
「それではローゼ、これから色々と説明をしなければならないのですが、その前に──」
急に両手で頭をヴァイスの方に向けさせられたローゼ。
「へ?」
思わず素っ頓狂な声を出してしまった。ヴァイスは微笑んで言う。
「ローゼ様、目を閉じて下さい」
「あの……」
「閉じて下さい」
優しい声。それに誘われるように、ローゼは目を閉じた。
「いい子ですね」
さらさらの金髪をスッと撫でるヴァイス。
「ローゼ様」
何かを決めたようにローゼの頭を両手で支えると
「貴女を絶対に離しませんよ」
絶対に失いたくない
特別な存在
それがローゼという名の
貴女なのですよ
ヴァイスの顔が近付いてきているのにもかかわらず、催眠術にかかったかのように、力の抜けたローゼの体は動かない。もちろん、目も閉じたまま……
そして、ローゼの唇に──
愛しいローゼ
ローゼは薔薇を意味します
薔薇の赤は
貴女の唇を意味します
貴女の唇は……
「んっ……」
愛しの時間は、幸福の時
貴女はそれを受け入れる義務があります
さぁ、僕のことを愛して下さい
温かい
というより、体が熱い。
私は、一体……
「ローゼ様」
「うぁ!」
いきなり耳元で囁かれたローゼは、飛び上がりそうになる心臓を必死に抑える。
「あの、近……んっ」
キス、された。
冷静にそう思う自分がいた。手足は痺れたように動かない。ただ彼の唇が甘い、と感じた。
ただ触れるだけのキスが、名残惜しそうに離れる。
柔らかい感触の残る唇には、手足とは違った痺れるような甘さが残っていた。
「あれ? 『今は』意識があるのに、嫌がりませんね」
超至近距離で、優しく微笑むヴァイス。
「『今は』って……」
恥ずかしくなって視線をそらそうとするローゼ。しかしそれは叶わない。
「拒まれると困るので、少し魔法をかけさせてもらいました」
「魔法?」
「そう、魔法です。そういえば、体が熱いですね。まだキスだけなのに」
「まだって……」
「まさかキスだけで感じ」
ダンッ!
ヴァイスを突き放そうとするローゼ。もちろん彼の厚い胸板はびくともしなかったが……。
「やめてよ!」
「冗談です」
真面目に言われ、ローゼは少し俯いた。
「でも……」
もう一度──
とろけるように甘い、ローゼを愛する者の口づけ。
ローゼはその虜になる、たった一人の犠牲者。
「言われなくても」
二つの影がまた重なる。
甘いのはお好きですか?
僕は、大好きです
そばに生けられた薔薇の花びらが一枚、床に舞い降りる。
それを合図にしたかのように、一枚、また一枚とどこからともなく降ってくる紅い薔薇の花びら。
しかし幾度も重なる二つの影に、その様子に気付く余裕など無かったようであった。
ローゼ様
貴女はまるで
棘の消えた
薔薇のように
純粋で
傷付きやすくて
美しい
「ずっと傍にいます。ローゼ様」
静かに眠る、小さな迷い子を見て、ヴァイスはそっと微笑んだ。
《ヴァイス》
光を司る白の天使。その実体は天然天使。執事のような優雅な仕草や口調が得意。だが少し抜けたところがあるのが良いのか悪いのか……。