第一楽章・九、黒色の抱擁
この国に来てから、一週間が経った。
城の内装は大体理解した。暇つぶしによく行っていたティールームの花達ともかなり仲良くなれた。ただ不満が一つ。
「ねぇ」
「何だ?」
ここは王子モーントの部屋。ここには、面白い本がたくさんあるので、本好きのローゼはよく訪れる。
「いつになったら外出させてくれるの?」
「………」
書類の片付けに集中しているモーント。でもローゼは知っている。『集中しているふり』をしているだけだということを。
「……ねぇ!」
「仕事中だから話しかけるな」
「いつもそうやって答えない」
頬を膨らませるローゼ。
その時、ガタン。と音がした。モーントが席を立ったのだ。
「……ねぇ」
無表情でローゼに近付くモーント。ソファーに座っているローゼは、本を持ったまま少し後ずさりした。
「し……仕事は?」
「飽きた。あんなもの、天使共にやらせればいいことだ」
「じゃあ、質問に答えてよ」
「ふーん。王子相手に随分といい態度だ」
更に近付くモーント。ローゼは、動かない。いや、相手の気迫に圧倒されて動けないという方が正しいだろう。
「君が知る必要はない。だから言わないだけだ」
ドサッ
ローゼは、ソファーの背もたれに押さえ込まれた。
「どうし……んっ……」
急に、ローゼの口がモーントのそれで塞がれる。強引に舌をねじ込められ、乱暴に動かされる。
「ん……んっ」
いきなりのことに驚き、引きはがそうとするローゼ。だがモーントの厚い胸板が、それを許してくれない。だんだん頭が真っ白になり、精一杯抵抗する力も抜けてしまった。
力が抜けたことを確認したモーントは、ゆっくりと唇を離す。ローゼの信じたくない事実を証明する銀色の糸が、二人との間に一瞬繋がってぷつんと切れた。
「……なん……で?」
涙目のローゼを見つめるモーント。どこか悲しそうな紫色の瞳。
「……心配なんだ」
ぼそりと呟くモーント。
「え? 今何を──」
「何でもない」
ローゼから離れ、服の乱れを整えるモーント。
「いつもと違うよ? どうしたのモーント」
他の天使は仕事が忙しいらしく、この一週間ローゼはピアノのホールとティールーム、そしてモーントの部屋を行き来するばかりであった。仕事中なのに邪魔しては悪いと思ったローゼを、気にするなとそっけなくもあるが受け入れてくれていた。それなのに……。
「……すまない。酷いことをした」
謝るモーント。そして、ローゼの隣に座った。
「怖かっただろう。すまないな」
ローゼの頭を撫でるモーント。
「だが君はここを出ない方がいいんだ。これ以上君が外出したいと言うならば……僕は何をするか分からない」
「それは……」
ドキン
心臓が高鳴る。
「私……おかしくなるの」
「………」
モーントは、答えない。黙ってローゼの話を聞いている。
「キスとか……そういうの、特定の好きな人とするものじゃない。なのに……そんなこと分かってるのに。いざとなると私、おかしくなるの。もっとしてほしいと思ったり、急に寂しくなって求めてしまったりするの」
「なるほどな」
ローゼの頭に手を乗せたまま、もう片方の手を顎に当てるモーント。
「『そろそろ』言ってもいい頃だとは思っていたけど。いいだろう。全て説明してあげるよ」
ローゼの頭から手を離すと、向かいのソファーに座るモーント。
「全て? 何の?」
「『天使の』だ」
ローゼから目を離さずに、モーントは足を組んだ。
「六色の天使達に、それぞれ司るものがあるのは知ってるか?」
頷くローゼ。
「じゃあ……その先だな。その力を放出するのには、『力の源』が必要なんだ」
「力の源?」
「そうだ。それが君ってことなのさ」
「私?」
「君と関わることで、あの天使達には力が宿る。もちろん君がいなくても力を増やす方法はあるが、君の力は絶大だ」
「………」
「だから、君を惑わせる力を、彼らは持っている」
ソファーから立つと、ローゼの頬に手を乗せるモーント。
「君のその不思議な気持ちは、彼らのせいなんだよ」
頬に乗せられた手の手首を、握りしめるローゼ。
「じゃあ……私の事を好きとか言うのも?」
「本心かは分からないな。君の気を引く為の、手口である可能性もある」
「嘘っ……」
頬にある手を無理矢理剥がすと、下を向くローゼ。
「そう落ち込むな。それに、僕は天使ではない。君に近付くのはそんな理由ではない」
行き場を失った右手を見つめながら、モーントは言った。
「でも……だったらさっきのは?」
「あぁ、あれは君への想いが募りすぎてしまった結果だ。すまない。謝る。二度としないことを誓おう。そして……」
モーントの手が、ローゼの髪を一束すくった。
「好きだよ。ローゼ」
近付くモーントの整った顔。
「君もそれなりの覚悟をして、この部屋に来てるんだろう。ここは僕の部屋だ」
前髪からのぞく鋭い瞳が、ギラリと光る。そして……
「違うわ」
モーントの動きが、止まった。
「本心だよ?」
「違う、違う!」
モーントの手を振りほどくとドアを開け、思いっきり閉めた。
違う! 私は誰も好きじゃない。誰も……好きにならない。
好 き に な っ て は い け な い
がむしゃらに走ると、城の玄関が見えてきた。
「ローゼ様!」
周りにいた使用人達の手を振りほどく。
「嫌っ!」
そのまま外に出た。
外に出たといっても、庭もかなりの広さがある屋敷。仕方なく適当に歩を進めていると、遠くだが門らしきものが見えてきた。
「あれかな?」
それに向かって走ってみる。
しばらく走ると、門の前に着いた。
「うわぁ……」
見上げるほどの高い門は、ローゼの背丈の三倍程はある。乗り越えることは無理そうだ。
「どうしよう……」
門の前でうろたえていると、門の外で声がした。
「誰だ!」
「えっ!?」
「……なんだ、おまえか」
ローゼを見て、殺気立っていた表情を少し緩めたのは、シュヴァルツ。
「そこで何をしている」
「それは……外に出して欲しいの」
「おまえの外出許可が出た連絡は聞いてないが」
「許可も何もないわ。早く出してよ!」
「だが……まだ外は危険だ」
静かに言うシュヴァルツの表情は、変わらない。
「まだ……危険って?」
「おまえには関係ない話だ」
「だったら良いじゃない。開けてくれなかったら、ずっとここにいるわよ」
「……私は面倒事が嫌いだ。早く屋敷へ戻れ」
「嫌だ」
「戻れ」
「いーやーだっ。あんな屋敷の中にずっといたら、かびてしまうわ」
「しつこい女だ」
「だって……」
なんで?
なんで皆私に何も教えてくれないの?
ねぇ、私は誰なの?
私は……ダレ?
気が付いたら涙がこぼれ落ちていた。とめどなく流れる涙は、なんで流しているかなんて分からない。ただ、否定出来ない何かが溢れ出しているような、複雑な……
「!?」
シュヴァルツは、一瞬驚いた表情をすると、とっさに門を開けた。
「おいっ、おまえ……」
「ねぇ、私は……どうすればっ……いいの?」
分からない
分からない
「私は……私はっ……ひくっ」
ふわっ
一瞬の出来事だった。視界が真っ暗になった。それがシュヴァルツの胸の中だということに気付くのに、少し時間がかかった。
「シュヴァルツ……?」
「泣くな」
「へ?」
片方の腕は腰に回され、もう片方はローゼの頭を自分の胸に押し付けている。
「女なんぞに泣かれると……どうしていいか分からなくなる」
温かい……
未だにぐずぐずと泣いているローゼが落ち着くまで、シュヴァルツはずっとそうしていた。ぎこちなく、ただしっかりと抱きしめていた。
分からないのはお互い様
溢れ出すこの気持ちが
何なのかは分からない
ただ一つだけ分かるのは
お前が『特別』だということだ
「……行きたいのなら、行けばいい」
「え?」
未だにシュヴァルツに一方的に抱きしめられた状態で、急にそう言われた。
「分からないのなら、確かめればいい」
シュヴァルツはそっと体を離すと、ハンカチを持たせて背中を向けた。
「私は何も見ていない。何も知らない。お前は好きな所へ行けばいい」
「……本当に?」
「あぁ。だから早く行け。私の気が変わらないうちに」
「気が?」
「──っ。私は男だからな」
「ありがとう」
シュヴァルツの言葉の意味が分かっていないローゼは、ハンカチを返すと少し笑った。
「早く行け」
ぶっきらぼうに言うシュヴァルツ。
「えぇ」
ローゼは門から外に出ようとする。
「……待て!」
「何?」
「くれぐれも……気をつけろ。それだけだ」
「分かってるわ」
ローゼはそう言うと、外に出た。
「………」
だんだん小さくなっていくローゼの後ろ姿を見つめながら、まだ柔らかい感触の残っている両手を見つめるシュヴァルツ。
「特別、か……」
門を閉めたシュヴァルツの表情は、もとの冷徹なものであった。
《シュヴァルツ》
闇を司る黒の天使。その実体はツンデレ天使。いつも冷徹で、あまり話したがらない。無表情が多く、考えていることもよく分からない。だが時々甘くなる……(?)