第一楽章・十四、元の世界へ
「……ここは?」
ローゼのツァイトの手を握る力が強くなる。
何もかもが歪んで見える世界。きちんと地に足をついているのかも分からない。そんな中を、二人は歩いている。ツァイトの手を離してしまったら、その歪みに飲み込まれてしまいそうだ。
「『道』だよ。今は君の世界に向かって歩いているんだ」
そう言うとまた、ツァイトはクスクスと笑った。
「怖いのかい?」
「怖くは……ないわ。ただ、不思議だなって」
「そうか。我はもう見慣れてしまったからわからないけど、初めての人はそう思うのかな」
「でも……私、一回ここを通って来ているはずだわ。だけど、こんな道通ったことない」
ローゼがそう言うと、ツァイトはうーんと唸ってから言った。
「それは君が天使君に飛ばされたからじゃないかな」
「飛ばされた?」
「うん。我が出来るのは、道を繋げることだけ。ある程度の力を持った人ではないと、人を飛ばすことは出来ないんだよ。例えば、ルプラみたいにね」
ローゼは思い出す。ルプラとこの世界に来た時、黒と紫の渦に引き込まれた。
『あの時』も一緒。
自分が初めてこの世界に連れて来られた時も……
「まぁ、どこかの天然天使君がうっかり場所を間違えて飛ばしちゃったみたいだけど」
苦笑まじりに言うツァイト。
そう。あの時、恐ろしい雑食犬、『フント』に襲われかけたっけ。
少しずつ、でも確実に、今までの記憶が蘇っていく。
「さぁて、そろそろ着くかな」
その瞬間、急に足場が無くなったかのように急降下した。
「え!? キャア!」
「ひゃっほーい♪」
底無しの穴に落ちているような感覚。
「いやー楽しいね」
まだ落ちているというのに近くで聞こえる、呑気なツァイトの声。
「我はこの瞬間が一番好きなんだ」
「──ッ」
未だに驚きで声が出ないローゼ。
「楽しいよね、落ちていくのって。でも──」
ローゼにぐいっと顔を近付けて、耳に囁くツァイト。
「そろそろ到着だ」
二人は、足元から淡い光に包まれていった。
「──ゼ、ローゼ」
「……ふぇ?」
「クスクス。やっと目覚めたみたいだね。無事に着いたようだよ」
眩しい。目を擦って何度か瞬きをすると、懐かしい風景が目に映った。
「ここは……」
「君の家の庭だよ。記憶はあるかい」
「見たことがある気が……うっ」
軽く頭痛がした。
「あれ?」
こめかみを押さえるローゼを見て、首を傾げるツァイト。
「もうシュテルンが再生し始めたのかな? まあいい。我は君の記憶の箱を開く鍵を知っているからね」
「ツァイ……ト……いた……い」
痛みが度を越えてきたのか、縋るような声のローゼ。
「はいはい」
ツァイトはにっこりと微笑み、ローゼの頭を軽く撫でた。
「お目覚めなさい。『フリア』」
「………」
苦しんでいるローゼの動きが、止まった。
「あれ? 私……」
「記憶は戻ったかな? フリア」
「フリア……」
シャボン玉が弾けるように、ローゼの脳内に鮮明な映像が映し出された。
フリアは幸せだった。
優しいお母様と、素敵なお父様。絵に描いたかのように美しく、仲の良い両親。周りから羨まれるような、最高の家族。両親はそれぞれ働いていたけれど、その分家庭は裕福であった。
フリアは幸せだった。
あの日が来るまでは。
幸せな日々というのは脆く、気を抜けばすぐに壊れてしまう。
一音でも欠けたら成り立たない、一つの音楽のように。
「フリア、準備は出来たかい?」
「うん!」
「気をつけて言ってくるのよ」
「「はーい!!」」
「まぁ、あなたまで子供みたいな返事して」
「ははは。いいじゃないか。せっかくの休みなんだから」
「そうね。楽しんできて下さいな」
「ああ、そうするよ。君も一緒に行けたら良かったんだけどな」
「ごめんなさいね。急に仕事が入ってしまって」
「仕方ないな。仕事、頑張ってきなさい」
「えぇ」
「じゃあフリア、行くぞ」
「はぁい」
お父様の久しぶりの休暇。休暇が取れたら、真っ先にピクニックへ出かけようという約束をしていた。
「お母様は一緒に来ないの?」
無邪気に聞くフリアは、六歳になったばかり。
「あぁ、お母さんはどうしても行かなければいけない用が出来てしまったんだ」
「またおしごと?」
「……そうだな」
「さみしいね」
「そうだね。でもせっかくお父さんが休みなんだ。二人だけでも楽しもう!」
「うん!」
その日は太陽が眩しく、ピクニックにぴったりの日和だった。
綺麗な芝生の上で二人はサンドイッチを食べ、くたくたになるまで遊んだ。
追いかけっこにボール投げ、バドミントンにブーメラン。
まるで、今までこうして遊ぶことの無かった日々を埋め合わせるかのように、二人は楽しい時を過ごしていた。
──楽しい時間は、すぐに過ぎ去って行くもの。
「じゃあそろそろ、帰ろうか」
「いやだー。まだ遊びたい!」
「そうだね。お父さんも帰りたくない。でも、見てごらん。綺麗な夕日が出ているよ」
「本当だ」
紅い夕日が、二人の頬を赤く染めている。
「夕日が見守ってくれている間に帰らないと、夜になってしまうからね」
二人は手を繋いで帰った。
──その手を、離さなければ。
「フリア!」
まだ幸せでいられたのに。
「お父様、お父様!」
目の前には
夕日よりも紅い血しぶきの付いた車と
その近くに横たわる動かない父親
集まる野次馬に
遠くから聞こえてくる救急車のサイレンの音
「違う……違うよっ!」
こんなの違う!
これは夢。悪い夢よ!
フリアは両手で耳を塞ぐと、駆け出していた。どこに行くなど考えていない。ただ、この場から少しでも離れたかった。
どのくらい走っていただろう。いつの間にか目の前に、森が広がっていた。
「こんなとこに森なんてあったっけ……」
驚くも進む足は止まらない。何かに誘われるように歩いて行くと、急に森が開けた。
「ピアノ……」
日も沈み、真っ暗なはずのそこには、光を放つ白いピアノがあった。
「きれい……」
フリアは白いピアノが好きだった。何の混じりもない、真っ白なピアノが。だからつい最近、父親にも白いピアノを買ってもらった。
何かに引っ張られるかのように、フリアはピアノに向かって歩いていた。ピアノもそんなフリアを迎えいれるかのように、暖かな光を放っていた。
トーン──
静かな空間に響く、『ド』の音。
フリアは椅子に座ると、ピアノを弾きだした。まるでそれが当然のように、最初から弾くことが決まっていたかのように。
そこにいつからいたのか、一人の男が立っていた。
「ローゼ……様?」
男は小さな声で呟いた。フリアには聞こえないくらい、とても小さな声で。表情はとても驚いたようだった。
フリアが弾いていたのは、『きらきら星』。少し前に初めての発表会で弾いた曲だ。
「お父様……」
誰よりもその発表会を楽しみにし、誰よりも「がんばったね」って褒めてくれた。それがフリアの『お父様』。
「うっ……ひくっ」
弾き終えた後の静けさが、急に怖くなった。
「お父……様……ひっく」
フリアは泣いていた。あまり声をあげずに。その悲しみを噛み締めるように。その時……
「!?」
驚くフリア。彼女の頬を濡らす涙を、生暖かい手がそっと拭ったのだ。
「どうして、泣いておられるのですか?」
後ろから聞こえる、心地好い響きのテノールボイス。
「何か、悲しいことでもあったのですか?」
「ひくっ……お父……様が……いなく……なっちゃ…た……」
「………」
男は、そう言って泣くフリアをしばらく黙って見つめ
「大切な人を、亡くしてしまわれたのですね」
そう呟き、フリアの震える肩をそっと抱きしめた。
「……ひくっ……うぅ」
男の胸に顔を埋めて泣くフリア。
「そう、ですか……」
男は抱きしめる力を少し強めた。
「そんなもの、消してしまえばいいんです」
「え……?」
急に言われた言葉に、泣くのを止め、男を見るフリア。男の顔は、光が眩しくてよく見えない。
「僕が、消してあげます。何もかも。貴女を悲しませるものを、全て」
全て消してしまえば
貴女は泣かなくてすむでしょう?
「全部消しちゃうの?」
「えぇ、貴女が望むのなら」
何もかも全部
消してさしあげましょう
「ローゼ!」
「はっ!」
ツァイトに呼ばれ、ビクッとして我に返るローゼ。
「どうしたのかい? 随分とぼーっとしていたけれど」
「記憶……」
ローゼは自分の頬に手を当てた。
「昔の記憶……戻ってきた」
「クスッ。それは良かったじゃないか」
ローゼの手を引くと、ふわりと浮かび上がるツァイト。
「じゃあこの庭も、分かるかな?」
「えぇ……私の、私の家の庭よね」
「正解。それでは行こうか。覚えているよね? 何を見ても──」
「全て受け入れる。でしょ?」
「そう。覚悟は出来たかな?」
全てを
知る為に──
ピアノの音が聞こえる。
この音は、紛れも無くお母様のものだ。
『あの日』から全く聞くことの無かった、美しい旋律……
しばらく歩くと、広い庭に二つの人影が見えた。
「今日はいい天気ね」
「お母さ……ま?」
駆け寄ろうとしたローゼは、急に足を止めた。彼女の目の前にはあの冷淡だった母親と
「そうだな」
にこやかに笑う父親がいた。
「どうしたのかい?」
後ろにいるツァイトが聞く。
「お父様が……いる」
「やっぱり、驚くよねー」
驚きで動けないローゼとは反対に、気楽な声で言うツァイト。
「どうして!? お父様は……」
お父様は
亡くなったはず
「もう、会えないはずなのに……なんで……」
目の前で楽しそうに会話をしている、ローゼの父親と母親。母親はまだピアノを奏で続けている。その様子を呆然と見つめるローゼ。
「本当のこと、聞きたい?」
ツァイトがローゼの頭をふわっと撫でた。
「本当の……こと?」
「ここに君の『存在』はもう無いんだよ」
「……どういうこと?」
「クスクス。随分と落ち着いているね。驚いただろう?」
「……あなたが言ったじゃない。何を見ても──」
「そうだよ。我が言った。でないと、君は何をするか分からないからね。人の心はどこかで制御しない限り、暴走してしまう」
軽く俯いたツァイトの表情は、長い前髪で見えない。
「今だって叫びたいわ。怖いの……ねぇ、何故お父様が?」
「さっき言ったみたいに、君の存在はもうここには無いのさ。君をムズィークに連れて行くときに、ヴァイスが施したんだ。君という存在を完全に消すという後始末を、ね」
震えるローゼの肩に、未だに表情の見えないツァイトが両手を置く。
「我の住んでいた世界のルールだ。君がいきなり消えたら、行方不明事件になってしまうだろう? 君のもといた世界に傷をつけてはいけない決まりだからね」
「私が消えたから……お父様が生き返ったの?」
「少し違うね。君は最初からこの世界にいなかったことになっている。君以外の亡くなるきっかけがなかったから、彼は生きているんだ。つまり、歴史が変わったんだよ」
クスクスと笑うツァイト。
こんな時に……とローゼはツァイトを見る。普通に見ているつもりだったけど、睨むような目になってしまった。
「そんな……んっ!」
急に肩を引かれて、バランスを崩したローゼは前に倒れた。そのまま、ぽすんとツァイトの胸に飛び込んでしまう。
「泣いていいよ。悲しいだろう? 君の存在はこの世界だとはっきりしないから、誰も君のことは見えない。もっとも、君自体を知らないのだからどうしようもないだろうけど……」
ローゼはしばらく、ツァイトの胸に身を委ねていた。そうしていないと、壊れそうだった。何もかもが音をたてて、崩れていく気がした。
「……泣かないのかい?」
「二人共……幸せそうね」
ローゼはツァイトの胸に顔を埋めたまま、そう呟いた。
「幸せ……ね」
ツァイトはローゼの頭を撫でる。
「その幸せを壊したのは、私」
「………」
ツァイトは、何も言わなかった。ただ、黙ってローゼの頭を撫でている。
「……帰るわ」
ローゼは、やんわりとツァイトの胸を押した。
「帰る? ムズィークへかい?」
「えぇ」
未だに楽しげに会話する両親を見つめるローゼ。
「私はここに居てはいけない。だって、私の存在があるのはムズィークの方じゃない」
「そうだね……君が望むのなら」
帰ろう
君の世界へ
君を、必要としてくれる世界へ
ツァイトはローゼの手を握った。ローゼも強く握りかえし、悲しく笑った。
ピアノの奏でる美しい幸福の調べは、二人が居なくなったあともずっと、響き渡っていた。