第一楽章・十一、雨の日の憂鬱
あの日から、全く外に出してもらえなくなったローゼ。ヴァイスに抱かれて帰ってきた後、酷く叱られたのだ。
「暇ね……」
カーテンの隙間から、雨が激しく降っている様子を、ぼうっと見つめるローゼ。
「仕方ないことだね。君が帰って来たと言う噂が国中に広まり、秩序が崩れ始めてしまったからだよ」
聞き慣れた説明口調。
後ろには、たった今帰ってきたであろうブラウが立っていた。しっとりと濡れた薄青のスーツから、ポタポタと雫が垂れている。
「嗚呼、俺としたことが。床を濡らしてしまう」
ブラウは無造作に腕を横に振り、床に水溜まりを作っていた水までも全て、薙ぎ払うように消してしまった。綺麗に乾いた髪が、一瞬揺れる。
「………」
そのありえないはずの様子を、無表情で見つめるローゼ。
といっても水を司る天使だ。これくらいはの能力は普通といっても良いだろう。
この世界で起こることは、どれも不思議なことばかりだ。ローゼは、何が起こっても対して驚かなくなっていた。
そう、少しずつ、この世界に順応している──
「暇でしょう。よかったら今日は俺が相手をしてあげるよ」
ローゼを真っすぐに見据えながら、歩いてくるブラウ。
「仕事は?」
六色の天使も王子も、その秩序の乱れのせいか知らないが、最近ずっと仕事で忙しい。
気を使って会ってくれたりもするが、それでも少しばかり言葉を交わすだけ。城の使用人も忙しいらしく、ローゼはいつも一人ぼっちだった。
「今日の分の仕事はもう終わったんだ。俺、雨の日は結構強くてね」
にっこりと微笑むブラウからは、微かに血の香りがした気がした。
「……ふーん」
ブラウが一歩近付く。ローゼも一歩後ろに下がる。
「どうしたの?」
鼓動が速くなる。でも違う。これは惑わされてるだけ──分かっているのに。
ブラウが一歩近付く。
「ねぇ」
ローゼも一歩下がる。
「なに?」
ブラウがまた一歩近付く。
鼓動が速くなる。ローゼは、震える足でもう一歩下がる。苦しい。
「これもっ……力の源の為なんでしょ……」
一歩踏み出そうとしたブラウの足が、止まった。そのまま手を顎にあてる。
「……なるほど。それは王子に聞いたんだね」
「………」
ブラウはまたローゼに向かって歩を進めた。
「王子を信じるんだね」
どん!
後ろの壁に背がぶつかる。逃げられない。
「君がそう思うのは構わないけれど……一つ、違うことがある」
「何っ……?」
「俺は、本気で君を愛しているということだよ」
そして、抱きしめられた──
「好きだ。愛している。だから俺のことを信じて欲しい」
「そんな……そんな簡単に信じられないわ」
ローゼは静かに言う。誰も信じられない。どうせ自分は一人ぼっち。
「でも──」
ブラウの指がローゼの首筋をなぞり、そのまま下へと降りた。
「『ココ』は正直だよ」
びくん。と体が反応する。
ブラウが触れているのは、ちょうど心臓のところ。
「それは──」
「君のその鼓動の速さは、偽物だと言いたいのかい?」
「それはあなたのせいでしょ!」
「俺は今、何もしていないよ?」
「………」
耳元で聞こえる、低い笑い声。
歪んでる
もう惑わされない
惑わされたく、ない
「……私は、あなたのことを好きじゃない」
「別にいいよ」
抱きしめる力が、少し強くなった気がした。
「本音を言えば、もう少し騙されていてほしかったところなんだけど」
ぼそりとつぶやきながら、ソッと腕が外される。
「え?」
「なんでもないよ。今日は普通に話そうか」
何事も無かったかのようにソファーに座るブラウ。
「隣にどうぞ」
ローゼは、その言葉を無視し向かいのソファーに座った……。
「そういえば……」
ブラウの持ってきたロイヤルミルクティーを一口啜る。甘い香りが心地好い。
「なに?」
「天使達の仕事ってどんなことするの?」
ブラウが持っていたカップを机に置く。カタン、という音が、妙に大きく部屋に響いた。
「聞きたいのかい?」
「うん。だって気になる。凄く忙しそうだし」
「そう……」
ブラウはしばらく、雨の雫が絶えず叩きつけられている窓を見つめていた。言おうか迷っているようだ。
「じゃあ、こうしようか」
ブラウはおもむろに立ち上がると、ローゼの隣に座った。
思わず立ち上がるローゼ。
「まだ好きになってくれないんだね。悲しいな」
ブラウは少し眉を顰めると、ローゼの腕を掴んで無理矢理座らせた。
こういう時、女の力は男にかなわない。そのまま強引にソファーに座らされるローゼ。
「交換条件だよ」
「交換条件?」
「君が少しの間だけ、俺に気を許してくれるのなら、俺は君の質問に答える。どう?」
「……っどうしてそうなるの?」
「俺がそうしたいからだよ」
「意地悪ね」
「君が好きだから。それに」
──怖いんだ
「……え?」
ぼそりと呟いたブラウの言葉、いつもと違って弱々しい。
ブラウはそっと眼鏡を外した。
「その話をして、君に嫌われるのが怖い」
レンズ越しでない、深い青の瞳に見つめられる。
「さぁ、答えて」
「………」
どうして迷っているのだろう。彼が見ているのは自分ではなく、自分から得られる力なのかもしれないのに。
高鳴る鼓動は、未だに治まることはない。
「……分かったわ」
知りたかった
そこまでして隠す
彼らの『仕事』を
「………」
ブラウは、再び眼鏡をかけた。
「意外とすんなりと受け入れてくれたね。やっぱり俺のことが──」
「早く教えて」
知りたい
知りたい
焦る気持ち
全ては単なる好奇心だということを
彼女は知らない
「じゃあまず俺から……」
優しく抱きしめられても、その冷たい手で頭を撫でられても、心の葛藤は止まらない。
これは私じゃない
私じゃない私、それは……
「んっ……」
変な考えに気をとられていたローゼは、ブラウの次の行動を避けることが出来なかった。
ブラウの冷たい唇が、考える力を失わせる。
「やめっ……」
そのまま視界が反転する。視界いっぱいに広がるのは、ブラウの冷たい微笑み。背中にはベッドの柔らかい感触。
「君が冷たいと、俺も悲しくなるよ」
「そんなっ……うっ」
「いい加減俺を好きになってくれ。でないと俺はおかしくなってしまう」
「いやっ……」
暴れる手を強引に捕まれ、身動き出来なくさせられる。
「やめ……て……」
ローゼの声は恐怖に掠れ、窓に叩き付けられる激しい雨の音に掻き消された。
バン!
「ローゼを傷付けないのは鉄則だったはずだ。天使風情が」
乱暴にドアが開き、顔を出したのはモーント。
「王子……か」
ブラウはすぐにローゼを離すと、乱れた服装を整える。
「勝手に人の部屋に入って来るなんて、王子はいつから礼儀知らずになったんだい?」
「うるさい。消すぞ」
「ルールを破って、俺を消してどうなる?」
「……だからお前は嫌いなんだ」
モーントはため息をつくと、ローゼを抱き上げて起こす。
「ルールって?」
「君には関係ないことだ」
モーントがそう言うと、ブラウが口を開く。
「それに、俺はローゼを傷付けるような事をしていない。交換条件だったからね。ルールにも、交換条件にはお互い忠実に従うべきだとあったはずだ。そうだろう? 王子様」
「……チッ」
舌打ちするモーントにも構わず、ブラウは続ける。
「俺の条件は終わった。あとは、彼女の願いを聞き入れなくてはいけないんだ。王子、あなたはまだ仕事が残っているのでは?」
「……これ以上ローゼに危害を加えたら、本当に消すからな」
たとえルール違反でも、と付け加えるモーント。
「かしこまりました」
丁寧にお辞儀をするブラウ。「危害を加えるつもりは無かったんだけどな」と小声で付け加えて。
「ローゼも、また何かされそうになったら僕を呼びなさい」
「……うん」
命令口調と鋭い眼光で見つめられ、ローゼはただ頷くしかなかった。
「じゃあ……話そうか」
ここはティールーム。どうやらブラウは、この部屋がお気に入りらしい。
「本当はこんな話したら君に嫌われそうで嫌なんだけどね」
「心配しなくても、私は最初からあなたのこと好きじゃないわ」
「そんな……酷いな。天使の心は傷付きやすいんだよ」
「そんなの知らないわ。早く教えてよ」
ブラウはしばらくローゼを見つめてから、ため息と共に言った。
「分かったよ」
「ローゼ様、コンフィテューレはいかが?」
「ありがとう」
チューリップから受け取ったコンフィテューレを口に運ぶローゼ。
「単刀直入に言うね。俺達の仕事は、ローゼを狙う奴らを『排除』することなんだ」
「……っ、ゲホッ」
「大丈夫ですか? ローゼ様、お水です」
マーガレットから貰った水を飲み、ほっと息をつくローゼ。
「『排除』って……」
「……だから言いたくなかったんだよ」
ブラウは続ける。
「ローゼが知る必要は無いんだ。君は『安全』なこの城で、君の音楽を奏でてくれていればいい。それだけで良かった」
──それでも最後まで、聞きたいかい?
ブラウの問いに、ローゼは少し黙る。ブラウの口調は、ただいたずらに教えないのではなく、本気でローゼを心配しているようであった。
「……でも」
《知らなくちゃイケナイ……デショ?》
「え!?」
急に心に響いてきた、聞き慣れた『声』。ブラウはちょうどその声が聞こえたかのように、興味深そうにローゼの胸元を見た。
「存在は知ってたけど、『声』を聞いたのは初めてだな。シュテルン」
《黙ってアナタの言葉を聞イテルのは結構辛くてネ》
「え? 待って!!」
この宝石……喋るの?
「意思のある石だよ。石だって、時々話したくはなるでしょう?」
ややこしいことを言ってにっこりと微笑むブラウ。
「じゃあ、今まで聞こえていた声も……」
《全部ワタシ。驚イタ?》
呼吸をするように光るシュテルンは、少し輝きを増した気がした。
《それよりブラウ。早ク教えてあげなサイヨ。コノ世界の『約束』。『排除』の意味》
「はぁ……まさか君にそそのかされるとは思わなかったよ。ローゼ、本当に良いのかい?」
ブラウがローゼを見る。それから逃げるように目を背けると、ローゼは頷いた。
「私が関係してるんだもの。聞かなくちゃ」
《純粋だネ。ダカラ操作しやすかったんだ。アナタは》
「じゃあ詳しく話すよ」
ブラウは、シュテルンの言葉は気にするなというように右手をひらひらと振ると、話し始めた。
「『排除』とはその言葉の通り、ローゼを狙う存在を『消す』ことなんだ」
「『消す』って……」
「君がここで生きてこそ、この世界が成り立つ。だがそれを知らない愚民共がこの国には沢山いる」
困ったように眉毛を寄せるブラウ。首を傾けると同時に、前髪もさらりと揺れてブラウの顔を隠した。
「そんな奴らはこの世界には必要ない。奴らがこの世界に一人も居なくなることを、王子も望んでいるんだ」
「でも……私がローゼだって知ってる人は少ないんじゃない?」
「それは君が経験したことから分かるでしょう」
「あっ……」
ついこの間の恐ろしい出来事を思い出すローゼ。『あの男』は何故自分のことを知っていたのだろう。
「ごくごく稀に、君をローゼだと感じとることが出来る動物がいる。君を狙う組織は、大体そういう能力を持っている人を中心に構成されていることが多い」
「能力……」
「この世界の動物は、よく特殊な能力を持って生まれることがあるんだ。アーツルトは良い例だよ?」
「……なるほどね」
アーツルトは、一瞬で怪我を治すことが出来る。それは、彼の特殊な『能力』から成り立つこと。
「役立つ能力を持った動物は、それに合った『役割』に就くことが出来る。『仕立屋』なんかも、特殊能力とは言わないかもしれないけど、生まれた瞬間に授かった服を作ることが出来るという才能で、その『役割』に就けた、ということ」
ゆっくりとローゼを指差すブラウ。
「ちなみに君も、生まれた時からローゼという『役割』が決まっていた」
「え……?」
ズキッ──
急激な頭の痛みに、顔をしかめるローゼ。
「おっと。話し過ぎたね」
ローゼの頭に手を伸ばすブラウ。そのまま触れたか触れていないか分からない加減で、ローゼの頭を撫でるように手を動かした。
《マッタク。最初は素直に落ち着いてくれてイタのにネ》
「あんなに有能だったシュテルンの力も、弱くなったものだね」
皮肉っぽく言うブラウ。
《違うワ。カノジョの記憶がイウコトを聞かないダケ》
「同じことだ」
ブラウが手を引っ込めると、苦しんでいたはずのローゼが、ケロッとした表情で辺りを見回した。
「私は……一体……」
「それで、俺の話は以上だけど、他に聞きたいことはある?」
「話? えーっと……」
またブラウから目を逸らすと、楽しそうにひそひそ話をする花達に目を向けるローゼ。
「消すってことは……」
「ストレートに言えば、『殺す』ってことだね」
「殺っ……」
急にこめかみを押さえ、椅子から崩れ落ちるように床に座り込むローゼ。
あ な た が
殺 し た の よ
わ た く し の
大 切 な 人 を
「違うのよ……私はっ」
「ローゼ……」
「来ないで!」
驚いて近づくブラウを、両手を前に出して拒否するローゼ。
「来ないで! 近づかないで!」
「困ったな……」
《ココまで来ると、ワタシもオテアゲかな……?》
ローゼの頬が、とめどなく溢れる涙で濡れる。
「仕方ないね──水!」
どこからともなく現れた水が、ローゼを包み込んだ。
《キョコウシュダンってやつ?》
「強行手段、ね」
ぐったりとしたローゼを抱き上げるブラウ。
「このまま……その綺麗な姿のまま、俺の傍で永遠に眠り続けていてくれたらいいのに」
静かな寝息をたてているローゼを愛しそうに見つめるブラウ。
《ブッソウな話はやめテヨ?》
「冗談だよ」
《ジョウダンを言ってる顔には見えないワ》
「まさか……」
ティールームを出て、ローゼの部屋に向かうブラウ。
「俺はただ、『純粋に』ローゼを愛しているだけ」
それだけだよ
俯いたブラウの表情は分からない。
《ジュンスイ……ね》
「あぁ」
悲劇の少女の、頬を涙でいっぱいに濡らした寝顔は
とても安らかで
とても美しかった。