第一楽章・十五、選択肢は一つ
「着いたよ」
見慣れた城の前に降り立つ二人。
「疲れた……」
「そうだね。少し休ませてもらったほうがいい。ちょっとした旅だったからね」
ツァイトがそう言ったのとほぼ同時に、城の門が開いた。
「ローゼ様……」
そこには、ヴァイスが立っていた。
「ローゼ様……ローゼ様ですね! もう……もう二度と会えないかと思っていました!」
ローゼの手を取り、叫ぶヴァイス。
「ヴァイス……」
「ローゼ様……申し訳ございません」
そう言うと、ヴァイスは左胸に右手を当て、片膝をつき深く頭を下げた。
「な、なんで謝るの?」
「僕は……あの時一瞬、一瞬だけ、貴女があのまま落ちて死んでしまってもいいと思ってしまいました」
「……え?」
あの時──つまり、バルコニーから落ちた時を言っているのだ。
「あの時助けようと思えばすぐに、貴女を助けることが出来ました。でも……僕は助けなかった」
ぐっと詰まるヴァイス。
「ずっと後悔していました。真実を知る痛みを感じるくらいなら、死んでもらった方がマシだなんて……貴女に代わりはいないのに」
「ヴァイス……いいのよ」
ローゼはスッと前に出ると、ヴァイスの頭に手を乗せた。
「真実を知ろうとしたのは私だもの。あなたは悪くない。それに……もういいの」
もういいの。
あの世界はもう、私を受け入れてくれはしない。居場所を作ってはくれない。
「ローゼ……様?」
「あれ? なんでだろう……」
ほろりとこぼれ落ちてきた塩辛い涙。拭っても拭ってもそれは溢れ出てくる。
「ローゼ様」
ヴァイスは立ち上がり呟くと、ローゼをそっと胸に抱き寄せた。
「クスクス。では、我はこの辺で帰るとするかな」
その様子をずっと黙って見ていたツァイトが言う。
「貴方ですか。気配は感じていましたが……今頃姿を現しましたね」
「久しぶりだね。天然天使君」
「……その呼び方はどうかと思いますが」
ヴァイスの声が曇る。ローゼもツァイトの方を見た。
「一つ言っておこう。もう彼女を悲しませてはだめだよ。彼女の記憶は酷すぎた。君は、その為に彼女をこの世界に呼び寄せたのだろう?」
「当たり前のことを言わないでいただきたいですね」
「なら、安心だ」
ツァイトはふわりと浮いた。
「ツァイト……」
ローゼが呟く。
「何だい?」
消えかかったツァイトが首を傾げる。
「ありがとう」
ツァイトは、それに答えるかのようににこりと微笑むと、そのまま空気に溶け込むように消えてしまった。
「行きましょう、ローゼ様。皆が心配しています」
ヴァイスに言われるがまま、ローゼは城に入って行った。
「ローゼ〜、心配したよ〜」
城に入って真っ先に現れたのは……
「えーと、誰だっけ?」
「………」
しばしの沈黙──
「……覚えてないの?」
「ごめんなさい、記憶が……」
「ボクは……グリューンだよぉ」
「あぁ、確かドMの」
「覚えてるのそれだけなの〜!?」
「うん……」
とても正直に答えるローゼ。
「酷いよローゼ……あ、もしかして」
酷いと言いながらにやりと笑うグリューン。
「『言葉責め』でしょ〜。やだなぁローゼ、帰ってきて早々そんなにボクに気を使わなくてもいいのに〜」
ぐいっと顔を寄せてくるグリューン。反射的に後ろに下がるローゼをかばうように、ヴァイスがスッと腕を出した。
「グリューン、ローゼ様は疲れているのですよ。少しは休ませてあげてもよろしいかと」
「ふんっ。相変わらずだねヴァイスくん」
「ローゼ様の為ですから」
ヴァイスが、わざとらしくにこりと笑った。グリューンは機嫌悪そうに後ろを向く。そして思い切り叫んだ。
「ねぇー! ローゼが帰って来たよー!!」
「グリューン……」
呆れたようにため息をつくヴァイス。しばらくすると、パタパタと走ってくる音が聞こえた。
「ローゼ! 帰って来てくれると思ってたよ」
そう言って抱き着いてくるロート。
「おい、あんまローゼに近付くな」
ゲルプがロートを剥がす。
「へぇ……帰って来たんだ」
その後ろには、右手を顎に当ててローゼを見つめるブラウがいた。
「俺の予想では、城には戻って来ないと思ったんだけどね。ふむ。意外意外」
「……悪い?」
ローゼが聞くと、ブラウは少し微笑んだ。
「いいや。俺も戻って来てくれて嬉しいよ、ローゼ。だけど……」
「ゆっくりと休む時間はなさそうだな」
急にブラウの後ろから現れたシュヴァルツが、視線を後ろに向けた。廊下の奥から、ゆっくりと進む誰かの足音が聞こえる。
「モーント……?」
黙って道を空ける天使達。
「元の世界を見てきたらしいな」
ローゼの前で立ち止まるモーント。ローゼは軽く俯く。彼の威圧で声が出ない。
「話がある。来い。あと……」
モーントは辺りを見回す。
「いつまでぼうっとしているんだ、天使風情が。さっさと散れ」
荒々しく言い放ったモーントに対し、冷静な天使達は黙って一礼すると去って行った。呆然とその様子を見つめるローゼの横を通る時、ヴァイスが彼女の耳に囁く。
「大丈夫です。王子はいつもこうですから慣れています。それに……」
「それに?」
呟くローゼに答えるように。ヴァイスは後ろを向いたまま、軽く手を挙げた。
「もう王子が貴女に危害を加えることはないでしょう」
「どういうこと……?」
気が付いたらヴァイスは、いなくなっていた。
「こっちだ」
モーントに腕を捕まれ、ローゼは引っ張られるようにして歩いた。
バタン
乱暴にドアが閉められる。
「座れ」
いつになく機嫌が悪そうなモーント。
「………」
黙ってソファーに座ると、急にモーントが抱き着いてきた。
「ち……ちょっと!」
腕は完全に腰に回され、胸に顔を埋められる。
「モーント!?」
「怖かった……」
「え?」
「怖かったんだ。初めてだ」
怖かった?
初めて?
モーントはしばらく顔を埋めたまま、動かなかった。
「いなくなって初めて分かったんだ。君がいなくなった時の世界の恐さを。外出させなくなかったのも、きっと心の奥にその気持ちがあったんだろう」
ローゼは何も言わない。何も……言えなかった。
「ローゼ……」
「へぇ……あの、全く他人に興味を持たなかっ無慈悲な王子が、ねぇ」
廊下側のドアにもたれ、ふっと笑ったのはブラウ。
「ローゼは……やっぱりこの世界にいるべきだったんだね」
妖しく口元を曲げたブラウの隣が強く光り、ヴァイスが現れた。
「おや、立ち聞きですか。嫌な趣味をお持ちですね」
「まさか、たまたま通りかかっただけだよ」
眼鏡のズレを直すと、ヴァイスに向き直るブラウ。
「それに、お互い様だろう? 姿を消してずっとここにいたことぐらいは僕にも分かるよ」
ヴァイスは黙ってブラウの言葉を聞いている。
「まぁ、心配なのは分からなくもないけどね。今のローゼは迷っている。王子の一言で、その答えは簡単に変わるだろうね」
「………」
悔しそうに下を向くヴァイス。
「でも、君は何も出来ない。僕達はただの雇われ天使だからね」
「……ローゼがいなくなったら、どうなると思いますか」
「この世界かい?」
ブラウはちらっとドアを見て言った。
「さぁ……その時はその時さ」
「いいですね。あなたは楽天的な考えが出来て」
「そうでもないよ」
廊下を歩き出すブラウ。
「ただ、興味があるだけさ。ローゼがいなくなった世界に、ね」
「相変わらず悪趣味ですね」
「それほどでも」
後ろを向かずに廊下を歩きながら言葉を続けるブラウ。
「君も早く仕事に戻るといい。考えすぎてはいけないよ。いくら『愛する存在』が気になるとしても……」
「………」
ブラウの姿が、廊下の角を曲がって消える。
ヴァイスは小さくため息をつくと、豪勢で分厚い造りのドアを見た。
「あなたにだけは言われたくなかったです。ブラウ」
そうぼそりと呟くと、ブラウとは反対の方向へ歩いて行くヴァイス。もう後ろは、振り返らなかった。
紅茶を淹れるコポコポという音が、妙に静かな部屋に響き渡る。
「私ね……全部思い出したの」
「そう……」
さっきからモーントはずっとこの調子だ。
「はい、紅茶」
「あぁ、ありがとう」
紅茶を飲むモーントの動きは、なんとなくぎこちない。
「ねぇ……」
「なんだ?」
いつもは強気な口調も、今は勢いがない。
「聞いてくれる?」
「……話したいのなら話せばいい」
「何よそれ……じゃあ、話すわ」
ローゼも紅茶に手を伸ばし一口飲むと、話し始めた。
私がフリアだった頃──
全てが変わってしまったきっかけは、あの『事故』
「お父様の久しぶりの休暇の日に、私とお父様と二人で、ピクニックに行ったの」
モーントは黙って聞いている。
「久しぶりのお出かけだったから、凄く楽しかった。お母様は仕事だったから、二人きりだったけど」
過去を振り返るのは、こんなに辛いものなのだろうか。深く深呼吸してから、また話し始めるローゼ。
「芝生の上ではサンドイッチを食べたり、たくさん遊んだ。追いかけっこにボール投げ、バドミントンにブーメラン。……凄く楽しかった。でも」
でも……
「帰り道、私の帽子が風で道路まで飛ばされてしまったの。あの帽子、誕生日に貰った大切な物だった。だから、私は夢中で追いかけたの。お父様と繋いでいた手を振りほどいてまで……」
ローゼは目を閉じる。瞼の裏に映るのは、悲惨な光景。
「フリア!」
叫ぶお父様。
帽子に夢中になっていた私は、反対側から来る車に気が付かなかった。
「お父様、お父様!」
一瞬の出来事だった。
私の代わりに車の下敷きになったお父様は、二度とあの笑顔を見せてくれることはなかった。
夕日よりも紅い血しぶきの付いた車と、その近くに横たわる動かない父親。集まる野次馬に遠くから聞こえてくる救急車のサイレンの音。
今でも鮮明に覚えている。
──気が付いたら、涙が溢れていた。
「これ、使え」
ぶっきらぼうに白いハンカチを差し出すモーント。受け取るローゼ。
「……ありがとう。それでね」
……違う、こんなの違う! これは夢。悪い夢。
自分にそう言い聞かせながら、私は両手で耳を塞いで駆け出した。この場から少しでも離れたくて。
「そしたらね……」
いつの間にか目の前に、森が広がっていた。
「森に、ピアノがあったの。白いピアノ」
「………」
モーントは何も答えない。
「無意識のうちに弾いていたの。その時……」
──その時、誰かが後ろから私を抱きしめた。
「誰だったかはよく覚えてないんだけど……」
「……そうか」
「どうしたのモーント?」
今まで反応を示さなかったモーントが、少し落ち着きを無くしている。
「それから、どうなったんだ?」
「……気が付いたら、家に帰ってきていたの。お母様は泣いていた。でも私だけでも無事で良かったって、その時は言ってくれたのよ」
「その時は……か」
「えぇ……」
お母様はお父様を深く愛していた。だから急に訪れた悲しみをどう対処してよいか分からなかった。そしてその重い悲しみは……
「君にぶつけられた訳だね」
「うん……」
──人は悲しいことがあると、逃げ道を探そうとする。
「お母様は、お父様が死んでしまったのを私のせいにしたの。だから……私は邪魔な存在になった。あの日からお母様は変わってしまったの。私を嫌って、何かにつけては私を責めた」
辛い日々。実の母親から受ける暴力は、体だけでなく心も傷付けられた。
「本当は……本当はね、あの日……私がこの世界に連れて来られた日は、私がこの家を出ていく日だった。お母様は私を政略結婚させるつもりだったのよ」
フリアがいつも着ていたのは、白いぴったりとしたシンプルなドレス。
おしゃれもなにもさせてくれず、政略結婚の為の作法を押し付けられる毎日。
恋なんて出来なかった。してはいけないと心の中で何度も言い聞かせていた。
お母様は
変わってしまった
なにもかも
自分のせい
涙がとめどなく流れる。モーントは黙ってローゼの頭を撫でた。
「よく頑張って話してくれたな。辛かっただろう?」
子供みたいに泣きじゃくりながら、ローゼは優しかった母親を思い出していた。
「僕らは君をそこから助け出そうとして、君をここに連れて来たんだ」
泣いていたローゼが、ふと泣き止む。
「それって……もしかして全部知ってたの?」
「あぁ、全て知っていたよ。僕らは君を小さい時から知っている」
「どうして?」
モーントは答えない。ただ優しく微笑んだ。
「じゃあ……なんで私に話させたの?」
「君が話したいと言ったじゃないか」
「それはそうだけど……」
下を向くローゼ。それを真っ直ぐ見つめ、モーントは言った。
「本当は……君を試した」
「え?」
「君がその事実を、きちんと受け入れているか知りたかったんだ」
「それは……」
視線を窓に向けるローゼ。
「この国は君無しでは成り立たない」
モーントは頭を撫でる手を止めずに続ける。
「この世界は君を必要としているんだ。だが、僕らは君をいきなりこの世界に連れてきてしまった」
「………」
「君に選択肢を与えよう。この世界に留まるか、元の世界に戻るか」
「元の……世界?」
「君が連れていかれる瞬間。つまり、あの白いピアノを弾いていた時に戻ることが出来る。君が望めば、ね」
戻ることができる
元の世界に……
「どうする? 今すぐに答えを出せとは言わないが」
「私は……」
答えは、決まっている
なのに言い出せない
自分の選択が合っているのか
考えれば考えるほど
分からなくなる
「私、は……」
「君は?」
ローゼから離れ、ソファーに座るモーント。座り方こそ偉そうだが、口調は優しい。
重い口を、ゆっくりと開く。
私は、この世界にいるわ──
モーントは、一瞬驚いたような表情をしたが、すぐにいつもの冷たい表情に戻った。
「それで、良いんだな」
「うん」
「良かった……」
「本当?」
「こちらとしては有り難いからな。その理由は聞いてもいいか?」
「理由は……」
理由は
お父様に
生きていて欲しかったから
「もう会えることはなくても、ここが私の世界とは別の世界だとしても、お父様には生きていて欲しい。お母様と幸せに暮らして欲しい」
私がいると
その幸せが
壊れてしまうから
私がいたら綺麗な旋律も
ただの不協和音となり消えていく
「……そうか」
空はすっかり暗くなっていた。モーントは言う。
「自分を差し置いてでも両親には幸せでいてほしい……ということか」
「えぇ」
迷いを押し込み、一つの選択を見続ける。でないとまた迷ってしまいそうだから。
「心配は無用だ。君の幸せは保障されている」
「……どういうこと?」
「さぁな」
適当に答えて席を立つモーント。
「疲れただろう。今日はもう休みなさい。そうだな……明日が良い。明日に儀式を行う」
「儀式?」
「君が正式にこの国の住人になる為の儀式だ。といっても形式的なものだからな。気楽にやれば良い」
「そう……」
モーントはローゼに近づくと、そっと顔を近づけた。少しでも動けば唇が触れてしまいそうな至近距離で、モーントは少し迷ったように止まると、ローゼの頬にそっと口づけた。
「お休み。良い夢を」
頬がほんのり赤く染まるローゼ。
「……お休み」
そう言って部屋を出ていくローゼの後ろ姿を、じっと見つめるモーント。そしてローゼがいなくなった後も、ずっと……
そして、微かに口元を上げ静かに笑った──