第一楽章・十二、全ては貴女の為
突き刺さるような、冷たい、冷たい声。それに相応しい冷めた視線は、感情も何も無く、ただ目の前の標的を見つめるだけ。
それは、彼らのもう一つの顔
「お、お前は……」
「まだ生きていたんですか。邪魔です。早く消えて下さい」
「そんなつもりは無いんだ! ローゼに……ローゼに一目でも会わせてくれればっ……」
「ローゼ様を呼び捨てするような愚民に、彼女に会う権利などありません」
「なんだと!」
「消えて下さい」
感情の無い済んだテノールボイスが、辺りに響き渡った。
「うっ、ウヮァァァア!!!」
カシャン──
「あっ」
ローゼの手からマグカップが滑り落ち、床に落ちて割れる。
『もう。仕方ないわね』
黒猫のメーアが、落ちたマグカップを見て言った。あの後ブラウに何をされたのか分からないが、ローゼのもとに戻ってきたメーアは二本足で歩けるようになり、彼女をローゼと呼ぶようになっていた。
『考えごとばかりしているから』
「だって……。あぁ、どうしよう。後でメイドさんに謝らないと。はぁ……中身全部飲んだ後でよかった」
『拾わない方がいいんじゃない?』
メーアの言葉を無視して、マグカップの残骸を拾うローゼ。
「痛っ……」
『ほら、言わんこっちゃない』
指から流れ出る赤い血を見る。頭がズキッと痛んだ。
「行かなきゃ……」
何度その言葉を呟き、ため息をついたことであろう。
「私が居なくなった世界は、どうなっているのかしら」
またため息をつく。
「ずっとここにいるわけにはいかないのよ。ね、メーア」
『あなたがそう思うのならそうなんじゃない?』
適当なことを言ってコロンと寝転ぶメーア。
《驚イタ。アナタはココの住人じゃない動物とも話セルんだ》
相変わらず胸で輝いているシュテルンが、急に呟いた。
「うん……あっ!」
『どうした?』
「前にブラウが、『役割』を持つ人は『能力』を持つって言ってたから……」
《動物と話せるコトが、アナタの『役割』に就く為に必要な『能力』なのかって言いタイの?》
頷くローゼ。
《まぁ、アナタの役割の条件が、そんな大したことナイ条件ダケだとは思わないケド。それに、天使達も普通にソノ猫と話しているトコロを見たデショウ》
「そう……ね」
ローゼはメーアを撫でる。
「なんでだろう。前はこんなこと考えると苦しくなったのに」
《ワタシがアナタの記憶を制御してるカラね》
シュテルンが、存在をアピールするように、強めに光を放つ。
《結局、アナタはワタシなしでは生きてイケナイのよ。コノ世界でも、アナタの世界でも。この記憶がアル限り。それが『ローゼ』》
「じゃあ尚更もとの世界に戻りたいわ。戻って確かめないと。私の記憶を。このままじゃ、前に進めない」
血の固まり始めた小さな傷口を見つめるローゼ。
《ムリよ。この旋律の城にいる限り、ね》
「なんで?」
メーアが寝息をたて始めた。わずかに上下する背を愛しげに撫でるローゼ。
《ソレは教えられない》
「どうして?」
《アナタは勘違いしてるわネ。ワタシはこの城に仕える石。アナタの味方ではナイ》
「……何よ、それ」
《ワタシの仕事は、アナタの心が暴走しないように制御スルコト》
そんないつも滑らかに聞こえないシュテルンの声は、明らかに少し曇っていた。
「そんな……あ!」
ローゼは急に思い出したかのように立ち上がる。
『うるさいな。どうした』
「ごめんねメーア。起こしちゃって」
《ソンナに慌ててドウシタの?》
シュテルンの言葉など聞こえていないかのように、部屋着からエプロンドレスに着替え始めるローゼ。
「行かなくちゃ……」
何か辛いことや、困ったことがあったら、私の所に来なさい。天使様に言えば、連れてきてくれるでしょう──
乱暴にドアを開け、廊下を走るローゼ。
誰でもいいわ。天使はいないの?
いつの間にか裏の玄関までたどり着いていた。
「はぁ……誰か……」
そんな言葉が聞こえたかのように、重そうな裏玄関の扉が開いた。
「ヴァイ……ス?」
そこには、白い羽とスーツを──
真っ赤に染めたヴァイスがいた。
「ヴァイス、なの? ……なん、で?」
震える声で尋ねるローゼ。上手く声になっているかも分からない。鉄の焼けるような嫌な臭いが鼻をつく。
「ねぇ……」
「ローゼ様」
ローゼがいることを予想していなかったのだろう。ヴァイスは一瞬驚いた表情をした後、そっとローゼに近付いた。
「どうして? なんで?」
「全ては、ローゼ様の為なのですよ」
血まみれの姿のまま、ローゼを抱きしめるヴァイス。まるで、ローゼに自分の姿を見せないように。
「その血は……ヴァイスの?」
「いいえ。ただの返り血です」
「『排除』した人の?」
「そうです」
抱きしめられている状態で話されて、耳元に熱い息がかかる。
何もかもが熱い。腕も、胸もヴァイスの全てを熱く感じる。
「なんで……?」
「さっきも言ったでしょう。全ては貴女の為なのです」
「私なんかの為に、あなたはそんなに汚れているの? あなたは、天使なんでしょう?」
「僕は『天使』という役割についているだけです。貴女の知っている天使の意味と、この世界での天使の意味はおそらく違うのでしょう。この世界の天使は『音の国ムズィークを守る者』。貴女はこの世界に必要不可欠な存在なのです。だから、貴女を傷付けようとするものには、消えてもらわなければなりません」
「でも……んんっ……」
ヴァイスの柔らかな唇がローゼが話すのを拒んだ。
「……ヴァイス!?」
いきなりのことに目を見開くローゼ。
「貴女が心配する必要はありません。もう少しで『仕事』も終わります」
宥めるようなヴァイスの声。
「だからって、そんな、酷い……」
それ以上話させないというように、再びローゼに口づけするヴァイス。それは押し付けるような、彼らしくない荒々しいものであった。息が苦しくなって緩んだ唇の間を割って、ローゼの中に自分の舌を滑りこませる。
逃げようにも、頭と腰をしっかりと固定されてしまって動けない。さっきとは違い、動きが優しくなる。唇を甘噛みされ、焦らすように唇を舐められる。
「んっ……ふ……」
ねっとりと、ゆっくりと、まるでローゼの心配を吸い取るかのように深くなっていく口づけ。優しく、優しく、ローゼの理性を奪ってゆく。
静かな廊下に響く、妖しげな水音。それがさらにローゼを追い込める。
「ぁ……」
今自分がどんな状態にあるかなんて、ローゼには分からない。上り詰める感情と、上手く入らない腕の力。頭が真っ白になり、感じるのは相手の胸の温もりと、痺れるような快楽だけだった。
「忘れて貰えましたか?」
焦点の合わない虚ろな瞳のローゼを、愛しげに見つめるヴァイス。
「……だから、貴女に会わないように努力していたんです。まさか貴女から会いに来て頂けるなんて思ってもなかったですから」
血の付いた手袋を取り、さらっとローゼの髪に指を通すヴァイス。
「申し訳ございません。服を汚してしまったようですね。部屋に戻りましょう。話はそれからということで」
何か話したげのローゼを見透かしたように、ヴァイスはローゼの肩を持って押した。
「ヴァイス……」
「何ですか?」
「……なんでもないわ。行きましょう」
「そうですか」
ヴァイスが腰に片腕を回すと、ローゼは少し俯く。そんなローゼを誘導するように、ヴァイスは歩き始めた。
「……夢を見るの」
「楽しい夢……ではなさそうですね」
新しい服に着替えたヴァイスとローゼは、バルコニーにある小さな丸テーブルに向かい合って座る。
「多分過去の記憶……だと思う」
「記憶……ですか」
シュテルンを見つめるヴァイス。
「そういえば、指、怪我してましたね」
急に話を逸らされる。
「あ、そういえばマグカップを落として……」
たった今気付いたように指先を見つめるローゼ。
「見せて下さい」
ローゼが手を出すと、ヴァイスはそれを両手で包み込んだ。
「光」
小さな声で呟くと、両手の中が一瞬光った。
「あ……治ってる」
「治し屋程の力はありませんが、こんな使い方もあるんですよ」
にっこりと微笑むヴァイス。
《話を逸らそうとするナンテ、脳がナイね。ヴァイス》
カチン。と音がしそうなくらいに笑顔が固まるヴァイス。
「あなたはいつから普通に言葉を発するようになったんですか?」
《最近集まるチカラが多クテね》
「力?」
首を傾げるローゼ。
「貴女は知らなくても──」
《もうそんなコトは言ってられナクなってきたのヨ。もうアンタの思い通りに事は進まナイ。ローゼ、集まるチカラっていうのはね、天使達が『排除』した人達の魂ヨ。行き場を失ッタ魂達は、ワタシのチカラとなる》
ヴァイスの言葉を遮って言うシュテルン。
「シュテルン!」
「そ、んな……」
衝撃を受けるローゼ。この国はやっぱりおかしい。自分の為に、沢山の人が殺されて、そう、全ては自分の為だとヴァイスは言った。
自分さえ居なければ……
いつの日かよく、曇り空を見て思ったこと。
私 さ え 居 な け れ ば 良 か っ た の に
「……そう、ですか」
静かに言うと、ヴァイスは立ち上がってローゼに近付く。
「だったら僕が忘れさせてあげます。貴女がそんなこと考えられなくなるぐらいに、僕が──」
「止めて!!」
ヴァイスの伸ばした手が、空を切る。
「止め、て……」
とっさに逃げたローゼ。ヴァイスは、空を切った手を見つめる。
「何故です? 何故知ろうとするのですか? 貴女を悲しませるだけの、過去を」
「だって……」
何故?
何故知らなくてはいけない?
「分からない。でも……」
「記憶に穴があいてしまったのが嫌でしたら、僕が埋めてあげます。僕しか考えられない程に、他に何も興味を示さなくなるくらいに!」
違う。
──違うんだ。
「そんなの、ヴァイスじゃない」
バルコニーの手摺りまで追い詰められたローゼ。ヴァイスの歩みが、止まる。
「僕じゃない……ですか?」
「ちょっと天然で、でも優しくて、最初この国に来て戸惑っていた私の傍にずっといてくれたのがヴァイス」
ヴァイスは黙ってローゼを見ている。
「でも違った。最初あなたに……キス、された時、私は何も考えなくなった。何故この国に来たのかとか。さっきもそう。あなたが私に近付くのは、力の源の為だけじゃない。そうでしょ?」
「……全ては、ローゼ様の為です」
「私の……為?」
ヴァイスは、暗い曇り空に目を向けた。
「貴女は、何も考えなくて良いんです。何も知らなくて良いんです。僕達『天使』が貴女から力の源を頂く代わりに与える、快楽、享楽。僕はそれによって、貴女から記憶が消えていくことを望んでいました。シュテルンも使ったのに」
《役立たずで悪かったわネ》
場に似つかわしくないふて腐れた言葉を挟むシュテルン。
「どうして? どうしてそんなにあっ──」
「ローゼ様!!」
元々そこまで高くなかったバルコニーの手摺り。かなりの高さに位置するバルコニーから、後ろを見ていなかったローゼは転落した。
「ローゼ様……」
あと少し、手を伸ばしさえすれば
今からでも彼女を追えば、確実に助けることが出来る
なのに……
「ローゼ、様……」
段々と小さくなっていく愛しい人の影。
彼女の名前を呟くヴァイスは、呆然とその様子を見つめる以外、何も出来なかった。