第一楽章・一、それは突然に
「フリア様、起きて下さい。フリア様」
「うーん……」
まぶしい太陽の光が降り注ぐ昼下がり。一冊の分厚い本を枕に、木の根元の美しい緑の芝生の上で昼寝をしていた少女は、華奢な両腕を伸ばし「ふわぁ」と小さくあくびをしてから、ゆっくりと起き上がった。
十六歳の少女は、すらっとしたスタイルの良い体。透き通った白い肌に、ぱっちりとした大きな瞳は澄んだスカイブルーで、少し潤んでいる。腰まで伸びた金髪のストレートヘアは、降り注ぐ太陽に反射し、黄金に光り輝いていた。『美人』という言葉では表せないほどの美少女。白のシンプルでぴったりとしたワンピースを身につけている姿は、まるで小さな天使のようだ。
やっぱり、フリア様は美しい。
一枚の絵のような光景に、思わず目を細めるメイド。
「フリア様、お茶の時間です。今日はお嬢様の大好きなスコーンですよ」
優しく話しかけたメイドに、枕にしていた本をまた開き始めたフリアは見向きもしない。
「フリア様。よっぽどその本が気に入られたのですね。何の本なのですか?」
メイドの問いにやっと顔を上げた少女は、少し目を輝かせて言った。
「『不思議の国』の話ですわ。とっても不思議で、楽しいお話ですのよ。私も、行ってみたいな」
凛とした、でも鈴のように優しく綺麗な声が、メイドを穏やかな気持ちにさせる。
「そうなのですか。楽しそうなお話ですね」
穏やかな空気が漂う中、それを切り裂くように、カツカツと歩く鋭い靴音がした。
「フリア。せっかくお茶を用意してもらったのだから、本を読むのはやめなさい」
「お母様……」
「そうですね。フリア様、お茶にいたしましょう」
「わたくしもご一緒するわ」
「かしこまりました」
メイドがカップを取りに屋敷の中へと入っていった。
「あー、疲れたー」
フリアと呼ばれていた少女は、部屋に入るなりベッドに倒れ込む。鈴のような声は変わらないが、その口調はさっきまでの上品なものとは全く異なっていた。
「今時『〜ですわ』なんて言わないっつーの!」
『相変わらずだねフリア』
誰もいない部屋の中。どこからともなく現れた一匹の黒い子猫が、フリアの膝に乗ってきた。
「ほんっとに疲れるんだから。今日なんてお母様とお茶よ? お作法だとかなんとか知らないけど、せっかくのスコーンもまずく感じたわ!」
子猫の背中を撫でながら、溜め息をつくフリア。彼女は、動物と言葉を交わすことが出来るのだ。
「ねぇ、そう思わない? メーア」
メーアと呼ばれた子猫は、ミャーと鳴いた。
『あたしは、人間に生まれなくて良かったと思ってる。お疲れ様、フリア』
「いいわね、猫は気楽で」
メーアは、ベッドの横の丸テーブルの上に置いてある分厚い本に目を落とした。
『あんたが本を読むなんて珍しいね』
「学校の友達に借りたの。面白いから読んでって言われてね。はぁ、早く学校行きたいなー」
『どんな話?』
その質問に、フリアの瞳がまた輝いた。
「『不思議の国』っていう所があってね。そこはどの動物も人間みたいに二本足で歩いていて、みんな言葉を話すの。お花や虫も言葉を話すのよ。その国では、素敵な王子様が国を治めていて、そこに、一人の女の子が迷いこむの……」
少し開けられた窓から入り込んだ柔らかい風が、カーテンをさわさわと揺らした。
『まったく、しょうがない子ね』
メーアは小さな寝息をたてているフリアに、前足で器用に薄い毛布をかけてあげると、ひょいっとベッドから降りて、ひなたぼっこのために庭園へ向かった。
《ローゼ。オイデ》
「誰の名前を呼んでいるの? 私はフリアよ」
《イイエ、アナタはローゼ。さあ、こっちへオイデ》
暗闇の中、見えない何かがフリアに語りかける。
「違う。私はフリア」
《イイエ、アナタはローゼ》
諭すような声が近付いてくる。
「私はフリアよ」
《アナタはローゼ》
「私は……」
《アナタは……》
「私は……あれ?」
「フリア様。ディナーの支度が整いました。下においで下さい」
さっきとは別のメイドが、冷たい風のそよぐ窓を閉めながら言った。
「……私はフリア」
「何をおっしゃっているのですか? お嬢様はフリア様です。それ以外の何でもありませんよ」
メイドは、少し微笑んで言った。
「さぁ、下に準備が出来ているので、準備が出来たらいらっしゃって下さいね」
「……はーい」
メイドがドアの奥に消えたのを見てから、フリアは呟いた。
「夢……か」
少し残念そうに。
開放感のある広い部屋には、一台の白いピアノ。フリアが父親に無理言って買ってもらったものだ。シャンデリアに照らされ、キラキラと輝く白いピアノ。
一日一回ピアノを弾くこと。それは、フリアの日課でもあった。
あの夢を見てから数日が経ち、彼女はその夢を忘れかけていた。
そっとピアノ椅子に腰を下ろし、鍵盤に右手を乗せる。
トーン……
広い部屋に響き渡る『ド』の音。
うん。今日もいい感じ。
満足そうに頷いたフリアは、左手も乗せた。
静かに響き渡るピアノの音色。曲は、モーツァルトの『きらきら星変奏曲』。普通のきらきら星の曲が、だんだん変化していく。細かいフレーズが、星の瞬きを感じさせる。
《ローゼ。やっと会エル》
曲の中頃を過ぎたあたりで、声がした。
この声、もしかして……。
《さぁ、オイデ》
急に周りの景色が歪み、紫と黒の混ざる渦に飲み込まれた。
「どういうこと?」
驚いて叫ぶフリア。しかしピアノを弾く手は自分の意志に反し、まだ星の瞬きを奏でている。狂ったように響く旋律が、彼女の不安をかきたてる。
ぽん!
「な、なんなの!?」
急に地上に押し出された感覚。周りを見回すと、木々が生い茂っていて、少し薄暗かった。
「痛っ……」
足を見ると、膝から血が流れていた。この場所に放り出された時に、木の枝などで傷つけられたのだろう。
「いったいどこなの? ここ……」
周りには生い茂る木々のみ。人気のない森は静かで、怖さが増す。
グルルルル……グァル!
へっ!?
大きな犬のような動物が、いきなりフリアの前に現れた。どうやら、近くで息を潜めていたらしい。鋭く光る銀色の瞳と、目が合った気がした。
これって……まさか狙われてる!?
グァル!
「キャァァァア!!!」
悲鳴が虚しく森にこだまする。足を怪我しているフリアは、立ち上がることが出来ない。
絶体絶命! そう思った瞬間……
「光!」
澄んだテノールボイスが、森に響いた。
犬のような動物が、光にはじかれ、遠くへと飛ばされていく。
「ローゼ様。申し訳ございません。少し飛ばす場所を間違えてしまいました。怪我もさせてしまったようで……」
申し訳なさそうに頭をさげるストレートの銀髪が肩まで伸びている男。さっきの声の主のようだ。
くすんだ白のスーツに身を包み、白い肌に切れ長で灰色の瞳。月の光に照らされ浮かび上がった整った顔に、フリアは言葉を失った。
「あの……」
「何でしょう?」
軽く首を傾げる男。そのちょっとした仕草が、乙女心をくすぐるというか、なんというか……
「どちら様、ですか? あと、私、ローゼじゃ、ないです……」
どぎまぎしながらも話すフリア。
「申し訳ございません、まずこちらの名を名乗るべきでしたね。僕の名前はヴァイス。貴女の案内人です」
恭しく頭を下げるヴァイス。その姿は、執事を思わせる。
「それと、貴女は間違いなくローゼ様です。証拠に……」
スーツのポケットから、光る薔薇色の石のついた銀の鎖のネックレスを出すヴァイス。
「この輝き……貴女がローゼ様である決定的な証拠です」
薔薇色の石が、強く光を放っている。
「綺麗……」
フリアは、その光を見つめながら、自分が少し落ち着いてきたのを感じる。この暗い中一人でいるのは、はっきり言って怖い。ヴァイスとは初対面だが、さっきのことから、彼といればあのような化け物には襲われないと思ったのだ。
「これは、シュテルンといって、お守りのようなものです。貴女に差し上げます。常に身に付けていて下さい」
細い銀の鎖をフリアの首にかけるヴァイス。
「今日から貴女はローゼです」
フリア──いや、ローゼは、こくんと頷いた。
*登場人物紹介*
《フリア⇔ローゼ》
主人公。お嬢様育ちで夢見がちな女の子。母親の前では上品な自分を演じるが、普段は普通の女の子。ピアノと子猫が大好き。
《メーア》
フリアの飼い猫。ひなたぼっこが好き。いつもそっけない態度ばかりだが、フリアのことを慕う優しい一面も。