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前編

 小さな黒い影は強い陽射しを避けながら、朱色の大きな鳥居の下を通り、木々の生い茂る参道を急ぎ足で進んでいく。暫くして境内に続く三十段程の階段が見えると、辺りを見回して人の気配がないのを確認すると、階段は昇らずに脇の段差のないへりを伝わってゆっくりと登っていった。

 ここに来たのは別に目的がある訳でない。何かに導かれて来てしまったけれど、自分の縄張りではないこの場所は、緊張を強いられ警戒が必要だった。

 階段を登り切ると、目を大きく開いてもう一度辺りに注意を払った。木の葉と風との摩擦音以外は静寂を保っている。異様な気配のないことを確認すると、神社の本殿に向かって再び歩きだした。

 黒い影は灰色の毛に覆われた雌の野良猫だった。

 突然強い風が吹き、境内の回りの木々が大きく揺れ始めた。その場に立ち止まり、雲ひとつない澄んだ青空を見上げた。それから本殿に目をやると人間の若い女が、じっと自分を見つめている。一瞬に目が合うとその場に立ち止まって、警戒は解かずにその場に蹲った。

「あなたなの」

 その声は聞き覚えのある懐かしい声だった。暫くして猫は一歩ずつ近づきながら遠い昔のことを想い出していった。

 すべてを想い出すと女のもとに一気に駆けていった。


 鬱陶しい梅雨の季節も終わりを告げると若葉が緑色に色濃く染めはじめ、地上を照らす太陽も次第に熱を帯びてきた六月の終わり頃だった。二匹の姉妹と暫くの間両親と一緒に暮らしていたが、或る日突然に三匹は両親から引き離され、猫は東京郊外に住む三人家族の家にもらわれて、名前を「姫」と名付けられた。

 その家には幼稚園に入ったばかりのおしゃまな女の子がいて、その子とは相性も良くとても仲良しになり、一緒に添い寝をしたり追い駆けっこしたりして遊んだ。女の子の父親は仕事が忙しいのか滅多に家に帰ってこなかったが、時々は抱っこしてもらったりして甘えさせてくれた。母親には厳しく躾けられたが、毎日美味しい手作りの食事を作ってもらい、猫は幸せな毎日を過ごしていた。

 その幸せな日々が或る日突然に崩れた。

 その日は朝からの雨模様で鬱陶しい気分のなかで、猫は女の子の泣き声で目を覚ました。猫用の丸いベッドから起き上がり、いつもの朝の挨拶に女の子に近づいていくと、女の子は怖い顔をして、猫を抱きかかえるといきなり床に放り投げた。床に叩きつけられとすぐに立ち上がり、驚いた猫は母親に助けを求めようと母親のいる部屋の扉を何度も引搔いた。しかし母親は部屋に閉じこもったまま出てはこない。扉の向こうからはすすり泣く声が聞こえる。猫は何が起きたのかわからず、部屋の隅に置いてある猫用クッションソファの中で身体を硬くして、じっと様子を窺うことにした。

 雨も止み外が暗くなり始めると、いつもなら天井の豪勢なシャンデリアが点灯されるのに部屋は暗いままであり、今朝から何も口にしていない猫はお腹をすかし、グルルーとお腹が鳴るのに、怖くてソファから動くことができなかった。

 夜の帳が完全に下りてもまだ部屋の明かりは点くことはなく、部屋の中は泣き声や溜息が聞こえる。そして何かを運んでいる音が聞こえ始めた。深夜になり今日から明日になり零時をまたぐと、辺りの住宅の明かりが時間差で消えていき、家の周りはシーンと静まり返った。

 突然、猫は暗い部屋の中で父親に抱えられると、玄関の前に横付けされている車に乗せられた。車の助手席に置かれた小さな段ボールの中に入れられ、既に母親も女の子も乗っているのに誰も話し掛けてくれない。何かが可笑しいと思いながらも、静寂に包まれた車内では声も出さずにじっとしているしかなかった。

 エンジンの掛かる音が聞こえると車はゆっくりと動き始め、車窓からの景色は闇と段ボールの壁に覆われて何処を走っているのか皆目わからない。猫はこのただならない様子に胸騒ぎを覚え、ただじっと空腹に耐えて身体を丸めていた。暫くして車が停まり、猫は再び父親に抱えられ車から降ろされた。父親は猫を抱いて、懐中電灯を照らしながらクヌギの林へと進み、その後から母親が段ボールを持ってついてきた。

(ここは何処なの?)

 大きな木や枝が黒い魔物のように見えた。

「この辺りでいいかな。きっと誰かが見つけてくれるだろう」

 父親が母親に向かって言うと、母親は持ってきた段ボールを雑草の茂みを避けて、傾斜のない地面の上に置き、段ボールの中に毛布を敷き、その上に食べ物の入った皿を先に入れ、それから猫を静かに入れた。猫はお腹がすいていたので、食べ物を貪るようにガツガツと食べた。暫くその様子を見ていた父親と母親は、その場を無言で立ち去った。

 車のある方向から「姫!」と女の子の叫ぶ声が聞こえた。ようやく我に帰った猫は耳を立てるが、車のエンジンの音は次第に遠ざかっていった。

「にゃお(ここは何処なの?)にゃお(怖いよ!)」

 猫は真っ暗な世界に独りぼっちでいることが怖くて身体が震えた。周囲の木の枝が暗黒の世界へと手招きして誘っているように見える。風の音も風に揺れる木々の葉の音も、猫にとってはすべての音に恐怖を感じた。

「にゃおー(怖いよ)、にゃおー(怖いよ)・・・ 」

 猫は一晩中鳴き続けた。

 朝になると段ボールは朝露で湿って柔らかくなり、高さのない箱だったのでなんとか外に出られたが、朝露で濡れた草木に身体は濡れ、体毛は水を弾かないためにびしょ濡れとなり、身体の体温が徐々に奪われて意識も遠のいていった。

「にゃおー(寒いよ)」と叫びながら,あてどなくさまよう。すると前方から若い男女の姿が見えた。

 猫はありったけの声を張り上げて近づいて行った。

「見て!猫よ」

 猫に気付いた女が駆け寄り、抱き上げた。

「身体が冷たい」

 女は猫を上着の中に入れて暖めた。

「おい、そんな猫、置いていこうぜ」

男は面倒くさそうに言う。

「でも見てよ。首輪しているから野良猫じゃないし、迷子になったのよ。それにここに置いていったら死んじゃうよ」

 暫く言い争いをしていたが、女の主張が通り若い男女は猫を抱いて交番に連れていった。

 捨て猫は生き物ではあるが、遺失物として取り扱われる。素っ気ない交番の警察官の対応に女は少しムッとしながらも「飼い主が見つからなかった場合、この猫はどうなるのですか」と警察官に聞いた。

「処分されます」

「処分というと、保健所で・・・」

「ええ、まぁ。あなた達が引き取って下されば一番いいのですが。三ヶ月はあなた達が保護し、その後は引き取り手があれば、どなたかにお願いしても構いません」

 若い男と女は相談し始めた。

「仕方ねえだろう。お前、面倒なんか見られんのかよ」と男は乱暴に言い、女は猫を見ながら「だって可愛そうじゃん」と言い、そのまま黙り込んでしまった。

「じゃあ、仕方ねえだろう」

 男は女を説得できないと諦め、猫は彼女の家で保護されることになったが、その家でも猫は安穏とした生活を送ることはできなかった。

 家に連れて来た当初は、女は猫を「猫ちゃん」と言いながらまるで生きた玩具のように可愛がった。きちんとした名前を付けてもらっていないので、男が遊びに来ると男からは「グズ」とか「ニャンコ」と呼ばれたりした。ペットを飼ってはいけないアパートに住んでいたので、女がアルバイトで外出しているとき、猫は狭い段ボール箱に入れられ、その上から泣き声が漏れないように蓋をされ、殆ど一日中暗い箱の中で過ごした。女はだらしない性格なので、段ボール箱の中の掃除もしないため、やがて箱の中は臭くなり、部屋中に異臭が漂い始めた。

 そのうち男から「ばい菌」と呼ばれ、近づくと足で蹴られたりもした。女も一緒になって猫を疎んじて「ばい菌」と呼びようになり、次第に猫を苛めることが快感になって、暴力を振るうようになった。猫の身体にはあちこちに傷ができ、彼女が家に帰ってこない日は食事を与えられることもなく、次第に猫は痩せてしまい、すでに限界がきていた。

 女が在宅しているとき、箱から出ていた猫は、ちょっとした彼女の油断で僅かに開いていたドアの隙間を見つけると、一目散に部屋を飛び出し、ありったけの力を出してアパートの外へ逃げた。

「誰か捕まえて!」

 追い駆けてくる彼女の声が間近に聞こえる。捕まえられることは死を意味すると、本能的に悟った猫は決して立ち止まることなくひたすら駆けた。長い距離を走り続け、日々食事を与えられていなかったため体力の衰えている猫はもはや歩くこともできなくなり、ついに道端に生える草の上に倒れてしまった。どこまで逃げて来られたのか、そしてここが何処で、安全な場所なのかもわからなかった。

 次第に遠のく意識のなかで、若い人間の女が近づいてきたが、猫はもう動くこともできず、逃げることを諦め、間近に迫っている死を受け入れようと思った。

 意識が遠のき、その場で気を失った。

 覚醒はしたが、視界はぼやけていた。

「にゃあ(ここは何処なの?)」

 目が覚めた猫は、小さく鳴くとキョロキョロと周りを見渡し鼻で匂いを嗅いだ。身体は固定されて動けない。まだ意識も朦朧としていた。

「劣悪な環境だったせいか栄養失調と脱水症状がありましたので、点滴と強制給餌を行ないました。今日は入院して様子を見る必要があります。どういたしますか」

「先生、入院をお願いします」

「わかりました。でも、いいんですか。この子は野良猫でしょう。費用もずいぶんと掛かりますよ」

「ええ、大丈夫です。先生、治療費を少し安くして頂けると助かります」

「はい、その点はご心配なく、協力させて頂きます」

「先生、ありがとうございます」

 女は可愛いえくぼで微笑んだ。

 猫はふたりの会話をただ黙って聞いていたが、睡魔に襲われ再び目を閉じた。

 翌日の午後、自力で起きられるほどに回復した猫はキャリーケースに入れられ、自分を助けてくれた若い女に引き取られた。家に着いても猫はキャリーケースから出ようともせず、女が無理に出そうとすると鋭い爪で抵抗した。何度も人間に裏切られ、苛められてきた猫は人間に対して恐怖と不信感を持つようになっていた。猫にとって人間は皆同じであり、この若い女もいずれ自分を苛めるに違いないと思い込んでいた。だから近づくと毛を逆立て、シャーという声で威嚇し、爪を立てて引っ掻いたり、噛みついたりした。でも女は痛みに耐えながら優しく猫を抱いた。腕には何本もの赤い線が引かれ血が滲んでいる。

 腕の中でもがき続けている猫を強く抱きしめた。

「余程辛いことがあったのね。みんな人間のせいね。わたしでよかったら、いいよ。あなたが辛かった分、わたしが受止めてあげる」

 猫は女の腕の中で必死にもがいていたが、次第に女の温もりが体内に伝わってくると、抵抗する行為を止めた。今までの人間とは違うことを猫は認識したのだった。

 この日を境にして猫は次第に女との距離を縮めていくようになり、威嚇することもしなくなった。やがて頭や頬をこすりつけてくるようになり、今ではへそ天といって仰向けになりお腹まで見せるようになった。でも猫は、(人間には飼われない)と決めており、女が帰宅する時間に合わせて家を訪問して食べ物をもらい、暫く部屋の中で女と一緒に遊び、深夜になると帰っていく。女も猫を自由にさせて、決して束縛することはしなかった。

 猫は女といるときが一番楽しく、安らぎを感じた。猫は次第に人間を敵対することもなくなり、表情も温和な顔になっていった。

 女は敢えて猫に名前を付けなかった。きっと以前名前を付けられており、その名前で呼ばれているはずである。新しい名前を付けると猫が戸惑うと思い、「あなた」と呼んだ。

「あなたは綺麗な顔をしているよ、わたしと同じね」

「あなたはいい性格をしているから、みんなに好かれるね」

 人間と同じように、猫の良いところを彼女はできるだけ褒めてあげた。

 猫は自分に付けられた過去の名前は忘れたかった。「姫」「猫ちゃん」「ニャンコ」「ばい菌」は、呼ばれても良い印象はなく、昔の忌まわしい記憶が蘇ってくるからである。

 月日が経ち、いつものように猫を抱き上げて、女は猫の目を見ながら話し始めた。

「これからあなたにお話しをすることをよく聞いてね。わたしは、もうすぐここからいなくなるの。大好きな彼と一緒に住むために、新しい家に移るのだけれど、気掛かりなのはあなたのこと。わたしはあなたを飼い猫として一緒に連れていきたいけれど、でもあなたは決して飼い猫になろうとしないでしょう。それにあなたに会いにも来られない。

 あなたにはちゃんとお話しをしておかないと、あなたは(また捨てられてしまった)と誤解をしてしまって、また人間が嫌いになってしまうと思ったの。

 人間はあなたが出会った人ばかりじゃないのよ。わたしは例外じゃなくて、わたしみたいに猫だけじゃなく、犬も動物を大切に考えている人もたくさんいるの。だからあなたも人間を愛して。そしてわたしがいなくても強く生きてほしいの」

 猫はじっと女の目を逸らさずに見つめた。

「きっとあなたとはいつかまた会える気がする。あなたにだけは話しておくけど、わたし自身ではどうにもできない不安があって、もしわたしにその不安が訪れたら、きっとわたしはこの世にはいない気がするの。今はその不安が来ないように祈るだけ。わたし、今ね、本当は物凄く怖いのよ。いつも死に怯えている。誰かに助けてほしいと思っている。

 わたしね、今お付き合いしている彼がとっても好きで、彼とならそんな不安もなく日々過ごせる気がしている。いつまでも怯えていたら前に進めないでしょう。わたしもあなたと一緒。もっと強く生きようと思っている。

 だからあなたも強く生きて頂戴」

 女の話しを一言一句聞き漏らさないように、猫は耳をピーンと立て、まるで金縛りにあった様に、身体を硬直させて女を見つめた。

 女の話しは段々と真剣みを帯びてきた。

「わたしね、あなたにお願いがあるの。あなたへのお願いは、もしも、そうならないことを祈るけれど、わたしが死んだら、そのときはあなたの力をわたしに貸して頂戴。残された彼が心配で、彼にはわたしが死んでも幸せになってもらいたいと思っている。そのときになったらあなたに協力してほしいと思っている。こんなことを猫のあなたにお願いするなんて、誰かが見ていたら可笑しいと思うわね。でもわたしは真面目よ。あなたは普通の猫と違って生命力と不思議な力を備えている気がするから。

 でもそうならないことをあなたも祈っていてね。じゃあ元気でね」

 数日後、女はいなくなった。

 猫は女がいなくなった家を何度も訪れたが、女が出てくることはなかった。新しい住人がその家に住むようになり、猫はその家を二度と訪れることはなかった。

 でも猫の記憶に女の顔と声は刻まれた。


 今またあの時の女と再会した。

 猫は女の前に来ると「にゃあにゃあ」と甘えた声で鳴いた。

 女は猫を抱き上げて猫の頬を自分の頬に触れさせた。

「またあなたと会えたね。ここに来るとあなたにきっと会えると思っていた」

 猫は目を細めて小さな舌で女の顔を舐めた。

「とても残念だけど、あなたにお願いがあるの」

 猫は静かに目を瞑った。そして女からの願い事を聞き終え、女の足元に降ろされると何度も振り向きながら来た道をゆっくりと戻っていった。

 女は猫を見送ると本殿を後にした。

              


 初めて訪れた土地だった。

 久し振りに日本を訪れ、住居も決まり、この一ヶ月でようやく心の落ち着きを取り戻した。ずっと気になっていた場所を訪れるために、品川から京急本線の快特に乗り、そのまま乗り換えずに京急久里浜線快特となって目的の駅に降り立った。

 鉄道線路をまたぐ跨線端こせんきょうを渡り、改札へと向かった。

 改札を出ると、駅前のロータリーで黒塗りのタクシーが一台停車していた。足早にそのタクシーに近づくと、後方のドアが開いたので白いユリの花束を両手に抱え、身体を滑り込ませた。このタクシーには運転手と客席の間には透明の仕切板がない。それだけアメリカと違って日本は安全な国なのだと、仕切板だけでも感じてしまう。

 コートのポケットから霊園の名前が書かれた白いメモを取り出し、運転手に行き先を告げた。愛想の良い運転手は、この地域の観光についていろいろと話しをしてくれているが車窓から見える海山の景観をただじっと見ていた。

 二十分程で彼女の眠っている目的の霊園に着いた。

「ここにあなたは眠っているのね」

 公園墓地の霊園はかなり広く、園内には大きな管理棟や礼拝堂、斎場、そして日本庭園やお花畑がある。墓苑は高台にあり、風光明媚な公園墓地の中を歩くと青色に染まった相模湾が一望でき、湾の向こう側には雄大な富士山がそびえ立つ。

 霊園は常緑の絨毯を敷き詰めた芝に囲まれた墓地、赤茶のレンガタイルで隣が仕切られ整然としている墓地、四季の花々に囲まれている墓地、ペットと一緒に眠れる墓地など区画整理されている。

 小さい頃に見た搭のような和式のお墓をイメージしていたが、ここの霊園では高さの低い洋式が多く、まるで外国の墓地みたいだった。白いメモにはお墓の場所も書かれていたが、石に刻まれた名前をひとつひとつ確認しながら探した。

 そのお墓はすぐにわかった。西欧風の墓石で、シンプルな作りながら気品がある。墓石にはローマ字で俗名が刻まれていた。

 女は途中汲んだ手桶の水を丁寧に墓石にかけてから、持ってきたユリの花を墓石の前に添えた。その場にしゃがみ、目を瞑って暫く両手を合わせた。目を開けるとお墓に語りかけた。

「ここに来るのが遅くなってしまって、ごめんね。気持ちを整理するのに少し時間がほしかったの・・・」

 女は胸が詰まり言葉が途切れた。

「あなたはどうしてこんなに早く死んでしまったの。わたしはあなたにいつか謝らなければならないと、ずっと思っていた。もうその機会は永遠に来ないのね。もっと早く日本に来て、きちんと話すべきだった」

 目からは涙が溢れ、涙は頬を伝わり地面に落ちていく。その涙を拭うこともなく、女はその場で思い切り泣いた。

 ようやく落ち着きを取り戻し、鞄からエアメールの封筒を取り出した。

「あなたの手紙を読んだわ」

 手紙は亡くなる前に届けられたものだった。

「わたしは、あなたがわたしに頼み事をしてくれたことがとても嬉しかった。あんな別れ方をしてお見舞いにも拒まれたから、あなたはわたしを決して許してくれないと思っていた。でも、あなたは許してくれていたのね。ありがとう。手紙に書かれていたあなたの願いは、少し時間は掛かるかもしれないけれど、ちゃんと果たすつもりよ。そして、あなたに報告をしにまた来るから」

 女は一呼吸置いて話しを続けた。

「あなたは、自分は独りぼっちで家族の誰からも愛されていない、と誤解していたようだけど、パパもママも有希をわたしよりもずっと愛していたのよ。それだけはわかってあげてほしいの。パパはあなたを失って毎日悲しみに暮れていた。ママもそう。でも、あなたから手紙を受け取って、ふたりもようやく立ち直った。今は元気で二人仲良く暮らしている。わたしはその手紙を読んでいないけれど、あなたはちゃんとわかっていたのね」

 女は暫くの間昔懐かしい想い出を語った。

 今まで輝いていた太陽の陽が一瞬雲に遮られて翳った。女は空を見上げ、また墓石に視線を戻した。

「今日はありがとう。たくさんあなたとお話しができて嬉しかった。また来るね」

 女は立ち上がると、もう一度目を瞑り両手を合わせた。目を開けて墓石から離れると、ゆったりとした足取りで来た道を戻った。

「よく見ると、ここはわたし達が暮らしていたクイーン・アンの高台にあるレイク・ビューの霊園に似ているのね」

 再び太陽が顔を出し、陽の光が海面に反射して波間が金色にキラキラと輝いた。墓地を見下ろす山々の木々の緑と空の青い色もお互いの領域を主張しながらも、三位一体の自然の美しさを演出しているようだった。



 五月雨の霧のような雨は、風に揺れる緑色の葉を濡らし、葉は深みのある萌葱へと色を変えていく。葉脈をなぞるように水の帯が雫となって、一定のリズムを取りながら地面から顔を出している小さな雑草の上に落ちていく。

 その様子を粗引きの豆で抽出したコーヒーを飲みながら、ぼくはガラス越しに外の雨を眺めていた。虚無感の漂う部屋を埋めるかのように、彼女の好きだったカーペンターズの澄んだ歌声が、ぼくの周りを静かに流れている。

 今から45年以上も前の1970年代、アメリカの兄妹が歌っていた曲を、雨の日になると彼女は聴いていた。

「雨の日に、カーペンターズの曲を聴くと悲しくなるの」と、呟いていた。

 なぜ彼女が雨の日に限って、カーペンターズの曲を聴くのか、その隠された理由をぼくは今でもわからずにいた。

 そんな彼女の寂しそうな後姿を見ながら、ぼくはそっと彼女に近づき、片手で彼女の肩を優しく抱きしめる。でも彼女はいつもそこで消えてしまう。幻なのだから、彼女を抱くことは当然ながらできなかった。

「ふぅー」と、溜息を漏らした。

 彼女との永遠の別れから一年以上の歳月が経ったのに、この世にいない幻影を、ぼくはまだ追い駆けている。

 雨音に合わせて奏でる曲の旋律は、部屋の空間だけでなく、ぼくの失われた心の隙間を埋めるかのように深く心に入り込んでくる。

 彼女がいなくなっても、部屋は一切いじっていなかった、というよりもむしろいじれなかった。部屋のインテリア、彼女の選んだカーテン、クローゼットの中にある服、洗面所にある化粧品など何ひとつ捨てずに残してある。

 この部屋にあるものひとつひとつに、あまりにも多くの想い出が詰まっていた。

 ぼくの未来への秒針はあの日から一秒も進まず、いつまでも同じ位置に止まったままになっている。

 ぼくは、テーブルの上にある透明なアクリルのフレームに挟まれている写真を見た。そこにはいつも微笑んでいる彼女がいる。

「まだ、駄目みたい」

 写真の彼女は何も応えてはくれないけれど、きっと「ばかじゃない」と言っているに違いない。

 ぼくは、再びガラス越しに雨を見た。

 木製の棚に置かれたミニコンポのスピーカーから、カーペンターズの「Please Mr. Postman」の軽快な曲が流れていた。


 昨日に続き、今日も雨。連続五日間の雨になる。

 今日も鬱陶しい一日になるかと思うと少し憂鬱になるが、今日は土曜日で会社に行かないですむ。  

 日々の業務においても、会社はワークライフバランスを、いわゆる仕事と生活の調和を働き方改革の一環として奨励しており、ぼくの業務は主に海外取引先との契約書や海外資料の翻訳をする仕事なので、場所や時間にとらわれないテレワークと呼ばれる勤務形態を時々利用している。地獄のような毎朝の通勤ラッシュを避けられるだけでも、幸せといえるかもしれない。

 昨日からミニコンポの中に入れたままにしているCDを入れ替えずに、ミニコンポのスィッチを押した。いつものようにカーペンターズの曲が静かにぼくを包み込んだ。ぼくは曲を聴きながら、また彼女を想い出す。それがいつもの日課だった。

 彼女の名前は、希望を有すると書いて有希。有希はいつも明るく、笑うと大人になっても消えない子どものようなえくぼが良く似合う。それから猫が好きで、猫よりも犬の好きなぼくとは、その点だけ意見が合わなかった。結局、猫を飼うか犬を飼うかでお互いに妥協しないままに結論が後送りになり、ペットは飼わずじまいだった。

 有希は不思議な霊感力を備え、非常に鋭い洞察力を持っていた。

 残業で遅くなった有希と夜食に近い時間での食事をしているときだった。

「今日は同僚も皆帰って、ひとりで遅くまで仕事をしていたら、後ろから小さな女の子が急に現れたの」

 彼女は中堅の広告代理店のプランナーで、この業界は残業が多い。プレゼンテーションの期日が近づくと、土日も関係なく深夜に及ぶ残業が一週間程続いたりすることもある。

「会社に?誰かのお子さん?」

「ううん、違うの」

 有希は話しを続けた。

「その子に向かって、お名前は?何処から来たの?と聞いてもやっぱり答えてくれなくて。仕方ないからわたしも仕事があるから無視することにしたの。そうしたらお行儀よくずっとそこに座っていて待っていたわ。ようやく仕事を終わったので、わたし帰るわよ、と言って席を立って帰ろうとしたら、その子も立ち上がってわたしの後からついてこようとするの」

「送っていったの」

「いいえ」

 有希は首を振った。

「遅いから、もう帰りなさい、と言ったわ。その子は黙ったまま立ち止まっているので、やっと説得して帰ってもらった」

「そんな時間に女の子がひとり?親は心配していないのかな」

「その心配はないみたい」

「えっ、可笑しいよ。ところで、なんで会社に入ってきたの」

「住んでいるからでしょう」

ぼくと彼女の会話は、何か噛み合っていない。

「住んでいるって、会社に?」

「うん、その女の子は霊なの」

「えっ」

 ぼくは立ち上がって、首を左右に振って部屋中を見回した。

「大丈夫よ。この家には来ていないから」

「有希、きみは霊が見えるの」

「うん、たまにだけどね」

 平気な顔をして言う彼女の顔を見て、ぼくはもう一度部屋をゆっくりと見回した。

 ぼくは小さい時からお化けや幽霊の話しは大嫌いで、霊の存在についても敢えて完全否定をするようにしている。幼少の頃に体験したお化け屋敷がトラウマになっていた。霊と聞くと、お化け屋敷に出てくる昔から語り継がれている古典的なおどろおどろしい容姿を想い浮かべてしまう。

 ぼくは、聞かなければ良かったと後悔した。

 会社への出退社は、ぼくの方が遅く家を出て、早く帰宅することが多い。その話を聞いてからは、暗闇の中で電気を点けるのが怖く、部屋のリビングと台所の灯りを点けて家を出るようになった。

当然のことながら有希は言う。

「電気代もったいないから、必ず消してから家を出て!」と。

 有希の洞察力も彼女の備わった能力のひとつだった。推理小説を好んで読んでいるので次第にその力が培われたのかもしれない。ぼく達共有の本棚には、アガサ・クリスティ、江戸川乱歩の古典的作品から、最近売れている現代作家の推理本がずらりと並んでいる。

 テレビで放映する推理サスペンスドラマを見ていると、有希は最初の三十分で犯人を当ててしまう。正解率は百パーセント。

 ぼくが浮気をしたら、探偵を雇わなくてもすぐにばれるに違いない。残念ながら、平凡な毎日を過ごしているぼくには浮気は無縁だった。

 ぼく達には子どもがいなかったので、友達みたいな夫婦だったかもしれない。このままふたりで一緒に年を重ねたら、いつまでも手を繋ぎながら歩く、仲の良い爺婆になっていたと思う。でも雨の日に有希がカーペンターズの曲を聴きながら、「雨の日に、カーペンターズの曲を聴くと悲しくなるの」と呟いたとき、気になったのに「どうして」と、なぜ聞かなかったのだろう。

 友達みたいな夫婦の関係とは、裏を返せば未熟な夫婦だったのかもしれない。敢えて都合の悪いことは回避し、有希の秘密については触れるのが怖くて、聞くことを躊躇ってしまった。彼女の呟く言葉の裏に、深い悲しみがあるなんて考えもしなかった。

 雨が降るたびにこうして有希の好きだった曲を自虐的になって聴くのは、彼女との想い出に浸り、そのとき彼女が何を考えていたのかを知りたかったからだった。

 ぼくは有希の死に立ち会うことができなかった。だからぼくの中では、まだ有希の死を受け入れることができないでいる。その原因を作った有希の母親が取った行動を、ぼく自身が今もって理解できずにいたからだった。当然何か理由があったとは思うが、母親には聞けず、何度曲を聴いてもロジカルな謎解きはできそうにもなかった。

 暫く焦点の定まらない目で外を眺めていると、静かに流れる曲に紛れ込んできた異音に気付いた。

どうやら異音の主は、ベランダの外から発しているようだ。

「にゃあにゃあ」

 どう見てもあれは猫の鳴き声だ。近所の野良猫が通りかかったのだろうと思い、無視することにした。暫くの間鳴き声は続き、一度気を取られるといくら綺麗な音楽であっても集中して聴くことはできなくなる。

「にゃあにゃあ、にゃあにゃあ」

 トーンが徐々に高くなり、鳴き止むことはなさそうだ。

 ぼくがベランダに近づくと鳴き声は止んだ。窓越しに外の様子を窺った。猫らしき黒い物体は見えるが、姿をはっきりと捉えることできない。ベランダのガラス窓を顔が出せるくらいに開けてみた。下を見ると、猫の目と視線が合った。

 そこには泥にまみれた、少し痩せこけたキジトラの猫がいた。

 首輪がないから野良猫なのだろう。

 逃げるわけでもなく、しきりに上目遣いでぼくに何か訴えているようにも見える。

 その汚れた毛を見るとあまり触りたくはないし、部屋に入って来られても困るので、ぼくはすぐに窓を閉めた。するとまた「にゃあにゃあ」と、猫は鳴き始めた。

 ガラス窓で外を遮断しても、その猫の執拗なまでの鳴き声は、ガラスを透過して部屋の中に侵入し続けてきた。

「にゃあにゃあ、にゃあにゃあ」

 猫の鳴き声とはこんなにもうるさかっただろうか。ご近所を気にしながらも鳴き声が止むまで、音を立てないように息を殺しながら、その場にじっと立っていた。

 暫くしてようやく鳴き声は止み、ガラス越しにも見ても黒い影が見えないので、立ち去ったのだろうとベランダの窓をそっと開けた。下を見るとまた猫と目が合った。猫はガラス窓の死角になって見えない地面に降りていた。ぼくの姿を見ると、勢いよくベランダに上がってきて、今度は同情を誘うかのように「にゃあにゃあ」と、悲しげに鳴いた。

 心を鬼にしてこのままガラス窓を閉めてしまおうかと一瞬考えたが、そのとき少しチクッと心に痛みが走り、猫の表情を見るとそれはできないと思った。

「おまえには負けたよ。お腹がすいてそうだな。ちょっとそこで待っていな」

 一度餌をあげてしまうと、頻繁に来るだろうと思いながらも、ぼくは台所に行き、冷蔵庫を開けて中から少し高級なロースのスライスハムを一枚取り出した。

 猫は部屋に入らずに、おとなしく待っていた。

「おまえ、ずいぶんと躾ができているな」

 その猫の態度に感心しながら、丸いスライスハムを真ん中から二つに切って重ね、端から小さく千切って、猫の前に二切れ置いた。

 猫は暫くぼくの顔をじっと見つめている。

「お食べ。美味しいよ」

 猫はゆっくりと口に入れた。

 最初の二切れを食べ終えるともう二切れを置き、その二切れを猫が食べ終えるとまたスライスハムを千切る。そんなことを繰り返しているうちに、手の中のハムはなくなった。

 猫は物足りなさそうな表情をして、ぼくの顔を見る。一途に見つめる汚れのない目を見ていると、おかわりをあげようかなとも思ったが、「今日はもうおしまい。もうない」と、両手を開いてハムのないことを示した。

 猫はぼくの言葉がわかったのだろうか、振り向くと静かに雨の中を立ち去った。その猫の後姿が、何か寂しそうに見えた。

 ぼくは空を見上げた。

 有希と初めてデートをした日も、こんな雨だった。


 突然のどしゃぶりの雨が傘を持っていないぼくを容赦なく襲い、たちまち全身がびしょ濡れになってしまった。朝のワイドショーの天気予報でも、今日は雨が降るなんて一言も言っていなかったと、文句を垂れても仕方がない。

 六月の雨はまだ冷たく、鞄を頭に乗せながら駆け足で馴染みのある喫茶店に入った。

 最近はあまり喫茶店とは言わないが、西荻窪の街並みには、カフェと言うよりは喫茶店と言う方が似合う店も多い。

 この街はジャズの生演奏を聴かせる喫茶店や中華料理店なのにカツ丼を食べるために行列のできる店、自家焙煎し豆の薀蓄うんちくを顧客に聞かせるコーヒー専門店や気軽にフランス料理が楽しめるビストロなど個性ある店舗が散在している。

 喫茶店の扉を開けると、「チリン」とベルチャイムが鳴った。この喫茶店に入ったのはぼくなりにちゃんとした理由があった。

 最近この店に新しい女子アルバイトが入り、その彼女に興味を抱いたからである。彼女は二ヶ月前からこの店で働いていて、年齢は二十歳くらい。ナチュラルの爽やかな感じにショートボブの髪型がよく似合う。目はパッチリとして、微笑むときのえくぼが可愛い。

 注文にきたときにきっかけを作りたいと思いながら待っていても、なぜかぼくにはここのマスターが水を持って来る。マスターは口髭をはやし、年齢は四十代後半くらい。長身で白いシャツにジーパンがよく似合い、いつもキャンパスサロンエプロンをしている。

 注文したコーヒーを彼女が持ってきたときに話しかけようとすると、他のお客さんに呼ばれたり、来てくれたのにぼく自身の心の準備ができずに躊躇してしまったりして、タイミングを外してばかりいた。注文に来てくれないときは遠目で彼女を目で追い、彼女と目が合いそうになると、あたかも店を見渡しているかのように視線を逸らしてしまう。

 店に入ると、後ろポケットからハンカチを取り出し、雨に濡れた鞄を拭きながら店内を見渡した。

 カウンターを見ると彼女がいた。グレーのシャツに黒のパンツを穿き、茶のサロンエプロンをしている。店内は雨のせいか、お客さんは少なく絶好のチャンスである。

 ぼくはいつもの古びた大きな鳩時計の真下の席に座わると、彼女がメニューを持たずに注文を取りにきた。

「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりになりましたか」

「はい、あの・・」

「いつものアメリカンコーヒーでよろしいですか」

「えっ、はい」

「それからミルクと砂糖はなしでブラックですね」

 どうやら、ぼくのいつも注文するメニューを覚えているらしい。

「あの・・・」

「いいですよ。今日はあと一時間ですから」

「えっ、あの・・・、なんのこと?」

 ぼくは驚きの表情を隠さずに聞いた。

「わたしと今日デートをしたいとの申し出でしたので、お受けします」

「えっ、あの・・・」

 ぼくは同じ言葉しか発せない。

「ふふ」

 彼女はえくぼの微笑みを残してテーブルから離れた。

 そのときのぼくは、一気に身体の血液が逆流したかのように、ぼくの心臓の鼓動が激しく脈打ち、かなり動揺した。同時に、口ごもるだけで、会話を交わすこともできなかった自分の不甲斐なさに落ち込んでしまった。冷静になりよく考えて見ると、ぼくの目的は達せられたのである。それは喜ばしいことではあるが、彼女は本気なのだろうかと、新たな不安に駆られた。

 注文したアメリカンコーヒーを持ってきたのはマスターだったので、彼女に本気かどうかの確認は取れなかった。

 鞄から文庫本を取り出して、栞の挟んであるページを開いて見たものの、目がただ活字を追うだけで文脈の認識もできず、このページの内容はほとんど頭に入ってこなかった。

(ぼくとの今日のデートは本気なのだろうか。もしかしたら冗談のつもりではないだろうか。でも、デートの申し出を受けると確かに言った。でも、ぼくからはデートをしようとは何も言ってないのに、なぜぼくの気持ちが読めるのだろう。いやいや、きっと彼女がぼくと前からデートをしたいと思っていたのか。いや、そんなはずはないだろう。じゃあ、やっぱり、冗談だったのだろうか。でも・・・)

 ぼくの頭の中は、シーソーのように肯定と否定が行ったり来たりして、すっかりパニックになっていた。混沌とした状態に陥ると時が経つのは早いもので、鳩時計が時報を告げた。時計の文字盤を見上げると、間もなく約束の一時間が経とうとしている。

 文庫本から目を離して店内を見回したけれども、彼女の姿は見えなかった。もう一度店内の隅々を潜望鏡のように首を回して探してみた。

(やっぱり、からかわれたのか)

 ぼくはがっくりと肩を落として下を向いた。

 そのときだった。

「お待たせしました」

 彼女の声がぼくの耳に響いた。

「えっ」

 思わず顔を上げると彼女が微笑んでいる。

「本当に、これからぼくと付き合ってくれるのですか」

「はい」

 彼女は微笑みながら小さく頷いた。

 ぼくは席を立ち、会計を済ませにカウンターに向かうと、彼女はぼくの後ろからついて来る。

 そのときマスターがぼくにお釣りを渡しながら、彼女に向かって言った。

「映画の主題歌に、“雨に濡れても”と言う歌詞にあるIt won’t be long till happiness steps up to great me. いい雨だ」

 ぼくの後ろにいる彼女にウインクをした。

 彼女も微笑みながらウインクをマスターに返した。

 外はまだ雨が降っていた。

 喫茶店を出ると最初にぼくの紺色の傘が開いた。ぼくの後ろにいる彼女の赤い傘もいったんは開きかけたがすぐに閉じられた。

 彼女はぼくの傘に入り腕を組んだ。一本の紺色の傘は、人混みを避けるように左右に蛇行しながら、西荻窪の駅へと向かった。

 これがぼくと有希との初めてのデートだった。


 昨日の雨が嘘のように空は晴れ渡り、太陽の光が隣の窓に反射して我が家に入り込んでくる。

きっとまた来るだろうとは思っていたが、案の定昨日の野良猫はやってきた。

「にゃあにゃあ」

 人間の赤子と間違えそうな猫独特の鳴き声でぼくを呼んでいる。

 ガラス窓を開けると、雨が汚れを洗い流したのか、もしくは自分で毛づくろいをしたのか、見た目は昨日よりは少しましな猫が、ちょこんと座っていた。

「少し、ここで待っていな」

 ぼくは浴室の脱衣所の棚から折りたたんで重なっているハンドタオルを一枚取り出して、蛇口を捻ってタオルを濡らした。それから急いで台所に行き、冷蔵庫から牛乳を取り出して白いスープ皿の中に百CC程入れ、湯沸かし器からお湯を出しそのお湯で牛乳を少し薄めた。ベランダで待っている猫に皿を持っていき目の前に置くと、すぐにペロペロと舐めはじめた。すべて飲み終えた猫は満足そうな顔をして、ぺろりと小さなピンク色の舌を出した。

 頃合いを見計らって、ぼくは猫を抱きハンドタオルで猫の身体を拭いた。ぼくのいきなりの行為に驚いて爪を立てて逃げようとするかなと思ったが、猫は意外にもされるままに静かにしている。

「お前、おりこうだな」

 足やお腹も拭き終わり、猫を床に置くと全身を見渡した。

「うん、綺麗になった。そうだ、野良猫だと近所の怖いおじさんに苛められるかもしれないな」

ぼくはクローゼットからクリスマスの電球やオーナメントが入った紙袋を取り出し、その中から赤色と緑色二色のツートンカラーのリボンを見つけて猫の首に巻き付け、最後に小さな銀色のベルをリボンに付けた。

 思わず「クスッ」と笑ってしまった。

「ちょっと季節外れかな。今度ちゃんとした首輪を買ってあげるから、今日はこれで我慢してくれる。でもやっぱり季節外れで可笑しいかな」

 首を捻りながら、暫く猫を観察した。

「おまえ、可愛い顔をしているな」

 猫は尻尾を立てながら、「にゃあにゃあ」と小さな鳴き声を出しながら、ゆっくりと近寄ってきた。

ぼくは猫の頭の毛を静かに撫でると、猫は喉をごろごろと鳴らし目を細める。この家が居心地良いのか、お腹を見せて寝転がった。

「おいおい、そんなにリラックスしていいのか」

 頭から、今度はお腹に手を移して優しくさすってあげた。

 猫と遊んでいると不思議な感覚に捕らわれた。

 なぜか、有希と一緒に戯れている錯覚に陥ってしまった。

 有希は寝る前に「ゴロニャ」 と言いながら、よくぼくの布団に入ってきた。特に冬の寒い日は、ほとんど毎日一緒の布団で寝た。ぼくは彼女の人間湯たんぽになり、暖かさと安心感を彼女に与えた。ぼくも、彼女の身体の温もりと愛情を感じ取った。

 猫と戯れているとやがて睡魔が襲い、ぼくは仰向けになってうたた寝をしてしまった。猫は大の字で寝ているぼくの股間に入ってきて、身体をしなやかに丸めると一緒に寝てしまった。

 どれ程の時間が経ったのだろう。

 猫はむくっと起き上がり、ぼくの右足をまたぐと床の上で前足を揃え、ストレッチをするかのように身体を反らすと背中が湾曲して半弓状になった。それから猫はもとの姿勢に戻り、僅かな隙間が開いていたガラス窓から再び外に出て行った。

             

 雨音に混じり、猫の鳴き声が聞こえてきた。

 ベッドから起き上がって、鳴き声のするベランダの窓を開けると、全身泥だらけの汚れた猫がいた。

「にゃあにゃあ 」

 猫は弱々しい声で訴えている。

 わたしはその場にしゃがんで、猫の頭を人差し指で弧を描きながら優しく撫でた。

 猫は気持ち良さそうに目を瞑る。

「きみは飼い猫なのかな。そのクリスマスのリボンと鈴は首輪なの。ずいぶん汚れているし、ちょっと季節外れね。趣味はあまり良いとは言えないわね」

 わたしは、汚れたクリスマスリボンと銀色の小さな鈴を猫の首から外した。

「きみは女の子かな。女は綺麗に磨かないと素敵な男が寄ってこないぞ。じゃあ今から洗ってあげよう。ピカピカのいい女にしてあげる」

 わたしの声に、何か良からぬことが起きると感じたのだろう。猫は急に身構えて身体が硬くなった。

 パジャマ代わりに着ているTシャツに泥が付かない様に、わたしは猫の背中から脇の下に両手を入れて、宙ぶらりんとさせた状態でそのままバスルームに連れていった。

 浴室の床に下ろし、浴室のドアを締めた。猫は隅に移動し少し怯えた表情をして身構えた。わたしは容赦なくシャワーから放出される少し温めのお湯を猫に浴びせた。急にお湯をかけられて驚いた猫は、バスルームから必死になって逃げようとする。そうはさせまいと、猫を押さえつけた。狭い浴室の中で、シャワーヘッドを猫に向けて容赦なく温水を浴びせ、わたしと猫とのバトルが繰り返された。

 わたしは腕に猫の引っ掻き傷をつくりながらも、狭い浴室の中で猫と格闘し続け、なかば意地になってシャンプーを終えた。猫も観念し、仕上げにタオルでよく拭いて乾かす頃にはすっかりとおとなしくなっていた。

「すっかり見違えるような美人になったわよ」

 猫を両手で抱いて部屋に戻り、床に落ちている汚れたクリスマスリボンと銀色の鈴を手に取った。

「このリボンは汚れているから棄てるね。あなたには、今度お洒落な首輪を買ってあげる」

 わたしは猫を床に下ろすと、リボンと鈴をゴミ箱に棄ててから、洋服ダンスの小物が入っている引出しからグレーに似合いそうな淡いピンクのチェック柄のリボンを選んだ。大人しく座っている猫の正面に座り、猫の首にリボンを巻いてあげた。

「そうね。まだこの方がいいかな。そうだ」

 思いついたように別の引出しを開けて「あったわ」と言うと、小さな銀色のハートペンダントトップを取り出した。

「やっぱり付けた方がいいわね」

 一度巻いたリボンを解くと、ハートのトップが首の前にくるように調整しながら、もう一度リボンを巻いた。

「これでいいわ。女の子だから少しお洒落しなくちゃね。可愛いわよ。ちゃんと綺麗になったからご褒美をあげるね」

 わたしは台所に行き、キッチンカウンターの引出しからクッキー缶を取り出した。蓋を開け、柔らかそうな丸型のクッキーを選び、猫の口の大きさに入るように細かく手で割った。猫はこっちを見て、小さな舌を出している。

「おまたせ。はいどうぞ」

 わたしはクッキーの欠片を猫の口に運んだ。猫は鼻で匂いを嗅ぎ、ゆっくりと口を開けてクッキーを噛み始めた。ひとつを食べ終えると、また次のクッキーを与え、その行為を何度か繰り返して、猫はクッキーを食べ終えた。まだ物足りそうな表情で、強い視線をわたしに向けて催促をする。甘いものをあげ過ぎてはいけないと思い、「今日はこれで、お・し・ま・い」と、ジャンケンのパーのように指を開いた両手を左右に振って猫に伝えた。

 これ以上は何も出てこないと猫は理解をしたのだろう。小さな口から溜息をついて横になった。わたしも猫の傍に行き、一緒になって横になった。

 暫くの間、一緒に寝転がりながら猫の頭を撫でたり、肉球を触ったりしてお互いにじゃれあった。

こ んなにも親密になれたのは、格闘した者同士の友情が芽生えたからかもしれない。じゃれあいがいつの間にか猫も本気になり、時折わたしに猫パンチを繰り出す。猫パンチをくらったわたしも反撃に出る。

「どうだ!」

 そう言いながら猫の全身を触って、くすぐったりマッサージをしたりした。猫は次第に気持ち良くなったのか、くるっとひっくり返ってお腹を見せる。わたしはそのお腹をゆっくりとさすってあげた。

 なぜだろう、この子と遊んでいると亡くなった有希を想い出す。ふたりで過ごした時間は短かったけれど、有希がお腹を壊したときにこうしてお腹をさすってあげた記憶は今も残っている。

 わたしは手を休め、仰向けになった。

 わたしにしか見えない、有希との記憶の映像が白い天井に映し出された。

そ の記憶の場面は、動画ではなく天然色の静止画だった。

 有希と再会した日のこと、一緒に青い綺麗な湖の湖畔で遊んだ場面、悔しそうな顔をして目に涙をいっぱい浮かべている有希の表情など、一緒に過ごした記憶に残る日々の出来事や懐かしい場面が次々と映しだされた。やがて色彩豊かなカラーの静止画は、次第に白黒になり、セピア色に変わると映像はおぼろげになっていき、終には消えた。

 わたしの目には涙が溜まっていた。

 そのとき急に動きの止まったわたしの手を、猫は小さなピンク色の舌で舐め始めた。

「くすぐったい」

 わたしは猫を両手で抱き上げて、まるで幼子を扱うように「高い!高い!」をして、わたしの顔の真上に猫を持ち上げた。

「ねえ、いつまでわたしと遊んでくれるのかニャ」

「にゃあ」

 猫は目を細くして応える。

「いつまでも遊んでくれるって。おまえ、いい子だニャ」

 わたしの言葉は、すっかりニャンコ語になっていた。

 わたしは猫をゆっくりと下ろし、胸の中に両手で抱きしめた。

 慣れない東京暮らしで、ストレスの溜まったわたしの心を癒してくれるかのように、温かな猫の体温が伝わってきた。窓の隙間から時折様子伺いするように部屋に入ってくる心地良い風に包まれ、いつの間にかわたしは寝てしまい、猫も付き合うようにぴったりと寄り添ってうたた寝をした。

 暫くしてから猫は目を覚まし、起き上がると思いっきり身体を伸ばした。それから隣で寝ているわたしの髪の毛を前足でいじり、わたしの頭目掛けて軽く猫パンチを放った。起きないわたしを見て、首を横に傾けてつまらなそうな顔をしながら、猫は開いている窓の隙間から外に出て行った。

 すでに雨はあがり、灰色の雲の合間から薄日が差していた。

             

 いつものように猫がやってきた。

「にゃあにゃあ 」

 鳴き声がいつもの方向から聞こえてくると、ぼくはすぐに立ち上がってベランダのガラス窓を開けた。

「あれ?」

 猫が付けているリボンを見た。ぼくが巻いてあげたリボンとは違って、ピンクのチェック柄のリボンを付けている。確かに今付けているリボンの方が似合っている。ピンク色のリボンと銀色のハートがお洒落で可愛い。

 誰が付け直したかはわからないけれど、やはり季節外れのリボンは完全否定されたようだ。このセンスの良さとアイデアから判断すると、付けたのは恐らく女性だろう。それも二十代から三十代の女性。でも、それ以上のことはわからなかった。

 有希もよく人を観察していて、洞察力が鋭かった。有希だったらリボンを見て、きっともっと多くのことがわかったと思う。

 ふたりで西武新宿線の電車に乗ったときだった。通路に立っている人は十人程で、空席はなかった。 

 有希は車両を見回すとぼくの腕を引っ張り、車両の中央に座っている若い男女の前に立った。次の駅でそのカップルは席を立ち、仲良く手を繋ぎながら降りていった。 

 ぼく達は空いた座席に腰掛けた。

「あのカップルが降りるとどうしてわかった」

「勘よ、勘」

 今回が初めてのことではなく、幾度もこのような事を経験している。

 日常生活でも有希には時々驚かされる。

 帰宅途中、スマホから「今日のお夕飯はお蕎麦です。でも蕎麦つゆがありません。だから買ってきて!」とメールが入り、途中にあるファミリーマートで買ってきた蕎麦つゆを玄関に出迎えてくれた有希に渡そうとした。

「ありがとう」

 蕎麦つゆを受け取る前に両手でぼくの腕を握り、優しく微笑みながら言った。

「ちょうど蕎麦つゆを切らしちゃって。それから、わたしには内緒で、途中で食べたコンビニの中華まんは美味しかった?」

「えっ!」

 有希は蕎麦つゆを受け取り、くるりと背を向け台所に行くと、身体を揺らしながら鼻歌を歌い出した。

(なんでわかったのだろう)

 部屋に入りながらぼくは両手で口と鼻を覆い、口でハーと息を吐き、鼻で両手の中に充満している匂いを嗅いでみた。肉の匂いはしないと思う。肉の匂いを消すために、ミニボトルのお茶を買って一緒に飲んでいる。

 そんな様子を彼女は横目で見て「くすっ」と笑っていた。

 後でどうしてわかったのかを聞いてみたけれど、やはり「勘よ、勘」と言って種明かしはしてくれなかった。

 有希は日本で生まれ、アメリカのシアトルで育った。父親を幼少の頃に亡くし、母親に育てられたと言っていた。現在、母親はシアトルに在住し、コンサルタント業や貿易事業の会社社長として世界中を飛び回っているらしい。ハイスクールを卒業した有希は日本に渡り、日本の大学に入学した。暫くは母親の実家から通っていたが、すぐにアパートでひとり暮らしをするようになった。母子家庭で早くから自立していたので、そうした彼女の育った環境が洞察力を磨いていったのかもしれない。

 ぼくは猫のピンクのリボンを見て、首輪を買いに行こうと急に思い立った。

「これからきみの首輪を買いに行くけれど、ここで待っているか、それとも帰るか、どうする」

 ぼくはなにげなく猫に聞いてみた。

 猫はぼくの顔を見て、外に出て行こうとしたので帰ることを選択したらしい。ゆっくりとベランダの窓ガラスに向かった。ぼくは窓を開けて、外に出て行く猫を見届けてから、着替えて外に出た。ペットショップは確か青梅街道沿いにあったと記憶している。

 普段通らない道を歩くと、いろいろな発見がある。杉並の街は古い家も多く、竹林や寺院など武蔵野の面影を残している場所も多い。

 二十分程歩いただろうか「ペット」と店名が茶色で書かれ、犬と猫の後姿と足跡が点々と描かれている看板が見えた。店の前に着くと、外から店内の様子を窺った。右の壁側には子犬、左側に子猫が見える。入口の自動ドアが開いたので店の中に入った。ペットショップに入るのは、これが初めてだった。

外から遠目で動物達を見るのと違い、身近で見るガラス部屋の中の子犬や子猫は、一段と愛らしく見える。ガラス部屋の窓には、犬猫の種類、性別、年齢、値段が貼ってあった。

「意外と高いなぁ」

 黒く書かれた数字を見て思わず声を漏らした。

 種類によっては、五十万円もする子犬や子猫がいる。かと思えばバーゲンと書かれたシールがガラス窓に貼られ、赤い文字で書かれたバーゲン価格がそのシールの隣に貼られている。その中にいる子犬を見ると、他の犬と違い身体も大きく、貼られた紙に書かれている年齢を見ると三歳を超えていた。

 もしこのまま売れないでいたら、この子はどうなってしまうのだろうか。

 ガラス部屋にいる子犬や子猫を端から順に見ていくと、昼寝をしている子や所狭しと新聞紙を破りながら、おもちゃと一緒に活発に動き回っている子もいる。

 何か心が癒され、見ていて飽きなかった。

 犬猫が展示されているペットコーナーを離れて店内を見て回ったが、見るものすべてが物珍しい。犬のコーナーでは、年齢や健康を気遣ったドッグフードの種類の多さに驚き、音の鳴る玩具やジャーキーやガム、ささみなどのおやつ類を見るとビールのつまみに買いたくなってしまう。猫のコーナーの首輪が置いてある場所の前に来ると、様々な色彩豊かな首輪が、壁から突き出ているコネクトフックに掛けられていた。首輪には金属性や皮の装飾が施されたり、鈴やハートや迷子札が付いていたりして、正直言って何を選んでいいかわからなかった。

 店内を見回して店員を探してみたが、皆カウンターで接客していて手が離せないような様子なので、ぼくと同じように猫の首輪を選んでいる近くの女性に背後から小さく声を掛けた。

「あの、すいません」

 ぼくの声が小さくて聞こえなかったのだろう。女性は振り向いてくれなかった。

 もう少し大きな声を出して再び声を掛けた。

「あの、すいません」

 ようやくぼくの声に女性は振り向いてくれたが、その女性の顔を見て一瞬にしてぼくの表情が強張ってしまった。

「有希?」

 ぼくは思わず呟いた。

 その驚いたぼくの表情を見て、その女性は怪訝そうな顔をしている。有希がここに現れるはずはない。よく見ると有希よりは大人っぽく見える。

「あの、突然声を掛けてすいません」

 まずは丁重に頭を下げた。しかし動揺は隠せず、ぼくの心臓の拍動は早く動悸が激しい。

「実は猫の首輪を探しているのですが、お店の方がいらっしゃらなかったので、失礼とは思いましたが、きっと猫についてよく知っておられると思って、ついお声を掛けてしまいました。それで何を選ぼうかと、まずは聞こうと、そして選んでもらおうと思い・・・」

 ぼくの話しはしどろもどろで会話に脈絡がなく、自分でもいったい何を言おうとしているのかがわからなくなっていた。

「実はわたし、猫を飼っていません」

「えっ」

「わたしの家に毎日のように猫ちゃんが遊びに来てくれます。その猫は野良猫ですけど、可愛い首輪を付けてあげようかなと思って、それでこの店に寄ってみました」

 淡いピンク色の首輪を手にしながら、その女性は微笑みかけてくれた。笑うと、有希と同じでえくぼが印象的だ。

「お邪魔をしてしまい、どうもすいません」

 ぼくは再び頭を下げた。

「そんな、気になさらないで下さい。わたしはただ見ていただけですから」

 女性は右手を軽く振って、恐縮したような顔をした。

「ところでどんな猫ちゃんなのですか。もしわたしで良かったらお手伝いさせて下さい。わたしも後学のために、少し首輪について知りたいと思っていました」

 ぼくは猫の性別、毛色、体型や特徴を想い浮かべながら、野良猫であること以外は、女性に一通り話しをした。女性はぼくの話を真剣に聞き、「遊びに来る猫とそっくりだわ」と、独り言を言いながら、視線を壁に掛かっている首輪に移した。

 暫く時間を置いてから、ずっと手にしていたピンクの首輪をぼくに差し出した。

「お話しを伺っていると、これが一番良さそうです。グレーとピンクのコントラストは、優しく知的に見えるはずです」

「でもこれはあなたが買おうと思っていたのではありませんか」

「いえ、今すぐに必要なわけではないので気にしないで下さい。その猫ちゃんは、わたしの家に遊びに来る猫と似ていると思いますので、この首輪ならバックル式ですから付け外しも楽だし、ここにスワロフスキーのストーンがあるのでとても高級感があります」

「猫の首輪はそんなに取り外しが頻繁にあるのですか。犬と違って散歩に行かないから付けたままでいいと思っていました」

 ぼくは率直に疑問を女性に投げかけてみた。

「猫は狭いところが好きでしょう。だから何かに猫が引っ掛かったりすると、首が絞まってしまい危ないから取り外しが簡単にできるように、こうしたバックルはセーフティバックルになっています」

「猫のこと、良く知っているのですね」

 すると女性は悪戯っぽい目をしてにこりと微笑んだ。

「実はあなたと同じ質問を、ここの従業員に尋ねたばかりだったのです。だから今お話しをしたことは、その方の受け売りです」

「猫を飼っていないとおっしゃっていましたが、それは嘘で、猫を何年も飼っているベテランかと思いました」

「ごめんなさい、ベテランではなくて。でも猫は飼ったことはありません。ずいぶん昔ですが、わたしは犬を飼っていました」

「何犬ですか」

「ラブラドールです」

「そうですか、ぼくはどちらかというと、実は犬派で、猫については全くと言っていいほどわかりません」

 女性は話しを続けた。

「この首輪は素材がポリエステルとナイロンですから軽いし、外に出ても皮製ではないので雨にも強いです。全体が綺麗なピンク色で端が細い白いラインで、見た目もすっきりしています。お洒落なハート型ストーンが付いていてとても可愛いし、それにお値段も手頃かと思います」

「完璧なセールストークですね。ぼくがこの店の店長でしたら、すぐに社員として採用するでしょうね」

 女性は右手でいやいやをするように手を振り、顔を少し赤らめた。

 そのときに、ぼくは手にしているピンク色の首輪とハート型ストーンのトップを見て、ある疑問が生じた。このピンク色の首輪とハート型トップとの組み合わせは、猫が今装着している同じ組み合わせである。もしかしたらあの猫の首にリボンを巻いたのはこの女性ではないだろうか。

 しかしその考えはすぐに打ち消した。

 彼女が身に付けている時計は、グレーで文字盤がピンクだった。

(きっとこの配色が好きなのかもしれない)

 そう考えると、灰色の猫にピンクの首輪は定番なのかもしれない。

 さすがに、グレーの猫にクリスマスの赤と緑のリボンを選ぶのは、ぼくぐらいなものだろう。

「いかがですか」

「あなたの説明でこの首輪を買いたくなりました。あなたはぼくが話した猫を知っていたのかなと思うぐらい、あの子には似合うと思います。だけど、本当に良いのですか。この首輪はこれ一本しかないのに」

「先程申しましたが、猫を飼っているわけでもないので、気にしないで下さい」

「ありがとうございます。それでは遠慮なくこれを買わせて頂きます」

「それから」

 彼女はフックに掛かっている商品を手にした。

「それと余計なことかもしれませんが、このポケットもいかがですか。もし猫が外に出て迷子になったりしたら誰かが届けてくれるかもしれません。迷子札はちょっと首周りがうるさくなるので、これなら普段は外しておいて、もし外に出るときにはこのポケットを付ければいいのですから。でも猫を外に出したりはしないですよね。余計なことでした。すいません」

 彼女は商品を元の位置に戻した。

「いいえ、よく外に出ている猫ですからこれは必要です。もう少し選んでみます。ありがとうございます」

 ぼくは軽く会釈をしてお礼を言った。

「それでは、わたしはこれで失礼します。猫ちゃん喜んでくれると良いですね」

「はい、ありがとうございました」

 ぼくはまた会釈し御礼を言った。

 彼女が去ると同時に、ぼくの動悸も納まった。

 本当はもう少し話しをしたい衝動にかられていたので、これから一緒にお茶をしようと誘おうと思ったが思い留まった。この界隈に住んでいるようだし、もし縁があればまた会えるだろう。

 あまりにも彼女が有希に似ており、有希が蘇ったのではないかと思うほどにその衝撃は大きく、話しをした時間が精一杯で、既に限界でもあった。ぼくの心臓はあれ以上の長い時間を堪えることはできない。有希に似た彼女を再び想い出すと、一旦収まった心臓の鼓動がまた高まっていく。有希より少し大人びてはいるが、髪形や服装が同じなら区別が付かないかもしれなかった。

 彼女が勧めてくれたポケットを選び、その場を離れた。

 途中にたくさんのキャットフードが並んでいる棚を通り、立ち止まった。正直どれを選んで良いかがわからない。袋に書かれているキャッチコピーを読み、結局は「獣医師さん推奨」と書かれた1500グラム入りのキャットフードを手に取った。会計を済ませようと店の中央にあるカウンターに向かった。

 会計を終えるともう一度店内を見渡したが、彼女の姿は見えなかった。

 店から離れ、ゆっくりと歩きながら以前有希が言っていたことを想い出していた。


「達也、知っている」

 女性ファッション誌を読んでいた有希が、目線を雑誌からぼくに移して聞いてきた。

「いきなり、知っていると言われても、何を?」

「ごめん。主語を端折ってしまって」

 有希は自分の言うことはすべてぼくには理解されていると勝手に解釈して、時折主語のない会話をしてくる。

「それで、なに?」

「この本によると、この世には自分と瓜二つの人間がいるって書いてあるの。達也は信じる?」

「ああ、何かの本で読んだことがあるけれど、それは地球レベルの話しではなく、宇宙レベルの話しだと記憶している」

「日本の人口は約一億三千万人。瓜二つの人間がいるとすると、例えば同じ人間がペアを組むと六千五百万組か、世界の人口は七十二億だとすると三十六億万組か。これって桁が大きいから実感が湧かないわね。でも自分と同じ人間が日本にいるって、なにか可笑しい。やっぱり地球レベルで考えてしまうとあり得ないわね。もう少しましなことを書けばいいのにね」

「ぼくが聞いた話しは、こんな話しだった。世界はプラスとマイナスでバランスを取っている。だから、銀河系宇宙ともうひとつ同じ世界があって、今ぼく達がいる世界をプラスとするとマイナスの世界が存在して、同じことがマイナスの世界では起きている」

「それって、わたしと達也がマイナスの世界にいるということ」

「そういうことになるね」

 有希は暫く考え込んだ。彼女なりの分析と論理を組み立てているのだろう。

「面白いわ。うん、確認はできないけどあり得るわ。でも、どっちかが、仮にわたしが死んだら、向こうのわたしも死んでしまうっていうこと」

「理論的はそうなるけど、でもこういう考えもある」

 有希はこういう話しが好きなので、身を乗り出してきた。

「作用反作用の法則って知っている」

「知っているわよ」

「これはぼくの理論だけど」

「達也理論ね」

「作用反作用もバランス論で、結果的にはプラスマイナスゼロになる。例えば諺では、『人生山あり谷あり』の諺は、これは昔からあるけれど、良いときもあれば悪いときもある。結果的はプラスマイナスゼロになる例えだし、ゲームでも『ちんちろりん』って知っている」

「うん、やったことはないけれど、お茶碗にサイコロを投げて勝ち負けを競うゲームでしょう」

「そう、あれも奇数と偶数の確立が二分の一で、最終的に勝ち負けは五分と五分でプラスマイナスゼロになる。常にゼロベースになるから、例えば誰かが死ぬとする。これはマイナスだとすると、プラスになる誕生が起きると思うんだ」

「うん、その考えよく理解できる。だから、わたしが死んだら新しい生命が誕生する」

「そうなるね」

「じゃあ、わたしが死んで、達也にわたしに代わる女性が現れることもプラスマイナスゼロの考え方だよね」

「まあ、そうなるのかな?いや、それはちょっと違うと思うけれど」

「でも、結果的にはそういうことになるよ。達也、意外と理論家なのね。感心したわ」


 まさか、マイナスとなった有希に代わるプラスが、さっきの彼女では・・・。

 いや、そんなことはあり得ない。彼女が有希に似ているから、有希の言ったことを想い出したに過ぎない。

 何か切ない感情が、心の奥から湧き出してきた。

 最愛の人にもう一度会いたい、でもそれは叶わない。

 会いたいという衝動とあきらめの感情が交差しながら、ぼくは歩速を早めて、家路を急いだ。

             

 ペットショップで声を掛けられた男性について、ぼんやりと考えながら家路に向かっていた。

 偶然に出会い、猫の首輪を選んであげた。ただそれだけなのに。

 日本に来て、会社以外では人と交わる機会もなく、あの僅かな時間でも楽しい時を過ごせたのは、他人とのコミュニケーションに飢えていたのかもしれない。

 以前どこかであったことのあるような、妙に懐かしさも覚えた。彼もわたしの顔を見ると驚いたような顔をしたけれど、あれはきっとわたしが誰かに似ていたのね。

「間違えたということは、まさか彼は・・・」

 わたしすぐ様否定した。

「千三百万人もいる東京の中で偶然に出会うことはないわ」

 そのとき「亜紀ちゃん」と、耳もとで有希の声が聞こえた様な気がした。

「えっ、有希?」

 わたしは辺りを見渡した。車の往来が激しく、車の低音域の振動が伝わるだけで、人影は見当たらない。

「有希はもういないのに、わたしって、ばかみたい」

 気のせいとわかっていながらも、有希がわたしを呼ぶときの声だと思った。

 長く育ったシアトルから日本に来て就職し、東京の朝の混雑や慣れない土地での生活に戸惑いもある。いくら日本にいたことがあったといっても、ずいぶんと昔の頃だし、その当時と比べ、東京の時間の速さは格段とスピードアップしていた。生活のストレスがわたしをナイーブにさせ、だから聞こえるはずのない声が聞こえたように感じたのかもしれない。

 わたしには、生活以外にストレスに感じていることがあった。

そ れは、手紙に書かれていた有希とのある約束だった。その約束は、高校生のときに有希と一緒に誓ったことでもあった。そのときのわたし達は、まだふたりとも隠された真実を知らなかった。

 わたしは遠いシアトルの地を想い起こした。


 長い雨季が終わり、シアトルはこれからベストシーズンを迎える頃だった。

 突然有希がアクションムービースターのブルース・リーに会いに行こうと言ってわたしを誘い、わたし達はブルース・リーの子息ブランドンと眠っているレイク・ビュー・セメタリーに来た。

 有希が懐かしの映画鑑賞会でブルース・リー主演の映画「燃えよドラゴン」を見て興奮し、翌日一緒に「行こう!」とわたしを強引に連れ出したのだった。

 墓地はシアトルのダウンタウンから車で十五分程の距離で、レストランやカフェが軒を並べ文化の発信地でもあるキャピタル・ヒルのエリアに位置し、レイク・ビュー・セメタリーはボランティアパークに隣接している。

「うゎー綺麗」

 わたし達は墓地から見える景色に感動した。

 ユニオンレークとワシントンレーク、二つの湖がこの高台から一望できる。青い空と白い雲、空の青さと微妙に色の異なる青色の湖、墓地を覆う薄い緑の絨毯と濃緑の木々の葉、それぞれのコントラストが協調し合って一層自然の美しさを演出している。

 有希に連れられていやいやながら来たけれど、来た甲斐があったと感じるとともにこの景色を見て日常に感じるすべてのストレスが吹き飛んだ。

 暫くわたし達は緑の絨毯の上に仰向けになって寝て、ゆっくりと流れる雲や木の葉の揺れを見たり、耳を澄まして風の音を聴いたりしていた。

「ねぇ、亜紀ちゃん」

 突然、有希が仰向けのまま声を掛けてきた。

「何?」

「うちのママ、よく亜紀ちゃんをわたしと間違えるでしょう」

「うん、時々あるね。有希のママがうちに遊びに来ていてこの間も後ろから“有希!”と声を掛けられたので振り向いたら、わたしと有希を間違えて呼んだみたいで“亜紀ちゃん、やっぱりあなたたちは似ているわね”と言われたばかり」

「亜紀ちゃんとわたし、似ているよね」

「うん、だって有希ちゃんのママとうちのママは姉妹でしょう。それも一卵性双生児、似ていてもおかしくはないわ」

「わたし達、本当の姉妹みたい」

「うん・・・わたしは有希のこと、妹と思っている」

「わたしも、亜紀ちゃんをお姉さんと思っている」

「うん、ありがとう」

 有希は身体の向きを変えて、わたしをじっと見つめて言った。

「亜紀ちゃんとわたしは似ているでしょう。もしかしたら彼氏も同じ人を好きになってしまうかもね」

「それはないと思うなあ。容姿は似ていても、有希とは性格は違うし、有希は社交的でわたしは内向的、とても同じ人を好きになるとは思えない。有希、もしかして彼氏いるの」

有希は「いない」と言って首を振った。

「日本にいるとき、友達はたくさんいたけれど、特別に好きな人はできなかった。亜紀ちゃんはいるの」

 わたしも首を振って答えた。

「いたら、有希じゃなくて彼氏とここに来たわよ」

「わたしとですいませんでした」

 有希は左の人差し指で下瞼を引き下げてあっかんべーをした。それから「なんだ、ふたりともいないのか。寂しいね」と言い、有希はまた仰向けになった。

「わたしは寂しくないわよ」

「ふーん」

 暫くの間、じっとして動かずにいると、心地良い陽の光と爽やかな風に包まれて身体は完全に弛緩している。

「亜紀ちゃん」

 仰向けのまま、有希が声を掛けてきた。

「何?」

 わたしも目を瞑り、仰向けのままに応えた。

「わたしと亜紀ちゃんは似ているって言ったよね」

「うん」

「わたしが結婚したいと思う人は、きっと亜紀ちゃんも結婚したいと思う人なんだろうな・・・そう思う。もし、わたしが亜紀ちゃんよりも早く結婚したとしたら、きっとその人を亜紀ちゃんはきっと好きになると・・・そう思う」

「勝手に決めないでよ。わたしだって理想はあるんだから。そう言うならわたしが結婚したいと思う人は、有希も好きになるということだよ」

「うん、絶対にそうだと思う」

 有希は再びわたしの方に身体を向けて言った。

「わたしが早く結婚して、もし、もしもよ、わたしが彼より先に逝なくなったりしたら、亜紀ちゃん、残された彼氏をよろしくね」

「よろしくね、と言われても困るわよ。それに逝なくなったらってどういうこと」

「例えば、病気や事故で死んでしまうとか」

「有希が逝なくなるなんて考えたくないよ。有希はまだ若いのに、どうして死んだ後のことなんか考えるの」

「あんまり真剣に考えないでほしいの。例えばの話しだから。でも、そうなったらわたしの将来の旦那様をよろしくね。もし、逆になったらわたしが亜紀ちゃんの彼の面倒を見るから」

「うん、何か実感がないけれど、わかったわ」

「じゃあ、約束」

 有希は右手の小指をわたしの前に突き出した。

「なに?」

「指切りしよう」

 わたしも右手の小指を出して有希の小指に絡ませた。

「指切りげんまん、嘘ついたら針飲ーます」と、有希だけが声に出して、強制的に約束をさせられた。

 あの時、わたしは冗談のつもりだった。


 遠くで、猫の鳴き声が聞こえる。その鳴き声で我に返った。

「今日は、あの子に首輪を贈ってあげようと思ったのにちょっと残念だったな」

 毎日来る猫のために首輪を買おうとペットショップに行ったが、結局何も買わずじまいだった。

 一旦手にした首輪は、同様に猫の首輪を探していた彼に譲った。

 あの首輪はひとつしかなかった。 

「今度来たときに、もっと似合う首輪を買ってあげよう。今日も来ているかもしれないからたくさん遊んであげよう」

 目的を果たせなかったのに、なぜか心は弾んでいた。

 そのとき後ろからひとりの男が、一定の距離を保ちながら後をつけていることに、亜紀は気付かなかった。

             

 いつものお決まりの時間になり、猫はやって来た。まず辺りを見渡してからベランダに上ると、窓の外からいつものご挨拶なのだろう「にゃあにゃあ」と鳴く。

 鳴き声が聞こえるとぼくはベランダに行き、窓ガラスを開ける。

「おはよう。さあ、おいで」

 ぼくは猫を片手で抱き、用意していた濡れタオルで灰色の小さな足を拭き終えると、台所に連れていった。ペットショップで首輪と一緒に買ったキャットフードを白いボールに入れて猫の前に置いた。

よほど美味しいのだろうか、猫はむさぼるように音を立てながら食べている。さすが獣医師さん推奨だけのことはあると妙に感心してしまう。

「そんなにがっつかないで。誰も盗ったりしないから」

 食べている様子を暫くの間観察していると、猫の耳の後ろにきらりと光る小さな金属片らしきものが見えた。

「なんだろう」

 ぼくは猫の毛に絡まっているその金属を外し、手のひらに置いた。

 女性が身に着けるイヤリングだった。

 そのイヤリングを左手の親指と人差し指でつまみ、目の前に近づけて見る。

 小さな白いパールが付いていて、可愛らしく揺れている。最近の女性は殆どピアスを身に着けているから、イヤリングは珍しい。

 このお洒落なデザインを見る限り、若い女性の装飾品と思われる。きっと二十代の独身女性で、イヤリングの大きさからして、顔が小さく、身長はあまり高くはないことが窺える。金具の幅から判断すると太った女性ではなさそうだ。

(いけない。また、プロファイリングの真似事をしてしまった)

 そういえば有希も耳に穴を開けるのは嫌と言ってピアスでなくイヤリングだった。

 誕生日のプレゼントにこんなパールのイヤリングを買ってあげたこともあったなと、想いを廻らしていると、食事を終えた猫が足元で甘えた仕草をしている。

「食べたかい。今日はきみに贈り物があるんだ」

 テーブルに手を伸ばし、まるで恋人に誕生日プレゼントを渡すかのように、高揚した面持ちでピンク色の首輪を手にした。白いバックルを外し、猫の首に回してカチッと装着した。

 猫は嫌がらずにおとなしくしている。きっと以前は飼い猫だったのだろう。だから人間に懐いているのかもしれない。

「待てよ」

 勝手に野良猫と決め付けているけど、飼い猫なのかもしれない。リボンのこともあるしこのイヤリングだってこの猫に付いていたということは、やはり誰かに飼われている猫ではないかと思ってしまう。

 疑問をそのままにしておくことの嫌いなぼくは、隣の部屋に行き、机の引出しから小さな付箋を取り出した。そのまま椅子に座り、左手を顎にかけて文章を考えた。付箋は小さなスペースしかないので長い文章は書けない。ようやくペンケースから青いボールペンを取り出し、相手は二十代女性とイメージしてメッセージを書くことにした。一瞬、猫好きなお婆さんだったらどうしようと思ったりもしたが、願望として最初のイメージ通りに書くことにした。

「飼い主様へ 

 イヤリングを付けておめかしした可愛い猫のお姫様が、

 道を尋ねようとわたしのもとに立ち寄りました。

 そのときに忘れたものです。

 あなたのではありませんか?」

 付箋を四つ折にし、イヤリングは小さなビニール袋の小袋に入れた。付箋とイヤリングを、買ってきたばかりのポケットの中に一緒に入れて、そのポケットを首輪に装着した。

「これでよし!」

 猫はぼくの顔をじっと見て、自分に与えられたミッションを遂行するかのように、すぐに外に出て行った。

「ちゃんと届けるんだよ。・・・ポストマン。いや、ポストニャンか。そういえば、まだ名

前が決まっていなかったな」

             

「にゃあ、にゃあ」と、窓の外からいつもの鳴き声が聞こえた。

 訪問者は夜遅くやってきた。

「遅いじゃない。寒いでしょう」

 窓ガラスを急いで開けて、すぐに手を伸ばして猫を抱き、部屋の中に招き入れた。

「どうしたの、こんな夜中に。もう眠る時間よ」

 猫の小さな頭を撫でながら強く抱きしめた。猫の温かい体温がTシャツの上から伝わってくる。

「あら!」

 猫の首を見ると、リボンではなくピンクの首輪をしている。

「あなた、野良猫じゃなくて飼い猫だったの?」

 猫を抱き上げて、もう一度じっくりと首輪を見た。

「あら、とても可愛い首輪ね。とてもセンスがいいわ。ハートのトップも可愛いし、ポケットも付いているのね。あら・・・」

 首輪を見て、思わず首を傾げた。この首輪はどこかで見たことがあると思った。ここ最近の自分の行動の記憶を順追って辿ってみた。

「あの時の首輪とそっくり。ペットショップでこの子の首輪を探していて、確かわたしが気に入って買おうと思っていた首輪とそっくりだわ。その首輪は・・・そのとき・・・わたしと同じように猫の首輪を探していた男性に譲ってあげた。そのときの首輪かしら」

 もう一度考え直してみた。

「同じような首輪なんかたくさんあるし、考え過ぎね」

 自分の考えを否定して、ポケットに手を掛けた。

「この中にはあなたの住所と名前が書いてあるのかな」

 わたしはポケットのスナップボタンを外そうとした。スナップが多少硬かったので、力を入れ過ぎたら大きく口が開いてしまい、何かが床にポロッと落ちた。すぐに拾い上げると、落ちたものをじっと見つめて、首を傾げながら棚にある木製のジュエリーボックスを開けて中を見た。

 各々に仕切りされて置いてある装飾品をチェックしながら見ていくと、そこには一個しかないパールのイヤリングが置いてあった。失くしたことに気付き、家中探しても見つからなかった片方のイヤリングだった。

「同じだわ。どうしてここにあるの」

 わたしは同封されている四つ折の紙片を広げた。手紙に書かれている小さな文字を見て思わず「ふっふふ」と笑みを溢した。

「あなたに御礼をしなければならないわね」

 わたしは台所に行き、食器棚から白いお皿を取り出し、猫専用の鶏ささみのフリーズドライを少し入れた。

「夜遅いからあまりたくさんはあげられないけど、わたしからの感謝の気持ちよ」

 白いお皿を猫の前に置くと、猫は上目遣いでわたしをちらっと見てから顔をお皿に突っ込んだ。

 サックサクと、美味しそうな音を立てている。

 わたしはテーブルに座り、片隅に置いてあった鞄を引き寄せ、中から可愛いキャラクターの図柄の付箋を取り出した。

 右手でボールペンを持ちながら、右手の甲を顎に当ててお礼の返事を考えた。

 差出人は明らかに男性なので、妙に緊張してしまう。ただ素直に御礼の気持ちを書けばいいとはわかっているが、最初の出だしが決まらない。

 結局、あれやこれやと考えて、何度か書き直してようやく書き終えた。

「ありがとうございます。

 可愛い郵便屋さんが、私の元にちゃんと届けてくれました。

 お気に入りでしたので、大感激です。

 今度御礼をさせて下さい。  森村」

「御礼をさせて下さい」とは遠回しでお会いしたい意味になるけれど、相手の連絡先も、この手紙がはたして届くかもわからないので、社交辞令として文を結んだ。

 書き終えた付箋を折り、黄色いポケットに入れた。

 猫は食事を終えており、「にゃあ」と、小さな声で鳴く。

「今日はこれで終わりね」

 わたしが言うと、納得したかのように身体を反転させて窓ガラスに向かう。

「にゃあ、にゃあ」と、窓を開けろと催促する。

わたしが窓を少し開けると、猫はゆっくりと外に出た。

「ちゃんと届けてね」

 猫の背後から声を掛けた。猫は視界から消えるぎりぎりの場所で一度振向いて、「にゃあにゃあ」と、わたしに向かって鳴き、暗闇へと消えて言った。

 わたしには「わかった」と言っているように聴こえた。

             

 期待しなかったと言えば嘘になるかもしれない。まだ冷えた地面に漂う朝靄に紛れて、猫は期待に応えて我が家にやって来た。

 猫の鳴き声と同時に窓を開けて、猫を抱きかかえて部屋の中に入った。

 前日に入れたイヤリングがどうなったか気になっていたので、すぐに猫を下ろして首に付いている黄色いポケットのスナップを外した。

「おや?」

 中にはビニールに入れたイヤリングはなく、紙片だけが見えた。一瞬、イヤリングだけがなくなったのかなと思ったが、自分の入れた付箋とは色も大きさも違う。ぼくはポケットの中から付箋をつまみ出し、すぐに開いて可愛いキャラクターの絵柄の付箋に書かれている文字を追った。

「森村さんと言うのか」

 イヤリングのデザインを見ると明らかに若い女性と思われるが、筆跡では年齢が若いのか年配の方なのかは判断できない。

 この短い文章からわかったことがある。

 この猫は飼い猫ではなく野良猫だということ。この猫はぼくと彼女の両方から餌をもらっているに違いない。

 そのお礼に手紙を運んで来てくれたのだろうか。

「今度御礼をさせて下さい」とあるので、ぼくと連絡を取りたいのだろう。

 正直な気持ちとしては、彼女に会ってみたい。すぐに連絡先を伝えようかと思った。よくよく考えてみるとそんなすぐに電話番号を伝えるのもいかがなものだろう。返って警戒されたりはしないだろうか。

 ぼくは猫を抱いて、頬を指で撫でながら言った。

「おまえ、律儀なやつだな。ちゃんと手紙を届けてくれるなんて」

 猫はぼくの顔をじっと見つめた。

 なんだろう?

 この愛しい気持ちは。

「おまえ、有希の生まれ変わりじゃないよな」

 

「ねえ、達也。人間以外に生まれ変わるとしたら何になりたい?」

 ソファに身体を深く沈めて、有希の隣で「ジェニーの肖像」の原語を読んでいたぼくに、急に有希が声を掛けてきた。

「なんで、今そんなこと聞くの?それって占いか何かかい?」

「いいから、答えてよ」

「あえて言えば、犬かな」

「どうして?」

「深い意味はないけど、犬はいつも人間と家の中で一緒に暮らせるし、それに犬ならこうして有希に甘えることができる」

 ぼくは本を閉じて、甘えるようにして有希の膝に頭を乗せた。

「もーう、真面目に聞いているのよ」

「真面目だよ」

 有希を真下から見つめて言った。

「どうして犬なの」

 有希が繰り返して聞く。

 ぼくは起き上がって、今度は真面目に答えた。

「スターンレー・コレンが書いた本でタイトルは忘れたけれど、『ネアンデルタール人はなぜ滅びたのか』という章があって、ぼくらの先祖ホモサピエンスと呼ばれる霊長類が生き残って、力のある頑丈なネアンデルタールがなぜ滅びたのか、その謎を解いている」

「どうしてそれが犬の好きな理由なの。それになぜネアンデルタール人は滅びたの?」

「それが面白いことに、その理由が犬なんだ。もっとも今みたいに犬種が多いわけでもないし、犬の先祖だから可愛くはなかったと思う。両者の比較をすると進化について話さなければならないから端折るけど、氷河期が来て大型の獣が激減してしまい、両者の生存は新しい環境に適応できるか、大型動物以外の植物をいかに確保できるかどうかだった。それでね、ホモサピエンスは集団で住み、その土地の植物を採取して、それが農業に繋がったと言われている」

「何処で犬がでてくるの」

 有希は不思議そうな表情をしている。

「居住地を確保したらゴミが出て、そのゴミがオオカミやイヌ族の食料源になっていき、そのうちに彼らはホモサピエンスの共同体の一部になったと書いてある。そうすると鋭

い臭覚を持つ彼らは、敵となる人間や動物が近づくと吠えて、それが警報となり、外敵の襲撃から共同体を守ることができたので、安心して暮らせるようになった。だから健康も知能も向上していったらしい。そのうち人間の武器に矢ができて、遠くの獲物を人間が傷つけ、その傷ついた獲物を犬が追い詰めて仕留めていく。こうして効果的な狩りができるようになると、その結果健康状態も良く、病気もかからない。

 一方ネアンデルタールは大きな集団を形成することができず、常に警戒をしながら過ごして次第に飢えて弱っていく。ホモサピエンスの共同体を襲ったりしたらしいけど、そのたびに犬が吠えて集団で反撃されたらしい。こうして、ネアンデルタールは絶滅したと唱える説があり、ぼくはこれを読んで犬と人間の関係が太古の世界から続いていることを思うと、お互いに協力し合ってきたんだったら、今度は犬、そしてまた人間、こうして順番に生まれ変わる方がいいかなと思って。だから犬がいいと言ったんだ。それに今のワンちゃんは可愛いしね。だから生まれ変わるならミニチュアダックスフンドみたいな犬になって有希に飼われたい」

「ふーん」

 彼女は感心したように達也を見た。

「そこまで詳しく解説を話されたら納得しちゃうわね。でも、わたしは猫になるわ」

「どうして、猫に」

「達也みたいにうまく説明できないけれど、古代エジプトでは猫は神聖な動物とされていたでしょう。猫が死んである場所に持っていくと防腐処理をして、特別な猫の形をした棺に入れて、猫の墓地に埋葬されたようなの。猫だったら、きっと神様がまたこの世に戻してくれるような気がしているの。だから、もしわたしが死んだら、猫になってこの世に戻って、そして達也の前に現れるかもしれない。

 でも・・・達也はわたしだと気付かないだろうな。意外と鈍感だから」

「ぼくはそんなに鈍感かな」

「意外とね」

「そうか、でも有希。死ぬなんて言うなよ」

 ぼくは悲しそうな目で有希を見つめた。

「ごめん、達也。真面目に受取っちゃった?わたしは大丈夫よ。健康優良児の有希ちゃんは、少なくても達也翁よりは長生きするはずだから」

 有希は茶化したように言い方をしながら、ぼくの視線から目を逸らした。

 そのとき彼女の死は既に近づいていた。

 でもぼくは、有希に迫り来る死の気配を、この時は全く感じることはできなかった。


「おまえ、まさか有希じゃないよな」

 もう一度、目の前の猫に聞いた。

 すると猫はぼくから目を逸らし、それからは目を全然合わせなかった。

 暫くの間、なぜかお互いに気まずい雰囲気の沈黙が続き、ぼくは猫を静かに床の上に下ろした。猫は部屋の隅に行くとぼくをちらっと見て、目が合うとまたすぐに逸らして白い壁を見つめ続けた。

 ぼくは溜息をつき、暫く様子をみることにした。

 この手紙をくれた女性に直ぐ様返信しようと思い、隣の部屋に行き机に向かった。引出しから付箋を取り出し、猫が再び手紙を運んでくれる保証はないが返事を書くことにした。

 メールやラインで早く確実に情報が伝わるこの時代に、相手も知らず、しかも猫を使って届くのかもわからない超アナログ手段の交信は、真面目に考えると可笑しい。

 この付箋にぼくの電話番号を書けば、この手紙が着くとすぐに連絡をくれるはずだが、ちょっとした猫通信という遊び心に駆り立てられてしまい、連絡先を敢えて書かずにボールペンを走らせた。

「暫く猫通信を続けてみませんか。

 もしこの手紙が届いたなら、

 この猫に名前をつけて頂けませんか。」

 最後に「達也」と、自分の名前を書いた。

             

 猫が運んで来た付箋の返信を読んだ。最後に書かれた「達也」の文字を見て、達也という人物を想像してみた。

(この猫を通して通信を続けたいと書いてあるから既婚者ではないのかな。名前だけで住所も電話番号も書いてくれてないということは、居所を知られたくないのかな。猫が通えるくらいだから、住まいはきっとこの近くね。でも住まいを隠すような雰囲気は伝わってこない。それに返信を期待している。苗字がなく名前だけ。これって単なるサインの意味なのかしら。外国の手紙なんかは、最後にサインするし、・・・名前についてはあまり考えても意味がないわね)

 相手のプロファイリングをしている自分に対して、思わず笑ってしまった。

 それよりも最後の一行の文章には戸惑い、猫の名付け親になることを考えると相当なプレッシャーを感じてしまった。

「どうしよう」

 わたしは猫を横目で見た。

 わたしと猫の目が合った。

 猫は 「にゃあ」 とひと声鳴いて、わたしに近づいてきた。わたしは猫を引き寄せ、小さな頭を撫でながら猫に直接聞いた。

「どんな名前がいい?」

 猫に尋ねると、猫は興味なさそうに小さく欠伸をした。

 よく聞く猫の名前は、モモ、ルナ、メイ、ナナ、ユキ、サクラが想い浮かぶ。

 わたしは傍に合ったポストイットに、思い浮かんだ猫の名前を一枚一枚書いて床に一定の間隔を取って貼った。

 この際、猫に選ばせようと思い、もう一度猫に聞いた。

「ねえ、どの名前がいい。あなたが好きな名前を選んで頂戴」

 猫はわたしの顔をじっと見た。猫はゆっくりと立ち上がり、ポストイットの上を何度も言ったり来たりしている。

 暫くして一枚のポストイットの前に座った。

「えっ」

 わたしはその名前を暫く見つめ、書かれたポストイットを床から剥がして見つめた。

 選んだ名前は「ユキ」だった。

「有希・・・」

 わたしは小さく呟き、遠い幼い頃の記憶を蘇らせた。


 わたしと有希はシアトルのクイーン・アン地区に住んでいた。この地区はシアトルのランドマークのひとつである「スペース・ニードル」の麓から始まり、丘の上をアッパー、「スペース・ニードル」のあるシアトル・センター付近をローと呼び、今では開発が進み閑静な住宅街が見られる。

 この地域の中心地のクィーン・アン・アベニューには、お洒落なレストランやギフトショップが軒を連ねている。クイーン・アンの由来は、十八世紀アン女王時代のイギリスで生まれた様式を起源としているらしく、その様式がこの地区で多く見られたことから「クイーン・アン」と名前が付けられたようだ。建築デザインの本で見る比較的地味な英国の伝統的な様式の家は、今では見かけない。自分の家だったら素敵とも思うけれど、今ではこの地には溶け込まない様式とも思う。

 あの時のことは、今でも幼い頃の辛い記憶として、断片ではあるけれど時々甦る。

 二階で寝ていたわたしは、階下から聞こえるパパとママの大声で目が覚めた。ベッドから抜け出して下に降りようとドアに手を掛けたけれど、パパの怒鳴り声を聞いたら怖くなり、またベッドに戻ってしまった。やがてママの泣く声が聞こえると悲しくなり、布団の中に潜ると両膝を抱えて大声で泣いてしまった。

 そのまま寝てしまい朝を迎えた。

 外からは明るい陽が射し、小鳥の囀りは部屋の中に音符となって音楽を奏でている。昨日の夜の出来事は、悪い夢を見たと思って急いで階段を降りた。

 いつも台所から聞こえるはずの料理のリズムが聞こえない。ママが食事の準備をするときに発する包丁とまな板が接する小気味いいトントンという規則正しい音のリズムは聞こえなかった。シーンと家中が静まり返っていた。

 パパがひとりで台所の椅子に座り、右手で髪の毛を掻き毟っていた。

「パパ、ママは?」

 わたしの声を聞いたパパは振り向き、そのまま両手で顔を覆った。

「ママは?」

 わたしはもう一度聞いた。

 パパは覆っていた手を顔から離し、わたしに手を差向けて言った。

「おいで、亜紀」

 わたしはパパの差し出す手に向かって躊躇いながら近づいていった。パパはわたしの手を握って静かに言った。

「ママは出て行った」

 わたしはパパの言うことがよく理解できずに、目をぱっちりと大きく開けてパパをじっと見つめた。

 わたしの強い視線から逸らさずに、パパは悲しい表情をしてもう一度言った。

「ママは出て行った。ママは有希を連れて出て行った。だからここには戻ってこない」

(ママと妹の有希に会えない)

 それが悲しくて「ママ!ママ!」と、わたしは大声を出して泣きじゃくった。パパはわたしを痛いくらいに強く抱いて、「ごめんよ、亜紀。パパが悪いんだ。許しておくれ」

 そう言いながらパパも身体を震わせていた。


 その時は、ママが有希と一緒に出て行った理由はわからなかった。なぜ別れなければならなかったのか、パパは何も話してはくれなかった。

 後から聞いたことだけれど、パパと別れたママは有希を連れて日本に行き、ママの実家がある横浜に移り住んだ。有希を育てていくためにも、すぐに働く必要のあったママは、大学時代の友達の紹介で輸入品を扱うお店に勤めた。その後、自分の語学力を試そうと面接を受けた大手商社に採用された。主婦業から社会に出て、隠れていた才能が一気に開花したようである。

 ママの誠実な対応と社交性が取引先との間に信頼関係を生み、多くの人脈ができると独立の勧めもあって新しい会社を立ち上げた。ママには才覚があったらしい。今では企業コンサルタントやバイヤーの仕事で世界中を回っている。

 ママはわたしやパパと別れて良かったのかもしれない。けれど残されたわたしが、どんなに母親のいない寂しさを味わったかをママは知らない。

 成長するにつれ、わたしはママのことを次第に忘れていった。というよりもむしろ、忘れようとするわたしの意志がそうさせた。

 こうしてわたしにとっての固有名詞だった「ママ」が消え、代わりの呼び名は「あのひと」という普通名詞に変わっていった。

 あのひとがいなくなり、シアトルの不動産会社に務めていたパパは、わたしのために会社を辞め、パパの実家のある東京の杉並に移り住んだ。パパは友人の紹介で、日本企業の不動産会社に再就職し、わたしは祖父と祖母のお陰でなんの不自由もなく、日本の生活に慣れ親しみ、日本の小学校と中学校を卒業した。

 わたしが高校生になった頃だった。パパの会社ではシアトルのクイーン・アン地域の土地開発プロジェクトが立ち上がり、パパに責任者としての赴任要請が来た。

 パパはわたしのことを考え、暫く考えさせてほしいと保留にしていたらしい。たまたまパパが祖父母に話しをしている時に立ち聞きをしてしまい、即座にわたしは「シアトルに帰ろう」と、自分の希望を伝えた。

 日本の生活にも慣れ、友達もたくさんでき、このまま日本に住み続けることもできたけれど、わたしにとっての故郷は日本ではなくシアトルだった。何よりもパパの本当の気持ちは、シアトルに戻りたいと思っていることを娘のわたしは知っていた。

 わたしが「シアトルに戻りたい」と告げたとき、祖父母の悲しい表情は今でも忘れられない。

 わたしとパパは再び渡米し、シアトルでの新しい生活が始まった。

最初はわたしを心配して、パパは家政婦を雇うつもりだった。高校生になったわたしは大人の自覚も出てきて、他人が家に入ることも好まなかったので頑なに拒んだ。

 結局、家政婦の話しはなくなった。

 パパの仕事が佳境に入り多忙を極めてくると、家に帰れない日もあり、ひとりで不安な夜を過ごすこともあった。

 そんなわたしを気遣ってか、久し振りに早く帰宅したパパが、近くのレストランに連れて行ってくれた。この辺りには、お洒落なカフェやブティックが続々とオープンし、週末になると食事に訪れる人で賑わい、ちょっとしたお食事スポットになっている。

 シアトルっ子と呼ばれる若者が、ロゴの入った紙コップやタンブラーを持って歩いている。スターバックスを始め、タリーズなどメジャーなカフェのロゴやシアトルにしかないシアトルカフェのカフェビータなど色とりどりのロゴが見られる。カップの大きさもレギュラーから大きなグランデサイズなど様々だった

 シアトルはレインシティと呼ばれるほど雨が多く、六月から日照時間が多くなり、今は季節的には過ごしやすい。エメラルドシティとも呼ばれ、空と海と緑の自然に囲まれた街は、アメリカでもっとも訪れたい街となっている。

「何が食べたい」と聞かれたので、少し考えてからシーフードの美味しいレストランをせがんだ。パパはその場で知っているお店に電話して席を予約した。どうやら知人がいるらしい。

 お店に入るとすぐに席に案内された。この席からは港が見え、停泊している白いヨットが見える。席に着くと、パパと過ごせなかった時間を埋めるかのように、わたしはおしゃべりし続けた。学校でみんなに嫌われている先生の話しや道端で十ドル札を拾ったことなど、パパには興味がないような話しだったかもしれないけれど、パパは注文した大ジョッキーのエールビールを飲みながら、わたしの楽しそうな話しを時には優しい目で微笑んで聞いてくれた。

「せっかくの料理だから、話す口はお休みして食べる口を動かしたらどうだい」

 わたしは、目の前にあるシュリンプカクテルから一尾取り、ケチャップベースのソースを付けて口に入れた。

「美味しい!プリプリしている」と言って、また手に一尾取り口に入れた。

「やはり若いだけあって食べっぷりがいい。ところで亜紀、パパはまた忙しくて家に帰れないときがまた増えそうだ」

 わたしは食べる動作を止め、手にしていたフォークをテーブルに置くとグラスに注がれているアイスティを飲んだ。

「わたしひとりでも大丈夫よ。家政婦はいらない」

「家政婦は頼まないよ。亜紀がしてほしくないことをパパは無理強いはしない。この間偶然にわたしの知り合いにあって、聞いたら住まいはご近所らしい。わたしがいないとき、時々気に掛けてくれるよう頼んだら喜んで引き受けてくれた」

「その知り合いって、女の人?」

「そうだよ。あ、そうか、亜紀はパパの恋人じゃないかと疑っているな」

「違うの」

「娘さんもいる」

「子連れだってあり得るわ」

「亜紀が結婚するまではパパは結婚しないから心配するな。ご近所だし、これからもしょっちゅう顔を合わせると思うから、一度会ってもらおうと思う。いいかな」

 わたしはパパの顔をじっと見つめた。怪しい素振りや落ち着きのない様子は見られなかった。

「いいわ」

「そうか。さっそく明日家に来てもらおう」

 

 翌日、わたしと年齢が同じくらいの娘を連れて日本人の女性が訪ねてきた。

 その女性はシンプルなショートボブの髪型で大人の色気を漂わせ、水色の縦縞が入ったスキッパーシャツ、アンダーに白いキャミソール、カーキー色のクロップドパンツを穿きファッションセンスが抜群だった。

 隣ではにかむようにわたしを見つめている娘も、白いトップスにミニ丈のデニムスカートを穿き、シンプルだけどお洒落に着こなしている。

 ふたりを見て、わたしはすっかり気後れしてしまった。髪形も服もみなセンスが良く、自信に満ち溢れている。

「亜紀、紹介するよ。こちらは榊原裕子さんとお嬢さんの有希ちゃん」

「こんにちは、亜紀です」

 幾分警戒ぎみにふたりを見て、軽く会釈した。

「亜紀さんですね。お父様から亜紀さんのことは窺っています。わたしは榊原裕子、ユウコと呼んで下さい。この子は有希。まだこちらに越してきたばかりで、この子にはまだ友達がいません。ぜひこの子の友達になって下さいね」

「こんにちは有希です」

 わたしとは違い、爽やかな声で挨拶した。活発な様子で、とてもチャーミングで可愛い。

「亜紀さん、わたし、前からお姉さんが欲しくて、だからお姉さんができたみたいで嬉しいです」

「わたしもずっと妹が欲しかったの」

 有希を見て、小さいときに別れた妹を想い出した。妹の名前も確か有希、同じ名前だ。

「これからはお姉さんと呼んでもいいですか」

「いいよ、でもお姉さんじゃなくて・・・」と言いかけると、すぐに「亜紀ちゃんでいいですか」を割ってきた。

「ええ、わたしは有希ちゃんと呼ぶね」

「有希でいいです。亜紀ちゃんはお姉さんですから。これから宜しくお願いします」と、嬉しそうにして会釈した。

「裕子さんには時々わたしがいないとき、有希ちゃんと一緒にきてもらおうと思うけれど亜紀、どうかな」

 パパが今日の本題に入ってきた。

「うん」

 わたしは少しばかり躊躇した。裕子さんを見て、気になることがあった。

(あのひとに似ている)

 わたしの様子を見て、裕子さんはパパに視線を送り頷いた。

「亜紀さん、あなたの考えていることを当てましょうか」

「えっ」

「これからわたしのことを少しお話させて頂きますが、亜紀さんにとってはとても衝撃的なことかもしれません」

「えっ」

 わたしは動揺し、パパを見た。この人と結婚するのではないかと直感的に思った。

「亜紀さん、あなた、わたしとあなたのパパが結婚するとでも思ったでしょう」

「えっ、違うのですか」

「違います!」

 否定の言葉を聞き、わたしは一瞬ほっとした。でも次に裕子さんから語られた事実にも驚きを隠せなかった。

「わたしは、あなたのお母さんの妹です。一卵性双生児だから似ているはずよ」

「あのひとの妹?」

 ママに、いえ、あの人に妹がいたなんて知らなかった。わたしはパパを睨んだ。

「亜紀・・・」

 パパの言葉を遮り、「パパ、どうして何も言ってくれなかったの。あのひとのこと、あのひとに妹がいたなんてわたしは何も知らなかった。それにパパはわたしがどんな気持ちでいたか知っているはずでしょう」

 わたしはパパを責めた。

「亜紀さん、あなたのお父様は、わたしのことを話すとあなたにきっと嫌な思いをさせると思って、だから何も言わなかったのよ。あなたは姉のことをあの人と呼んで、今も拒絶しているでしょう。だから会うまでは言わない方が良いとわたしが言ったの」

「どうしてですか」

 わたしは強い口調で裕子さんを睨んだ。

「わたしがママの妹と先に言われていたら、亜紀さん、あなたはわたしと会ってくれましたか」

「いいえ」

 わたしは首を振った。

「だから亜紀さんとは、先入観を持たせずにちゃんと話したかったの。わたしが今一番知りたいことは、亜紀さん、姉を今でも憎んでいるの」

「当たり前です。わたしを捨てたのですから」

「そうね。でも会ってみてわかったわ。あなたは、本当は姉を憎んではいないわね」

「そんなことはありません。わたしはあの人を恨んでいます」

 わたしは語気を強めて反論した。

「いいえ、憎むというより、あなたは姉に会いたがっている」

「そんなこと、あり得ません」

 わたしは頑なになっていた。

「亜紀」と、パパが心配そうな表情でわたしに言葉を掛けた。

「亜紀さん、ごめんなさい。あなたの気持ちも考えずに姉のことを持ち出してしまって、本当にごめんなさい。これからはご近所だし、わたしは亜紀さんと仲良くなりたいと思っています。もし私のことを許してくれなくても有希とは友達でいてください」

 わたしはどう返事をしていいかわからなかった。ただこの場から逃げ出したかった。

「亜紀ちゃん、亜紀ちゃんのお部屋を見たい。見せてくれる」

 有希の一言で救われた気がした。

「いいよ。行こう!」

 わたしは有希を連れて二階に上がった。

「今日はすまない。亜紀があんなに母親を憎んでいたなんて」

「いいえ、あの子は、本当は憎んではいないということがわかったわ。時間が必要ね。有希とはきっと仲の良い姉妹になれると思うから、わたしは徐々に距離を縮めていくわ」

「よろしく頼むよ」

「ええ」

 パパが裕子さんと話をしている間、わたしと有希はすぐに打ち解け、お互いに子供同士に必要な自己紹介も兼ねて情報交換をしていた。

「亜紀ちゃん」

「なに?」

「亜紀ちゃん、わたしのママは、亜紀ちゃんのママの妹で、亜紀ちゃんのママではないよ。だから別人だよ」

 確かに有希の言うようにその通りだ。裕子さんはわたしの母親ではない。それにわたしは心から母親を憎んではいなかった。むしろ裕子さんの言う通り、わたしは母親に会いたいとずっと思っている。そのことを指摘されて意地になってしまった。

「そうね。その通りね」

 叔母と従妹の出現によって、わたしには新しい生活が始まった。

 でもこの出会いが、わたしと有希にとっては、運命への扉だったことをこのときは知る由もなかった。

             

 猫がいつものようにやってきた。

 ぼくは猫を部屋に入れて、すぐにポケットに入っている紙片を取り出した。猫には申し訳ないが、興味の対象はまだ会ったことのない彼女に移っていた。

 奥深く仕舞っていた記憶は、特定のキーワードを聞いた瞬間に、自分の意思に反して発露するものなのだろうか。短い文章には、決して忘れることのない固有名詞が書かれていた。

「名前は、この子が自分で選びました。

 ユキです。

 いかがですか。お返事お待ちしています。

                森村亜紀」

 その固有名詞とは「ユキ」と「亜紀」という名前だった。

 有希が身体の不調を訴え検査入院したとき、付き添っていたぼくに有希が言ったことを想い出した。 たとえ検査入院でも、初めて病院のベッドで寝ることはかなりのショックだったに違いない。

 そのとき死をすでに予感していたのだろうか。


「達也、もしもよ、もしも何か重大な病気がわたしに棲みついていて、このままずっと入院しても直らなくて死んでしまったら・・・」

「おい、そんなこと言うなよ。ただの検査入院だろ」

「もしもの話しよ。ねえ、聞いて。そうなったら、あなたのことだから、ぼくはお前を決して忘れたりはしない、なんて言いそうなんだから。達也はまだ若いから、きっといい人が見つかるよ」

「有希、怒るぞ」

 ぼくは本気で怒っていた。

 有希はぼくが怒っていることをお構いなしで話しを続けた。

「わたしがもしこの世からいなくなったら、達也に相応しい素敵な人と出会えるように、わたしが演出してあげる。その人は、顔と性格はわたしに似ていて可愛いくて」

「普通、自分で可愛いなんて言うか」

 ぼくは呆れていた。

「じゃあ、わたしは可愛くないと言うの」

 彼女は、ぼくを睨んだ。

「いや、可愛いよ」

 真面目な顔で応えた。彼女は満足そうな顔をしている。

「わたしと同じくらい可愛い女性で、もう一回言おうか」

「いや、いい。可愛いよ」

「わたしと同じく可愛い女性で、身長もスリーサイズも同じくらい。太った女性は嫌でしょう。名前は、そう、あなたの苗字に会う名前、アキと言う名前、どう?」

有希は自分が死んだ後、ぼくの後添いになる名前まで勝手に決めてしまった。

「なぜ、アキと言う名前の人で、どういう字を書くの」

「アは、アジア。アジアを漢字で書いた亜、キは紀元前の紀」

「ひどい漢字の例だなあ」

「でもわかるでしょう。亜紀よ。ちゃんと覚えておいてよ」

「ああ、覚えておく。でも有希」

 ぼくは真面目な顔で有希を見つめた。

「なに?怖い顔して」

「名前は覚えておくけど、これだけは言っておく。ぼくは有希が好きだ。たとえ何かあったとしても、ぼくは有希を守るし、有希に出会ったことを感謝しているし、ずっと元気な有希と一緒にいたいし、絶対に有希は死なないし、・・・有希好きだよ・・・」

 ぼくの目には涙が溢れて、溢れた涙が頬を伝わった。

 有希は布団をはねのけてベッドから起き上がり、飛び込むようにぼくに身体を投げ出してきた。ぼくを両手で有希を強く受け止めた。

「達也、ありがとう」

 有希はぼくの胸に顔を埋めて身体を震わせた。お互い一旦身体を離すと、互いの目を見つめ合い、熱いくちづけを交わした。


 偶然とは言え、亜紀と言う名前の女性がぼくの前に現れた。ペットショップでは、有希本人ではないかと間違えてしまうほどよく似た女性とも出会った。

 別々に共通点のあるふたりの女性が、居住地域で短い期間に現れるなんて、こんな偶然はあり得るのだろうか。それとも以前有希が言っていた、有希の演出なのだろうか。

 何か悶々とした気持ちで、亜紀と言う女性に返事を書いた。

「この猫が自分で選んだのですね。

 ユキ、良い名前です。

 追伸

 亜紀さんについてもっと知りたいです。  

                鏑木達也」

 

 猫がやってきた。

 わたしはすぐに猫を抱き上げて部屋の中に入れた。猫を床に下ろすと黄色いポケットを開けて中に手紙が入っているのを確認し、その手紙を取り出した。

「鏑木達也」

 最後の名前を声に出し、手紙を読み終えるとユキに声を掛けた。

「ユキ、おいで」

 ユキは暫くの間きょとんとして、わたしをじっと見つめている。

 もう一度「ユキ!」と呼んだ。すると自分が呼ばれていることを認識したのか、ゆっくりと近づいてきて、わたしの手を舐め始めた。

「あなたの名前はあなたの希望通りにユキに決まり。今からあなたをユキって呼ぶね」

 わたしはユキの小さな頭を五本の指で頭を掻くように反復しながら撫でると、ユキは気持ち良さそうに目を瞑った。

 ユキだけでなく、彼はわたしにも関心を持ってくれている。そのことがちょっぴり嬉しかった。

「でも、何を書けばいいのだろう。これって自己紹介だ・よ・ね、ユキ」

 わたしはユキをちらっと見た。ユキは知らんふりして目を合わせない。

 長い文書は書けないし、端的にわたし自身を表現しなければならないと思うと結構難しい。

(年齢は書きたくないし、趣味かな。趣向、好きなもの嫌いなもの、家族構成・・・)

「ユキ、何を書けばいい」

 もう一度ユキを見て声を掛けてみたけれど、ユキは床の上で目を瞑り身体を伸ばして寝ていた。

「ユキは気楽でいいわね」

 妹の有希なら、「亜紀ちゃんは真面目過ぎるんだよ。わたしみたいに手を抜くこともしなくちゃ」と言うだろうな。

「有希、わたしちっとも変わってないね」

 手紙の返信を考えながら、有希のことを想い起こしていた。


 初めての出会いから、わたしは何のわだかまりもなく裕子さんと有希と接している。ふたりには、ある種の温かい懐かしさを感じた。裕子さんは、あのひと、いえママの妹だからかもしれない。

 裕子さんは、いろいろなことをわたしに教えてくれた。料理や手芸、日本の茶道や生け花までも幅広い知識を持っていた。わたしを娘の有希と分け隔てなくものを言う。

 だからママのことも、「あのひとと呼んではいけません」と注意されてからは、再びママと呼ぶようになった。

 有希も同じ十代で当然ながらジェネレーションギャップはなく、学校のことや音楽、日本にいたことなど共通点も多く、本当の姉妹のように毎日会っていた。

 有希はわたしを姉のように慕ってくれた。有希からも相談を受けたりしたが、彼女の相談は既に自ら答えを出している場合が多い。わたしは答えを出すのに迷うことが多く、有希に相談すると、有希は明快に答えを導いてくれた。

「亜紀ちゃんは真面目過ぎるからなんでも考え過ぎちゃうんだよ。もう少し気楽に考えたらいいのに。わたしはこうしよう!と決めるけれど、誰かに後押ししてもらったり、支えたりしてくれる人がいないとちょっぴり不安となるから確かめるために相談している」と、有希はわたしに言った。

 わたし達は音楽の趣味も似ていた。

 ジャンル不明のグランジ・ロックと呼ばれたロックが、1980年代にシアトルで生まれ、90年代に裸の赤子が水中で泳いでいるジャケットで有名な、空前のヒットとなったニルヴェーナの「ネヴァー・マインド」が、グランジ・ロックを確立した。古くはジミー・ヘンドリクスをシアトルは生み出している。もちろんわたし達もロックは嫌いではなかったが、グランジとは正反対の清流のように澄んだ歌声の曲を好んだ。ふたりが共通して好きな歌手は、カーペンターズだった。

 カーペンターズは、1970年代のわたし達が生まれる前の古い時代に活躍した兄と妹のポップス・デュオで、独自の音楽スタイルを確立しており、1970年代と言えばロックの黄金期で、米国出身のヴァン・ヘイレン、マウンテン、英国出身のディープ・パープル、レッドツェッペリン、ピンクフロイトなど伝説のロックグループが活躍をしていた年で、カーペンターズの人気は、ある意味異色だったかもしれない。

 有希がわたしの家に遊びに来たとき、彼女はラックに陳列されているCDを端からひとつひとつ人差し指で指しながら見ていた。

「ずいぶんたくさんあるのね。女性はアデル、ビヨンセ、レディ・ガガ、男性はボン・ジョビ、U2か、亜紀ちゃんはジャンルが広いね。あっこれ」

 有希は何か聴きたい曲を見つけたらしい。

「亜紀ちゃん、これ聴きたい」

 有希が手にしたのは「Twenty Two Hits of The Carpenters」と書かれているカーペンターズのベストアルバムだった。

「有希、ずいぶん古い曲だけれど、この歌手知っているの」

「うん、日本にいたときおばあちゃんが、このひとの曲が好きでいつも鼻歌を歌っていてそのうちわたしまでいつの間にか毎日口ずさんでいた」

「そうなんだ。わたしも大好きなの。何度聴いてもあきない」

「ねえ、今聴いていい?」

「うん、聴こう」

 亜紀は有希からCDを受け取った。プラスティックケースは、もう透明度が薄れ、いたる所に傷が付いている。中に入っているCDを取り出し、いつもの癖で盤に傷のないことを確認してから、白いデスクの上に置いてあるミニコンポに挿入した。

 哀愁漂う澄んだ歌声が、部屋中を包み込んだ。ふたりはベッドの上で仰向けになりただ静かに聴いていた。


 わたしはお気に入りのゲルインキボールペンを手に取り、「お会いしませんか」と書こうかどうか迷っていた。

 会いたい気持ちはあるけれど、わたしから言い出していいものだろうか。

「有希に“自分の気持ちを素直に書いたらいいよ”と言われちゃうな」

 わたしは書けない理由を、手紙の交換回数がまだ少ないとか、迷っているときは良い結果にならないとか自分に言い訳をしてしまい、今回は書くことを見送った。

「ユキは、名前を気に入っています。

 わたしは日本で生まれ、シアトルで育ちました。

 日本に来たばかりで、

 まだ慣れずに戸惑っている

 カーペンターズの好きなOLです。  

              亜紀」

            

 猫のユキがやってきた。

 ユキという名前が付いたことにより、猫との距離感が一気に縮まり、今まで以上に愛おしい存在となった。名前を持つということは、比喩的には市民権を得たということだと思う。ユキと言う名前を持った猫は、二次元の薄い存在から立体感ある三次元の世界にステージを移し、ぼくらと対等な存在となり更に身近な存在になった気がする。

 ユキが持って来た返信を見て、ぼくにとっては再び驚くべき固有名詞がそこには書かれていた。

「カーペンターズか」

 床の上に置いてある座布団に、気持ち良さそうに寝そべっているユキの上を静かに跨いで、ぼくはミニコンポのスイッチを入れた。

 カーペンターズのメロディが、部屋の隅々を満たすように静かに流れた。

 雨の日になると、ユキはいつもカーペンターズの曲を聴いていた。

「雨の日に、カーペンターズを聴くと悲しくなるの」と言って時折感傷的に浸っていた。

 ぼくはその謎めいた言葉の意味をずっと考え続けてきたが、いまだに答えを出せずにいる。亜紀と言う女性もカーペンターズの曲が好きだと書いてある。

 雨の日に強烈な出来事や想いが生じると、それが忘れることのできない記憶となり、その記憶は永遠に刻まれると言う。今となっては有希に聞くことはできないが、きっと雨の日に何かが起きたに違いない。


 有希とは付き合い始めてからすぐに同棲を始め、結婚してからも、夫婦というよりは友達に近い関係だったかもしれない。それでも結婚は陸上競技の白いスタートラインみたいなもので、静からラインを超えた瞬間に動へと移り、今までと世界が全く変わってしまう。そのスタートラインを越えるには、越えるなりにお互いを確認し合う儀式は必要だった。

 同棲を始めてからぼく達は若いせいもあり、夜の営みはほぼ毎日のように行ない愛を交わした。

 有希は毎夜猫のような甘えた仕草でぼくの布団に入ってくる。ぼくはその身体を包み込み、彼女の身にまとっている服を丁寧に剥いでいった。一糸まとわぬ姿になると、彼女は豹変し、今度はぼくの服を乱暴に剥いでいった。人間界のアダムとイブはベッドで上になったり下になったりして、激しく愛を交わした。互いに果てると暫くの間仰向けになり息を整え、呼吸が安定しお互いのアイコンタクトで確認し合うと、ぼくは有希の上に重なり、上から下へと静かにゆっくりと彼女の温もりを感じながら、もう一度彼女のなかに入っていった。

 月日を経て、ようやく性の飢餓状態から落ち着きを取り戻したぼく達は、ゆっくりと長い余韻に浸るようにお互いの愛を確かめ合うようになっていった。

 ふたりが一緒に住み始めて一年経った。営みを終えてふたりはベッドで抱き合ったままだった。お互いの心臓の鼓動や呼吸の息遣いが、相手の身体から伝わってくる。

「ねえ、達也」

 ぼくの胸に埋まっている有希のこもったような声に反応し、「なに?」と答えた。

 ぼくは身体を後ろにずらして、密着しているふたりの身体に僅かな隙間を開けた。

「このままわたし達一緒に死んだら幸せかな」

「うーん・・・不幸だな」

 有希が顔をあげてぼくの顔を見つめている。その顔の表情は怪訝な顔をしている。明らかに予想した答えと違っていたのだろう。

「わたし、良くなかった」

「最高だった。違うよ、このまま死んじゃったら幸せって聞くから」

「だって、なぜこのまま死んだら不幸なの。わたしは、今このままなら・・・幸せ」

「今死んだら、もう二度とできなくなるじゃないか」

「あ、そうか」

「もう一度、幸せになろう」

「ばか」

 そう言いながらも有希は、ぼくの身体にしがみついてきた。

 ぼくは有希を仰向けに倒し、その上から身体を重ねた。人間の性は何処まで深遠なのだろうか。飢えた動物の雄と雌のように貪欲な行為であっても、そこには恥じらいもなく、むしろ喜びを感じてしまい、昇ったり落ちたりして何処までいっても終わりがない。

 営みを終えたぼくは有希の髪の毛を撫でながら、「有希」と、声を掛けた。

「なあに」

「有希と一緒に住んで一年になる」

「うん」

 有希は顔を埋めたままだった。

「結婚しないか」

「・・・・」

「聞いている」

「・・・・」

「おーい、有希。聞いているか。ぼくは真面目・・・」

 ぼくの身体が激しく揺れている。ぼくが揺れているのではなく、有希が泣いていたのだった。

「有希?」

 有希は起き上がり、両手で顔を覆って泣いていた。

「どうして泣いているの」

「嬉しいの・・・」

 有希は両手で何度も涙を拭った。

「ごめんね、涙が止まらなくて。急に結婚しようなんていうからよ。でもこれは悲しいんじゃあなくて嬉しいの・・・達也が結婚しようと言ってくれたから嬉しくて。わたしは結婚なんか望んでいなかったし、好きだからただ一緒にいたいだけだったけど、一年も経つといつか別れが来くる・・・そんなこと考えていたらとても不安だった。また独りぼっちになるんじゃないかなって。だから・・・達也が結婚しようと言ってくれたから、なにか急に嬉しくなって・・・知っているでしょう、わたし、こんな弱虫じゃない・・・」

 有希はまた顔を両手で覆って大きな声で泣いた。

「有希!」

 ぼくはいつもと違う有希を見た。有希をとても愛しくなった。裸の有希を思い切り抱きしめた。有希もぼくを抱きしめてきた。少し前に営んだ行為よりももっと激しく愛を確かめ合った。

 これがふたりの儀式だった。


 結婚するためには、ぼくは有希を両親に会わせなければならない。本来なら先に有希の母親に会うべきだとは思ったが、母親はシアトルにいるので、すぐには会いには行けなかった。それに有希はぼくの両親に会ってから母親に話すとは言っていたが、母親とは何か理由があり疎遠になっているようだ。だから有希の母親は、愛娘がぼくと結婚することをまだ知らないでいた。

 ぼくの両親は有希を気に入ってくれるとは思うが、問題は結婚式である。

 ぼくの両親の住む新潟では、場所によっては今もって町内を部落と言う言葉を使い、狭い世界のコミュニケーションを形成しており、親戚同士の絆が強い。ぼくの父は転勤の多い会社に勤め、ようやく安住の地を母親の実家に近い場所に決めて家を構えた。そのとき父の年齢は五十歳を越えていた。両親とも比較的新しい考えの持ち主であり、結婚観にしても古い概念に固執しないだろうと期待はしている。身内の少ない有希のことを考えると、親戚を呼んでお金を掛けての大げさな結婚式は挙げたくはなかった。

 レンタカーを借りてふたりで新潟まで行くことにした。地方のローカル線は電車の本数も少なく、待ち時間も長い。バスも一時間一本あるかどうかで、結局タクシーを使わないと動き回れない。

 東京から新潟まで関越道を通って車を走らせた。有希は見るものすべてが珍しく、途中の寄居のサービスエリアに星の王子様のエリアがある話しをしたら、「見たいのに、どうして下りのサービスエリアに星の王子様がないの。それにどうして星の王子様が寄居にいるの。星の王子様の著者はフランス人サン・テグジュペリよ。ここは日本でしょう」としつこく聞いてくる。関越トンネルの長いトンネルでは「このトンネルはずっと夜だね」とつまらなさそうに言い、ぼくにとっては一番つまらない田畑の風景を見て感動をしていた。

 関越道入口の大泉インターチェンジから四時間、昔は鉄道で繁栄したらしいが今ではシャッター通りとなった旧新津市内の繁華街に入り、あと十五分程で実家に着く。さすがに有希も緊張は隠せず、実家に近づくにつれ無口になった。

「緊張している?」

「うん、少し」

 今まで賑やかに振舞っていた様子からは、想像できないほどおとなしい。

 ぼくも実家に帰ってきたのは一年振りだった。門構えのある懐かしい家の前に車を停めエンジンを切った。ぼくは車を降りると後ろのハッチバックを開け、着替えの入った鞄やお土産を持って玄関に向かった。ぼくの歩く速度が少し早いのか、その後を有希が小走りでついて来る。ぼくも緊張していた。

「ただいま!」

 戦闘開始のゴングが鳴った。すると待ち構えていたように両親が出てきた。

 母は息子のぼくを無視して有希に声を掛ける。

「疲れたでしょう。びっくりしたんじゃない、こんな田舎だから。さあ、早くおあがりなさい」

「初めまして、わたし、有希、榊原有希です」

「挨拶なんか後でいいから、有希さん、早くおあがりなさい」

「あっ、はい」

 有希は勝手が違ったらしい。ぼくの顔をチラッと見て微笑んだ。少し緊張が和らいだようだ。ぼくは父を見た。父がにこやかな表情をしている。ぼくにとって父は、小さい頃から厳格な人であり、その厳しい躾のせいかひとりっ子なのに、自分を紹介するときにひとりっ子と言うと誰も信じてはくれなかった。その父が有希を見て微笑んでいる。意外な一面を見たと同時に、父に老いの姿を見たような気がした。

 ぼくと有希はすぐに着替え、有希は夕飯の用意をしている母のいる台所に行き手伝おうとしている。母は「疲れているでしょうから、座っていて頂戴」と言っているようだったが、台所から出てこないところをみると料理の共同作業をしているらしい。そのうちに笑い声が聞こえてきた。

 ぼくと父はテーブルに座り、妙な緊張感漂うなかで当たり障りのない会話を交わしていた。父は仕事で長期に渡って地方に出掛けていることが多く、ぼくが母と過ごした時間と比べたら、父との時間は極端に少ない。幼少の頃の父との楽しい想い出は、怖いイメージが植え付けられて想い浮かばなかった。

 父がすっと立ち上がり、押入れを開けると手には一升瓶が握られていた。瓶のラベルには、ピンク色の字で「黒村祐」と書いてある。

 「村祐」は、新潟市小須戸町にある新潟県下で一番小さな酒蔵「村祐酒造」で作られ、個性的で上品な甘さが東京でも好評を得ている。生産量が少ないためなかなか手に入れにくい日本酒のひとつになっている。特に「黒村祐」は値段も高く、殆ど入手することはできない。

「おまえが来るから開けずにおいた」

「おっ、黒村祐か。よく手に入ったね。今呑むの、冷やした方が美味しいよ」

「あの様子じゃ、夕飯はまだ先になるだろう。それにこの押入れは冷蔵庫と同じでよく冷える」

 父は台所の方をちらっと見て言った。台所からは、有希と母の楽しげな会話が、時折笑い声が混じり聞こえてくる。ぼくは透明な日本酒用のグラスを茶箪笥から出しテーブルに置いて、「このままでいい?」と父に聞いた。父が頷いたので、一升瓶の蓋のつまみを起こしてからいっきに冠頭を取った。中栓をゆっくり外し、父に酒を注ぎ、それから自分のグラスに注いだ。

 形式的にグラスを目の前に出し、乾杯のジェスチャーをしようとしたら、父がぼくのグラスに自分のグラスを近づけてきた。「カチン」と、小さな音とともに父はグィと水みたいに呑み、グラスの透明な液体は半分近くなくなった。

 今日の父はいつもと違い、見たことのない一面をぼくに晒している。

 ぼくは口に一旦含み酒の余韻を楽しんだ。

「うん、冷えていて美味い」

 黒村祐独特の和三盆糖のような品のよい甘さが口一杯に広がる。

「いい子だ」

「えっ」

 不意に有希のことを言われ戸惑った。

「有希さんだよ」

「ありがとう」

「おれは娘がいないからわからなかったけれど、家の中が明るくなる」

「まあ、男のぼくはではパッと明るくはなりにくいけれどね」

「式はいつあげるんだ」

「そのことなんだけれど・・・」

「ああっ、もうお酒呑んで酒盛り始めている。ずるーぃ」

 有希が夕飯の料理を持ってきた。

「いや、有希さんに台所を手伝わせて、わたし達だけで呑んでいるなんて面目ない。ごめんなさい」

 父は素直に頭を下げて謝った。

「いいえ、そんな」

 有希は料理を置くと右手を振りながら恐縮し、困った表情をしている。それから母も料理を持って来て、呑んでいる父とぼくに強制的に配膳を手伝わせた。

 一通り料理を並べ終えると母が有希に言った。

「田舎料理だからたいしたことはできないけど、遠慮しないで食べてね」

「はい、ありがとうございます。東京にもアメリカにもない料理ですし、作り方も教わりましたので、今度作ってみます」

「じゃあ、食べようか」と父が言った。

「お父さん、その前にちょっといいかな」

 父は持っていた箸をテーブルに置いた。母と有希はぼくの顔を見た。

「まず、ぼく達は結婚したいと思っています。その報告をしに今日は来ました」

「有希さんは、本当に達也でいいの」

 母は有希に聞いた。

「はい」

 有希はぼくを見てから力強く答えてくれた。

「だったら問題はないわよね。お父さん」

「ああ、有希さん、達也を宜しくお願いします」と頭を下げた。

「いいえ、わたしこそ宜しくお願い致します」

 有希も深々と頭を下げた。

「それで式のことなんだけれど、実は親戚を呼んでの結婚式は挙げず、ふたりで落ち着いてから、余りお金を掛けずに挙げようと思っています。有希はアメリカに長く住んでいて日本には親戚がいないし、お母さんも今はアメリカにいて世界中を廻っているので、有希の肩身の狭くなるような式は挙げたくないと思っています。お父さんとお母さんにはそこをわかってもらいたくて」

「わたしは構わないよ」と父が言った。

「わたしもよ」

 母も言ってくれた。

「最近はふたりで海外に行って、そこで結婚式を挙げる人も多いと聞いているし、今は昔みたいに親戚をたくさん呼んでお金を掛けるような時代じゃないしな」

 父の言葉に続いて、「わたしは有希さんが良ければ、それでいいと思うわ」と母が言った。

「はい、できればわたしもふたりで挙げたいと思っています。すいません」

 有希はまた深々と頭を下げた。

「結婚はふたりが決めることだし、わたし達のことは気にしなくいていいから、思い通りにすればいい。ところで達也、有希さんのお母さんには話したのか」

 父が聞いた。

「これからなんだ」

 ぼくは短く答えた。

「そうか、早い方がいいな」

「うん」

 父はぼくの素っ気無い応え方で、何か悟ったような気がした。

「さあ、食べましょう。冷めちゃうわよ」

 この母の一言で話しは終わり、有希と一緒に実家に来たぼくの目的は達した。

 最初のうちは有希も緊張した面持ちでぼくの両親に会ったけれど、初日から母と打ち解け、有希はぼくの両親からは随分と気に入られたようだ。

 翌々日の昼過ぎに実家を後にしたが、両親は車が見えなくなるまで手を振って見送ってくれた。有希も窓を開けて、いつまでも手を振っていた。

 両親の姿が見えなくなると呟いた。

「達也のお父さんとお母さん、達也に似ていい両親だね。わたし、一昨日から娘になっちゃった」

車が関越道に入ってから、暫くして有希は鼻歌を歌いだした。「ふふ、ふふ」と、にこやかに想い出し笑いを始めた。

「何か良いことでもあったのか」

 運転をしているぼくは、助手席の有希を見ずに真っ直ぐ前を見ながら有希に聞いた。

「達也のお母さんが、わたしのこと美人だって。可愛い美人だって。新津にはいないって言ってくれたの」

「良かったな」

 ぼくは素っ気無く言った。

「タ・ツ・ヤのお母さんは、わたしをカ・ワ・イ・イと言ってくれた」

 さっきより、声が大きくなっている。ぼくに母と同じようなことを言わせたいと思っている。

「有希!」

「なあに」

 期待している返事だ。

「ブス!」

「えっ、ひどーい!」

 こうして緊張感から開放されたぼく達は、関越道にある二ヶ所のサービスエリアに立ち寄り、寄居の星の王子様を見てから家路に向かった。

 ぼく自身はまだ有希の母親に会っていないので、このまま結婚式を挙げることに躊躇している。父からは「早い方がいい」と言われたが、有希と母親との間に何があったかはわからないが、有希は母親には伝える意思はないように思える。

 半年後、ぼくと有希はふたりの共通の友人に立会いをお願いして、グァム島で結婚式を挙げた。

             

「カーペンターズは、ぼくも大好きです。

 雨の日にカレン、

 彼女の曲を聴くと悲しくなりますか。

 変なことを聞いてすいません。 

               達也」

 わたしはユキが運んできた手紙を読んだ。

 奇妙な内容の手紙だった。

 カーペンターズのヴォーカリストであるカレンの歌は、素直な歌い方でリズム感が良く、ビブラートが綺麗で美しく曲を響かせている。彼女の歌を雨の日に聴いて、今でも昨日のことのように想い起こす出来事が、わたしにはふたつあった。

 ひとつは、女の子なら誰しもが経験するだろう失恋のとき。

 わたしがまだ中学生の頃で、それは初恋だった。テニスクラブの先輩に憧れ、ふたりでデートしたこともあり、わたしは彼にとっては特別な存在だと思っていた。しかし彼は、あくまでわたしを妹としてしか見ておらず、彼に新しい彼女ができたことを知ると、雨の中を泣きながら家に帰り、ヘッドホンで外部の音を遮断して、音楽を一日中泣きながら聴いていた。そのとき聴いていたのがカーペンターズだった。

 青春の甘酸っぱい恋の出来事は、今思うと気恥ずかしくなる。

 もうひとつは、有希との喧嘩だった。そのときの別れが最後となり、有希には二度と会うことができなかった。

 でも今は、その時のことを想い出したくなかった。

 わたしは一筆箋に返事を書いた。

「カーペンターズは好きですけど、

 雨の日に聴くと、わたしも悲しくなります。

 ちょっと悲しい物語を想い起こしてしまいます。 

                     亜紀」

 

 返事を受取り、そろそろお互いに会うときが来たのかもしれないとぼくは思った。

 まだ見ぬ亜紀という女性と会うことになれば、恐らくふたりの情報手段はスマホやラインとなり、ユキを介してのユキの郵便配達は終わってしまうだろう。ユキが運んでくる手紙は、メールやラインで交わすコミュニケーション手段と比べたら、超が付くほどのアナグロだ。いつ来るのかも分からないもどかしさはあるが、待つ楽しみがそこにはあった。

 ユキは台所でミルクを美味しそうに舐めているが、野良猫であるユキにこれから先何が起こるかわからない。ぼくはユキを野良猫としてではなく、家猫として飼おうと思った。

 外を見ると、いつのまにか小雨が振り出していた。

 手紙に『雨には悲しい想い出がある』と書いてあったが、ぼくにも悲しい想い出がある。

 あの日の雨の出来事はとても辛く、決して忘れられないものだった。

 時折降る冷雨は、今でもぼくに対して残酷な仕打ちをするかのように、悲しい想い出を運んでくる。


 有希の父親は有希が幼少のときに亡くなり、有希は母親ひとりで育てられ、現在母親は米国シアトルに住んでいると聞かされていた。有希が母親と会うことを頑なに拒んでいたこともあり、今もって有希の母親には結婚をした報告もしていなかった。

 有希と母親の間に何があったのかはわからない。

 その理由について一度だけ聞いたことはあるが、上手くはぐらかされてしまった。母親とは軋轢が生じているらしく、有希は母親のことは話したがらなかった。

 ぼく達の結婚式は親しい友人ふたりが見守るなか海外で挙式し、その後披露宴に多くの友人を招いて横浜中華街の老舗で行なった。

 母親も含め有希側の親戚は誰ひとり呼ばず、結果として母親をないがしろにしてしまった。当然のことながら、有希の母親はぼくのことを気に入ってくれるはずはなく、後で大きなしっぺ返しを食らうこととなった。

 ぼくと有希は結婚したが、籍は入れてなかった。

 籍を入れない理由は、一年掛けていろいろな結婚行事を済ませてから入れようと、有希が言ったからだった。結婚式、結婚披露宴、新婚旅行、入籍、これら行事を三ヶ月置きに同じ日に行なっていき、すべて完了させて最後に入籍をする手筈だった。今思えば、入籍をできるだけ先延ばしにした本当の訳は、既に有希は自分の病気について気付いていたのかもしれない。

 有希が亡くなる前、病院で始めて有希の母親に会った。

 有希に似て、社交的で綺麗な女性だった。

 結婚の報告をしなかった今までの非礼を詫びたが、母親の怒りは収まらず、勝手に結婚式を挙げ、一緒に暮らしていながらまだ入籍もせず、病気にも気付かなかったぼくに対して「娘はあなたに殺されたも同然ね」とまで言われた。

 言葉で責められるのは覚悟の上で我慢はできたが、たとえ有希の母親であっても、彼女は到底許すことのできない行動に出た。

 ぼくのいない間に知り合いの病院に有希を転院させ、ぼくには転院先も知らせてくれなかった。有希が亡くなったことを知ったのは、母親が葬式を済ませてしまった後からだった。

 突然ぼくのスマホに、有希の母親から電話が入った。

「この電話番号は有希から以前聞きました。有希は亡くなり、今日有希の葬式を済ませました。あなたには一言御礼を言わなければと思い、電話をさせて頂きました。今まで有希を支えてくださりありがとうございました。あなたもお元気で」

 電話は一方的に切れた。

 ぼくはスマホを耳から離すことができず、ずっとその場所に立ちすくんでいた。

(有希が死んだ?もうこの世にいない。嘘だ!)

 有希の母親が、ぼくと有希を引き離すために嘘をついているに違いない。

 ぼくは以前有希が入院していた病院に向かった。その病院では転院先を何度も懇願しても教えてくれなかった。有希の母親から強く言われていたらしい。

 病院に着くと二階のナースステーションに行き、有希の転院先を教えてほしいと頭を何度も下げ泣きながら訴えたが、誰も答えてくれなかった。

 眼鏡をかけ婦長らしき年配の女性が出てきて、ぼくに冷たい視線を向けながら言った。

「ご家族から誰にも話さないようにと、きつく言われておりますので教えることはできません」

「ぼくも家族です。夫です」

「存じています。その上でお話しを差し上げています」

「有希は亡くなりました」

「えっ、お亡くなりになったのですか」

 少し驚いた表情をした。

「ええ、いつ死んだのか、そして何処にいけばいいのか、どうしていいのかわからないのです」

ぼくはナースステーションの白いカウンターに頭を付け両手で頭を抑えた。するとぼくの耳元に、誰にも聞こえないような小さな声で婦長が囁いた。

「港区にある・・・・病院」

 ぼくは顔を上げると、婦長はカウンターから離れていた。

 ぼくは頭を深々と下げて、脱兎のごとく一階に駆け下り、病院前に止まっているタクシーに乗り込み、行く先の病院名を告げた。

 空は灰色の雲が覆い、今にも雨が振り出しそうな空模様だった。

 

 路面を叩きつける強い雨が降っている。

 傘がなくてもその雨に躊躇することなく、ぼくは病院の外に出た。

 たちまち雨がぼくを襲い、たっぷりと水を吸い込んだ服は肌に吸い付き、純白な白が透明な白へと変わっていった。

 転院先の病院を訪れたが、有希の死を現実のものとして受け止めただけだった。有希の死に立ち会えなかった罪悪感が襲い、同時に有希の母親を恨んだ。

 どうしても有希の死を受け入れられなかった。

 何処を歩いているのかわからない。雨の中をこうして歩いていると、有希が後ろから走ってきて「濡れるよ」と、傘を開いてくれるはずだ。

 ぼくは後ろを振り返った。

 傘を持った有希がいた。

 ぼくは有希に聞いた。

「どうして傘を持っているの。天気予報では雨が降るとは言ってはいなかったのに」

「わたしは優秀な予知予報士よ」と言った。いや、そう言うはずだ。

 有希の姿はもうなかった。

 ぼくは周囲をきょろきょろと見回したが、有希の姿は何処にも見えなかった。

「有希!」

 ぼくは空に向かって大声で叫んだ。

「さようならなんか言えないよ」

 ぼくは小さく呟いた。

 雨音が激しくなり、大粒の雨が容赦なくぼくに襲いかかった。


 ぼくは付箋を取り出して、いつものように短い文章を書き、連絡先を書き足した。

「一度お会いしませんか。

 ぼくのスマホのアドレスと電話番号を書いておきます。

 090 *** ****

 Tatsuya@*** **** ****」

 いつものように、ユキの首輪に付いている黄色いポケットに手紙を入れた。このポケットも汚れが目立ち、所々が黒くなっている。新しいポケットを買ってあげようと思ったが返信の内容いかんではもう必要はないかもしれない。

 ユキは振り返って、ぼくを見てからベランダの窓ガラスに目をやった。ユキが言わんとしていることを察すると、すぐに立ち上がりベランダの窓ガラスを開けた。

 ユキはゆっくりと外に出て行った。

             

 わたしはユキが配達してくれたいつもの彼からの手紙を見ていた。そこには、スマホの電話番号とアドレスが書いてある。書かれていた電話番号とアドレスをスマホに登録したが、自分の連絡先を教えるべきか迷っていた。

 冷静になって考えると、まだ会う時期ではないような気がしている。

 わたしには有希との約束が重くのしかかっており、その約束を果たしてからにしようと思った。なぜなら最近夢にまで有希が現れ、有希から「早くして!」とせがまれているような気がして落ち着かない。こんな気持ちのままでは会わないほうが良いと思った。

 もしわたしの連絡先の電話番号とアドレスを返せば、恐らく彼から連絡をくれるに違いない。そのときは会うことを拒めないと思う。でも連絡先を書かなければ、会いたくないと受け取られてしまう。

 短い手紙の中に、自分の想いを正確に伝えるのは難しい。限られた字数で自分の考えや気持ちを表現したとしても、説明足らずで自分の意思とは反対に相手に誤解を与えてしまうことがある。逆に書かなかったことにより、相手に悪い方への想像をさせてしまい、さらに誤解を招いてしまうこともある。

「どうしよう、ユキ」

 わたしはユキを抱き上げて困った表情を見せた。ユキは興味なさそうに、わたしと視線を合わせない。 

「わかったわ、自分で考えろということね」

 ユキは「そうよ」と言いたげに、わたしの方に顔を向けて顔をペロペロと小さなピンク色の舌で舐めた。

 そんなユキを見て、人の心を読める不思議な猫だと思った。だからふたりの間を行き来し、手紙を配達してくれているのかもしれない。

 わたしはユキの手紙の配達に心配をしていた。それはユキが野良猫だからで、車やバイクが行き交う交通量の多い道路を渡ったり、腐った食べ物や小動物の糞などが落ちている狭い路地を歩き、人間の多い公園に行ったりもしている。だから車に轢かれたりはしないか、お腹をこわしたり他の野良猫や鳥に苛められたりはしないか、人間の子どもに追いかけられたりはしないかと。

 そんな心配をするくらいなら、このままこの家から出さないで飼猫にしてしまおうと思った。

「ユキ、そろそろわたしと一緒に暮らさない」

 ユキはわたしの顔をじっと見ている。すぐに顔を背けると、身体を伸ばして下りたい仕草を見せた。 

 わたしはユキをゆっくりと床の上に下ろした。ユキは出口に向かったが、窓が閉まっているので振り向いて「にゃあ」と鳴き、わたしに「開けろ」と言っている。わたしはわざと無視をしてユキの様子を見た。

 ユキはもう一度小さな声で鳴きながらガシャガシャと扉を引っ掻いてわたしを見る。

 わたしはユキに近づき、もう一度言った。

「ユキ、もう外での生活をやめて、ずっとわたしの家にいない?」

 ユキはわたしの声を無視して、鋭い爪でガラス窓を引っ掻く。そのうち上下の運動も激しくなり窓枠も傷だらけになった。

「わかったわ」

 わたしが扉を開けると、ユキは一目散に外に出て行った。

なぜユキは野良猫の道を歩んでいるのだろう。あんなにおとなしい猫だから、以前は家に飼われていたと思う。それなら、また飼われても問題はなさそうなのに。

 でも、それは人間の勝手な解釈なのかもしれない。

(きっとユキには、何か理由があるのだわ)

 わたしは心配ではあるけれど、無理強いすることは止めて、ユキの好きなようにさせようと思った。

 ひとまず彼への返事は保留にしよう。わたしのせいで今日の郵便配達業務を休ませてしまったのだから。


 ユキは達也の家に向かっていた。

 途中、神社の境内を横切ろうとしたときに、あまり見かけないオレンジブラウン色の毛色に焦げ茶の縞模様が入った大きな体型の茶トラの雄猫が見えた。ユキは無視して足早に通り過ぎようとした。その茶トラ猫はユキを見つけると、一目散にユキを目掛けて近づいてきた。

 ユキは立ち止まり、迫ってくる茶トラの雄猫に対し恐怖を感じた。ユキの耳は後ろに伏せるように傾き、警戒態勢を取った。

 茶トラ猫はユキの間近に迫ると一旦立ち止まり、ゆっくりとユキに近づいてきた。ユキの尻尾はフサフサと膨らみ、毛が逆立った状態になった。目を吊り上げて威嚇の表情でシャツと音を出す。茶トラ猫は動じた様子もなく、ユキの様子を窺っている。少しずつ弧を描くようにゆっくりと回り、次第にその距離を狭めてくる。ユキは背後に回られないように低い姿勢を取りながら攻撃に備えた。

 茶トラ猫はもうすぐ自分の間合いに入り、まさに飛びかかる瞬間だった。

 その瞬間、ユキの前に黒い影が現れ、真正面から茶トラ猫を襲い、鋭い爪で左目を引っ掻いた。突然の出来事で茶トラ猫は怯み、顔から血が滲み出ている。黒い影はアメリカンショートヘアーの雄猫だった。銀色の毛を持つ雄猫は、ユキをいつも遠くから見守っていた。

 ユキが神社に向うのを見た雄猫はユキの後を追った。ユキが茶トラ猫に襲われそうになったので姿を現したのだった。

 不意に攻撃を受けた茶トラ猫は体勢を整えようとしたが、ユキも雄猫に加勢し、二匹の猫は茶トラ猫に向かって攻撃を繰り返した。左から銀色の猫が威嚇し、茶トラ猫が向きを変えると、今度はユキが右から攻撃し、ユキを襲おうと茶トラ猫が向きを変えると今度は雄猫が左から攻撃をする。二匹の絶妙な攻撃パターンに、体型の大きな茶トラ猫も一目散にその場から立ち去った。

 茶トラ猫が遠ざかるのを見届けると、ユキは銀色の雄猫に近づき身体を舐めた。

 互いに「にゃあ」と鳴きながら身体を寄せ合った。

 それから二匹は並んで境内を後にした。

             

 最近、わたしは誰かに見られているような気がしていた。

 特に帰宅時に強い視線を感じる。会社のある銀座線日本橋駅から赤坂見附で丸の内線に乗り換え、荻窪で下車し、バスに乗って帰宅する。地下鉄構内で何度か振り返っても、誰もわたしを見つめているような不審者はいなかった。

 アメリカは場所によっては危険な犯罪地域は多々あるけれど、日本は治安も良く、人の近づけない場所はあまり見当たらない。東京の欠点は、予想以上の朝のラッシュや終電時間の混雑であり、かなりのカロリーを消費してしまう。

 日本にまだ慣れないせいもあり、ストレスを抱えた日々を送っているため、多少過敏になっているのだと思った。気になるので、通勤ルートを変えて見た。しかしルートを変えた三日後に、また同じような強い視線を感じた。

 わたしは勤務時間内に仕事をこなし、残業はせず極力定時であがるようにしている。日本の企業は、残業することがまるで美徳みたいに夜遅くまで仕事をしていることが当たり前になっており、遅くまで仕事をする人ほど評価が高い。非効率で生産性の悪い人が評価される理由が、わたしには不可解だった。最近では、「働き方改革」の取組みをしている企業も多いが、グローバル企業は海外時差などもあり、改革に至るまでにはまだ時間が掛かりそうだ。

 月に何度かは期限付きの仕事がある場合は残業をするが、遅い退社のときも、誰かに見られているような気がするので、時間帯には関係なさそうである。退社時間が近づくと憂鬱になり、また帰宅途中の緊張感からか極度にストレスが溜まっている。

 今日は残業で遅い帰宅となり、疲れた足取りでアパートに着くと、入り口にある郵便受けを開け、中に入っている手紙やはがきを手に取り部屋に入った。郵便物をテーブルの上に置いたとき、気になる封筒が目に入った。その封筒は長三の茶封筒で宛名が書かれておらず、切手も貼っていない。その封筒を手に取り裏を見たが何も書かれていなかった。封入口のフタは糊で隙間のないほどぴたっと貼り付いている。

 わたしは台所に行き、キッチンカウンターの引出しから食用バサミを取り出し、その封筒の上部を切った。中を覗くと白い便箋が入っている。三つ折になっている便箋を取り出して開いた。

「なんなの、これは」

 わたしは便箋をテーブルの上に放り投げた。便箋には稚拙な字形で、大きく赤い文字が書かれていた。

「毎朝飲むスターバックスのカフェラテ、

 おいしいですよね。

 ぼくはあなたをいつも見守っています。」

 わたしはじっと醜悪な手紙を見つめた。

(どうしてこんな手紙を書けるの。この手紙を書いた人は、わたしに一体何をしたいの)

 わたしは手紙を手に取り破り捨てようとしたが思い留まり、バッグから青色のボールペンを取り出すと、触るのも嫌だったが、汚い字の横に大き過ぎず小さ過ぎずの大きさで文章を書いた。

「今すぐ止めて下さい。

 恥ずかしいとは思わないのですか。

 これ以上続いたら、警察に通報します。」

 手紙を戻し封筒をホチキスで止めるとその封筒を持って玄関に行き、扉を静かに開け、扉の向こうに誰かいないか確かめた。人の気配を感じなかったので正面玄関まで急いで走り、郵便受けに先程受け取った手紙を元に戻した。何度も首を左右に振って周囲を確認し、投函し終えるとすぐに部屋に戻った。

 ユキが運んでくる幸福の手紙もあれば、こんな悪魔のような手紙もある。わたしが何をしたというのだろう。日々の平穏な生活の中に、邪悪な意思を持った他人が、自分の幸せの領域に介入してくることは許せないと思った。同時にある怖さをも感じた。

 一睡もできないまま朝を迎え、わたしはいつもの時間に家を出た。郵便受けの中を確認したが封筒は昨日のままだった。


 亜紀が自宅から遠ざかるのを見届けると、男は郵便受けから茶封筒を取り出してホチキスの止まっている箇所を無造作に破った。便箋に書かれている文章を読むと笑みを浮かべて、亜紀と同じ方向へと歩いていった。

             

 ユキが彼氏を連れてきた。

 いつもと違う「にゃあ、にゃあ」「にゃあ、にゃあ」の二重奏の鳴き声を聞き、ぼくは不思議に思いながらベランダの窓ガラスを開けた。そこにはユキとボーイフレンドなのだろう、シルバーカラーの雄猫と一緒に行儀良く座っている。

「ユキの彼氏か。ユキもなかなかやるな。さあ、おいで」

 ユキはいつものようにぼくの部屋に上がり込んでくるが、彼氏は警戒してじっと同じ場所に座っている。

 ユキが「にゃー」と強く鳴くと、彼氏は警戒しながらぼくの部屋に入ってきた。

 猫の世界も女性が強いらしい。

「おや」

 よく見るとふたりの猫には傷があり、薄く血が滲んでいる。見たところ深い傷ではないようなので、薬や救急用具の入っている書棚の引出しを開けて、中から脱脂綿を取り出した。台所に行き、水道の蛇口から水を少し出し、脱脂綿を濡らした。

 濡れた脱脂綿で先にユキの傷を拭き、それから新しい脱脂綿で彼氏の傷を拭こうとすると彼氏が「フゥー」と威嚇する。ここでもユキが「にゃあ」と一喝すると、彼氏は少し嫌そうな表情をしていたがおとなしく拭かしてくれた。

 ユキに尻を敷かれている雄猫を見て、なんとなく自分を見ているような気がして親しみが湧いた。ぼくも有希の尻に敷かれていたから。


 有希はぼくより四歳年下だった。

 家庭に入ると女性が主導権を握るものらしい。ぼく達の場合も例外はなく、有希が家の主だった。料理を作る台所は女性の領地であり、食器の位置、冷蔵庫の中の食材、棚の調味料など完全に支配している。やがて掃除機を持って女性の領地拡大を図ってくる。

「はい、邪魔。どいてくれる」

「机の上は片付けて!」

「床の上には物を置かない!」

 そのうち、机の上に出しっぱなしにしていた愛用のボールペンや小物類が棄てられ、インテリアや家具、家電などすべて彼女の好みに変えられてしまい、家の中は完全に支配されて男の領地は失われていく。

 ある意味その方が楽であり、戦ったところで勝ち目のないことはわかっている。軍隊でも食料や物資の補給路を遮断されると戦闘意欲は徐々に失われていく。

 ぼくと有希は友達感覚の夫婦ではあったが、やはり有希を中心に家庭は回っていた。

 有希が入院して家にいなくなると、部屋は閑散として家全体が人工的な素材に囲まれた空虚な空間となり、木の素材できた床も家具も次第に温もりが失われていった。

 ぼくは淋しさを知った。

 有希は独りぼっちの淋しさを、ずいぶん前から知っていたような気がする。

「達也、お父さんの誕生日は5月15日で、お母さんの誕生日は12月1日だよね」

「そうだったかな」

 今まで親の誕生日にプレゼントをしたことはなかったので、急に誕生日を聞かれても、すぐに答えることができなかった。

「親不孝ね。もうすぐお母さんの誕生日でしょう。これから買いに行こうよ」

「これから・・・行くの?」

「ぐずぐず言わない。すぐに着替えて買いに行こうよ」

「有希のお母さんの誕生日は、いつ?」

「10月、もう過ぎたわ」

「なんで言ってくれなかった」

「今はちょっと会いたくないし、ママとの間には時間が必要なの」

「それはぼくのせいかな」

「それは違うわ。わたしとママ、そして家族の問題なの」

「家族って、確か有希は母ひとりだろう、お父さんはだいぶ前に亡くなったと聞いているけど」

「そうよ、わたしはいつも独りぼっちだった。いつも・・・」

 有希は急に淋しそうな表情をして窓の外を見た。

 ぼくは有希に近づき、後ろから抱きしめて囁いた。

「ぼくは有希をひとりにはしないよ」

「ありがとう。達也はひとりっ子でしょう。達也のお母さんもお父さんも、達也が遠くにいてきっと淋しいと思っているはず。誕生日に贈り物が届いたら、わたしだったら嬉しいし、遠くにいても気に掛けてくれていると思うからきっと淋しくならないと思う。だから誕生日には、ねぇ贈り物をしてあげよう」

「わかった。有希ありがとう」

 ぼくは有希が愛おしくなり、強く抱きしめた。


 その有希はもういない。

 そんな感傷に浸っているぼくを二匹の猫はじっと見つめていた。

(何をぼーっとしているの。早く食事を頂戴!)と言っている気がした。すぐに台所の棚からキャットフードを取り出し、二つの皿に分けて床の上に置いた。

 ユキと雄猫はよっぽどお腹がすいていたのか、ガツガツと食べている。

 ぼくはユキの黄色いポケットに目をやった。ユキが食事を終えてから中を見たが、彼女からの手紙は入っていなかった。連絡先を書いたことが変に誤解されたのかもしれない。  

 悪い想像ばかり考えてしまい、ぼくは手紙を書けなかった。

 食事を終えた二匹の猫は出口に向かい、ぼくに窓ガラスを開けるよう目で訴えた。

「もう帰るのかい。遅いから今日はこの部屋に泊まっていけばいいのに」

 無駄とはわかっていたので窓を開けた。ユキが出て行くとその後ろから雄猫もその後に続いた。

 二匹の猫を見送り、姿が見えなくなると夜空を見上げた。

「それにしても、どうして返事をくれなかったのだろう」

 月に灰色の雲が掛かっている。時折月が顔を出すが、やがてすぐに厚い雲に覆われてしまった。

             

 わたしは家に着くと、周囲を見渡してから郵便受けを開けた。中にはまだ茶封筒が入ったままだった。わたしの書いた内容をまだ見ていないらしい。

 単なる悪戯だったと思って封筒を回収しようと手を伸ばした時、電気に触れたように一瞬にして手を引いてしまった。封筒をよく見ると、封印がホチキス留めではなく糊付けされている。

 わたしはもう一度周囲の気配を伺い、恐る恐る封筒を手にした。表書きには「亜紀様」と書いてあり、切手は貼られていなかった。

 足早に自分の部屋に行き、振向いて左右に目を配りながら鍵を開けて中に入った。部屋に上がると、手にしている茶封筒をテーブルの上に投げるようにして置いた。内容は読まなくても、悪意ある文章が綴られていることは容易に想像できる。

 あとは書かれている文面を読むか、このまま廃棄してしまうかの二者択一しかない。暫く考え、意を決して封筒を開けることにした。見なければずっと気になり、後々まで怯え続けなければならない。

 手にしたハサミを強く握り一気に封筒の上部を切り取った。封筒の中には白い便箋が一枚入っている。ハサミを無造作に置き、便箋を引っ張り出し開いた。

「今日の朝はカフェラテ、お昼はカルボナーラ。

 ぼくも食べましたけれど、美味しかった!

 亜紀さん、明日は一緒に何を食べましょうか。

 あなたのことなら、何でも知っています。

 今度一緒に旅行しましょう。

 シアトルはどうかな。」

 わたしは手紙を読み終えると、テーブルの上に放り投げた。

 身体は嫌悪感を覚え、体温が急に奪われていくような気がした。

(この人は一日中わたしを見張っている。なぜ、わたしのことを知っているの?)

 シアトルでは、少なくともわたしの周りの人達は日本人に対して、みんな好意的で評価も高かった。 オリンピックでは現地サッカー観戦後に日本人サポーターがごみ拾いをしている新聞記事や、日本では落し物や忘れ物をしてもちゃんと届けられて感激したアメリカ人の話を聞くと嬉しくなり、日本人であるわたしは誇らしかった。

 でも今わたしが直面しているこの現実は、日本人による卑劣な行為だった。すべての日本人が善人でないことはわかっているけれど、ひとりの日本人によって、すべての日本人が否定されてしまうようで悲しい気持ちにさせられる。信用ブランドが一日で失墜してしまうことに等しい行為だと思う。

 このまま警察に行っても事件性のないことやストーカーには違いないが、まだ初期の段階で警察が動いてくれるかはわからない。それだったら見えない相手を自分の前に姿を現させ、ちゃんと話しをしてみることが必要じゃないかしら)

 わたしは手紙を見つめながら決心した。

 そのとき、外から猫の鳴き声が聞こえた。

「ユキ!」

 わたしは急いで窓を開けた。そこにはユキとシルバーカラーの雄猫がいた。

 わたしは微笑みながら言った。

「ユキのボーイフレンドね。大歓迎よ、いらっしゃい」

 ユキが部屋の中に入ると、雄猫も躊躇なくユキに続いた。

 わたしはまずユキの黄色いポケットを開けて手紙があるか確認したが、そこには手紙はなかった。こんなときこそ、達也さんからの気の休まる手紙を読みたいと思った。

 がっかりしながら、ユキに話しかけた。

「ユキ、最近達也さんのところに行った?このボーイフレンドと遊んでばかりいて、行ってないってことはないわよね」

 疑いの目でユキを見た。

 突然ユキは「ウー」と呻き声をあげ、目を開いて怒りの表情をした。

 わたしはすぐに「ごめんなさい」と、素直に頭を下げてユキに謝った。ユキはすぐに機嫌を直して「にゃあにゃあ」と鳴き、柔和な表情に戻った。

「ユキ、あなたはわたしの心が読めるのね。それじゃ、聞いてくれる」

 ユキは真面目な表情をしてわたしを直視する。隣にいる雄猫は、ユキの表情の変化に戸惑い、目をぱちくりさせてユキを見ていた。

「わたしストーカーに付き纏われているみたいなの。あなたから見て、わたしは普段と変わらないように見えるかもしれないけれど、とても怖くて。でもこのままだと、いつも怯えていなければならないでしょう。だから何とか相手と一度話をして止めさせなければと思っている。

 それに今止めさせなければ、今度誰かがわたしと同じ目に遭ってしまうでしょう。もちろん、こんな人に会うのは怖いわよ。でも一生懸命話せばわかってくれると思うの。どう思う、ユキは」

 ユキは「ウー」と、先程と同じ唸り声を発して同じ表情をした。隣の雄猫もユキの真似をして「ウー」と唸った。

「そうか、あなた達は反対なのね」

 わたしは溜息をついて、少し考える素振りをしてユキに話しかけた。

「達也さんに相談したいと思うけれど、まだ会ったこともないし、いきなり相談されても困ってしまうでしょう。達也さんに手紙を書くから、ユキ、その手紙を持って行ってくれる」

 ユキは黙ったままわたしを見つめている。

「文が長くなるから、少し大き目の紙に書かなければ」

 独り言を言ってテーブルに座ると、用意した大きめの一筆箋にいつもより文字のポイントを小さくして書いた。

「達也様へ

 返事をしなくてごめんなさい。

 その理由は日を改めてお話しをしますが、実は今困っています。

 変な手紙が投函され、

 どうやらその人は私の行動を一日中見張っているようです。

 このまま怯えて過ごしたくはないので、

 迷いましたが直接会って、止めさせようと思います。

 きっとわかってもらえると思います。

 090 *** ****  亜紀」

 わたしは手紙を書き終えると紙を四つ折りにした。ユキを抱き上げ、膝の上に座らせてからポケットに手紙を入れた。雄猫が心配そうな表情をしてユキを見上げている。

「大丈夫よ。心配しないで。ユキをあなたにちゃんと返すから」

 雄猫の横にユキを下ろした。

 下ろされたユキは、すぐに窓に向かった。

「ユキ、明日でいいわよ。今日はもう遅いから」

 声を掛けても、ユキはガラスをガシガシと引っ掻く。

 わたしは仕方なしに窓を開けた。ユキはすぐには出ずに振向くと、一緒に出ようとしている雄猫を静止した。

「にゃああ、にゃああ」ユキが鳴くと「にゃあにゃあ」と雄猫が応え、暫くお互いの鳴き声の応酬が続き、雄猫はすごすごと台所に行った。

 ユキは雄猫が戻るのを見届けると、素早く外に出ると走って行った。雄猫は床にうつ伏せになり、ユキが出て行った窓ガラスをじっと淋しそうに見ている。

「ユキ」

 わたしはユキに申し訳ない気持ちで小さく呟いた。

 ユキはわたしの気持ちがわかっている。だから、こんなに夜が遅くてもユキは彼の家に向かっているのだと思った。わたしをひとりにしておけないと思い、ボディガードをこの雄猫に頼んだに違いない。

 わたしが雄猫に向かって歩いていくと、雄猫は起き上がり「にゃあ」と鳴くと、わたしの足元に来て身体を擦り付けてくる。

 わたしはしゃがんで雄猫の頭の毛を軽く撫でた。

「頼りにしているよ。わたしをちゃんと守ってね」

 雄猫は「にゃあ」と応えてくれた。

 わたしは立ち上がり、テーブルの上にあるおぞましい手紙をもう一度見た。傍に置いてあるボールペンを手にすると、空いている余白に文字を大きく書いた。

「こんなことは、もう止めて下さい。

 お願いです。

 きちんとお話しをしましょう。」

 書き終えると手紙を茶封筒の中に戻し、ホチキスで止めて封をした。そして封筒を持って部屋を出ようと玄関に行き、鍵を外して扉を開けた。雄猫も亜紀の後をついて行こうとしている。

「ちょっとここで待っていてね」

 わたしは外の様子を伺いながら部屋を出ると、郵便受けまで一気に走り、もう一度周囲を見渡してから封筒を郵便受けに入れた。外の入り口を見ながら、ゆっくりと後ろ向きで歩いて部屋に戻った。部屋は一階の奥なので少し距離がある。背後から襲われたらと思うと、恐怖で入り口を背にして戻りたくはなかった。お洒落な鉄筋造りの二階建て賃貸のマンションではあるが、どんな住人がいるのかもわからず、隣人の顔さえもわからない。静まり返ったマンションに靴の摺れる音だけが妙に響き、このマンションに住んでいるのは、わたしだけしかいないという錯覚に囚われた。

 急にウィル・スミス主演の映画「アイ・アム・レジェンド」を想い出した。今にも血の気のないおぞましいゾンビが出てきそうで、主人公ロバート・ネビルの心境が理解できる気がする。でも彼には愛犬サムがいたから孤独ではなかった。

(そうだわ、わたしにも猫だけどサムがいる)

 わたしは向きを変えて足早に部屋に戻り、玄関の扉を開けた。玄関に雄猫が行儀良く座って、わたしの顔を見ると優しい声で「にゃあにゃあ」と鳴きながら近づいてきた。

「ありがとう。あなたがいてくれて良かった」

 わたしは雄猫を両手で包み込むようにして抱きしめた。 


 郵便受けにひとりの男が現れた。そして郵便受けにある封筒を手にすると、無造作に上部を引き裂き、封筒を取り出した。書かれている文章を見ると笑みを浮かべ、「ひひっひひっ」と喚起の声を上げて、その場を立ち去った。

             

 夜も更け、そろそろ寝ようかと思い、ただつけていただけのテレビを消そうと立ち上がった。テレビの画像には、複数人の芸人が騒がしく司会者とトークしている。最近のテレビはクイズ番組やバラエティ番組がやたら多く、見たいと思う番組は少ない。

 以前、有希がテレビをつまらなそうに見ながら言ったことを想い出した。

「最近こんなバラエティ番組が多いけど、バラエティに限らずニュース番組でもどのチャンネルを回してもみんな同じようだし、テレビはつまらないなあ。このままだとテレビは廃れてしまうね」

 本格推理ドラマがないことへの不満でもあった。

 バラエティ番組の多くは、どのチャンネルを見てもみな同じで、その場に出演している人だけが楽しんでいて視聴者不在となっており、見ている視聴者は動物園の猿山で猿を見て楽しんでいる観客に等しいように思える。一時間ドラマではコマーシャルを抜くと実質45分程度で、コマーシャルは容赦なく作品を分断してしまい、コマーシャルの合間にドラマがあるようで、とてもドラマを集中して見ることはできない。視聴者が期待するクライマックス直前でコマーシャルが入るのも、他のチャンネルに替えさせたくないという見え透いた手法を取っているから感動のない番組になってきている。

 結局は視聴率の数字を下げられない事情もあり、視聴者の受けがいいスキャンダルなニュースをやたら誇張してみなワイドショー的な番組となっている。

 生活ライフスタイルの変化が大きいとは思うが、このような状況だとテレビ離れがさらに生じるだろう。有希が言ったように視聴率の低さが如実に表している。こうしたテレビを見るという日常の生活の一部から有希が発した言葉を想い出してしまう。

 テレビを消し、リビングの電気を消そうとしたとき、ユキの声が聞こえたような気がした。

「にゃあにゃあ 」

 やっぱりユキの鳴き声だ。

 ぼくはベランダのある部屋に行き、窓ガラスを開けるとユキは飛び込むようにして部屋の中に入ってきた。

「どうしたユキ、お前が一日二回も来るなんて珍しいな、何かあったの?ボーイフレンドは一緒じゃないのかい」

 ユキは「にゃあ、にゃあ、にやあ」と頻繁にぼくに向かって鳴き、ぼくに何かを訴えかけている。黄色いポケットに何度も目をやった。

 ぼくはユキを引き寄せて、付けているポケットの中を見た。いつもより大きめの紙が入っていた。ようやく返信が来たと喜び、書かれている文面を読んだ。

 読み終えると部屋を移動し、デスクの上に置いてあるスマホを手に取り時間を見た。

 既に11時を回っている。普通なら女性に電話を掛ける時間ではないが、躊躇することなく電話アプリのキーボードを表示し、手紙に書かれている電話番号をひとつずつ押していった。夜遅くに初めて掛ける相手だけに、スマホを持つ左手は自然と力が入り、相手が出るまでの時間は緊張が強いられた。

「はい」

 彼女が出た。

「亜紀さんですか。初めまして、達也と言います」

「あっ」

 一瞬驚いた様子が伺われる。

「こんな夜分にすいません。常識外れの時間とはわかっていますが、すぐにお伝えしなければと思い電話をしました」

「わたしこそ申し訳ありません。ご迷惑な手紙を書いてしまい、それにすぐに電話を頂けるとは思いませんでしたので驚いています。ユキちゃんが届けてくれたのですね」

「はい、ユキは今ここにいます。ユキも早く届けなければと思って、急いでここに来たのでしょう」

「あの子は人間の感情を読み取れるみたいで、自分は達也さんのところに行くので、ボーイフレンドにはわたしのボディガードするよう、ここに残るように指示してから出かけて行きました」

「それで、ユキだけで来たのですね・・・あの、亜紀さん」

「はい」

「まず結論から先に言いますけれど、相手とは絶対に接触しないようにして下さい。手紙の主は恐らくストーカーでしょう。自分にすべて都合の良いように解釈してしまいますから、会うことを相手に伝わったら、間違いなく自分に気があると勝手に思い込んでしまいます。そして次第にエスカレートしていきます」

「あっ!」

「どうしました?」

「実は送られてきた手紙の返信に『会いましょう』と書いてしまい、先程マンションの郵便受けに出してきました。すぐに取りに行かなければ」

「いえ、今は部屋から出ないほうが良いです。亜紀さん、どちらにお住まいですか、もし差し支えなければ教えて頂けませんか」

「ええ、杉並区善福寺**目***マンション106号室です」

「ぼくのところからはそんなに遠くはないですね。やはりユキが通える距離です。これからぼくが行き、郵便受けの手紙を持って帰りますから、“ピンポーン”・・・」

 突然、電話の向こうでドアチャイムが鳴った。

「誰かしら」

「亜紀さん!用件だけ聞いて絶対に開けないように」

“はーい、どなたですか〝

“電報です。シアトルからの国際電報です。火急の電報のようです〝

 電話の向こうから、電報配達員だろうか、声が聞こえてきた。

「達也さん、アメリカの父か母に何かあったのかもしれません。ちょっとこのまま待って頂けますか」

「亜紀さん、ちょっと待って・・・」

 ぼくの言葉は彼女の耳には届かず、どうやら電報を受取りに行ったようだ。こんな夜更けに電報を届けることがあるだろうか、嫌な胸騒ぎがした。

 ぼくはアイホンを左耳に強く押し付け、できるだけ声を拾おうとした。

“夜遅くにご苦労様です”

“いえ、夜分にすいません。本人確認と認印が必要なのですが”

 本人確認は必要なのだろうかと思った。

“サインではだめですか”

“サインでも大丈夫です。それでは本人確認したいのですが、免許証かパスポートをお持ちですか”

“免許証は持っていませんのでパスポートを。ところで日本では電報の受け取りに身分証明書が必要なのですか”

“国内でしたら必要ないのですが、国際電報では必要になります”

“わかりました。少しお待ち下さい”

“ドアを開けてもらっていいですか”

“ごめんなさい、それはちょっと”

“あー、すいません。女性おひとりでしたね”

 やっぱりこの配達員は可笑しい、達也は直感的に悟った。

「亜紀さん!亜紀さん!」

 大声で叫んだが、ぼくの声が届いていないらしい。

“きゃー、どうして”

(何が起きたのだ)

“どうして中に入ってこられたの。ドアチェーンが掛かっていたのに”

“ドアチェーンは壊れていました。だけど可笑しいな、だってあなたが開けて下さったんじゃないですか”

「亜紀さん!亜紀さん!」

 ぼくは大声で叫んだ。

“もしかしてあなたは手紙の人?”

“ええ、あなたが会いたいと言うから早速来ました。ちゃんとお花まで買ってきたんです。中に入らせてもらっていいですか”

“お願いです。帰って下さい”

(まずいな)

 ぼくはスマホを耳に付けたまま、玄関に向かい急いで外に出た。

 男とのやり取りが耳から聞こえてくるが、「達也さん!」と声が聞こえ、突然鈍い音が伝わり、電話が切れた。

「亜紀さん!亜紀さん!」

 亜紀さんからの応答はない。

 ぼくは走りながら110番に電話した。


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