ギブソン侯爵・1
ギブソン侯爵。
建国直後から侯爵の地位を維持したまま現在まで連綿と続いてきた由緒正しき家門の当代であり、公明正大な在り方は同じ貴族からの崇敬を集めていると言う。
「でもファウスト一族の血を継いでるのは奥様の方で、現当主の侯爵様は婿養子なんだって。しかも他国からの」
「だからなんだってんだよ」
ギブソン侯爵邸に向かう馬車の中。
移動時間を使って始められたラニの解説に、マガルはうんざりとした様子で溜め息を吐く。
ひと昔前なら貴族制度はあらゆる国に存在したが、巨大な共和国の誕生をきっかけに民主主義の風が吹き荒れ、世界は最早その制度を残す国を数えた方が早い有様となっていた。
マガルの出身地であるヤトラファも例外ではなく、事実マガルはこのシルヴァリオ王国に来て初めて貴族という生き物に出会った。
───厄介だろうと、警戒はしていた。
故に事前に調べて予習は済ませていたが、この王国なりの貴族の在り方などの厄介さは予想を超えており、それもあってマガルは一度は撤退の判断を下したのだ。
「説明したでしょ、この国の貴族は血統主義だって。ギブソン侯爵家の場合、普通なら奥様が当主になって女侯爵になるはずなの」
その判断を一瞬で翻意させた少女───ラニの強い眼差しに既視感を呼び起こされる。確かに今と同じ調子でそんな説明を聞いた気がした。
「他国からとった婿が当主になるってのはそんなに例外か」
「かなりね。一人娘って訳じゃないはずだから尚更」
どうでもいい。喉元まで出かけたその言葉を飲み込んで、マガルはもうひとつの疑問を投げかける。
「さっき出てきたファウスト一族ってのはなんだ。これから会う侯爵はギブソンだろう?」
「嘘でしょそこから? ファウスト、アトレイシア、ヘスティアの名前は覚えておいてって言わなかったっけ?」
「さあな」
王国からの撤退を決めた時、詰め込んだ知識の殆どを捨てた。聞き覚えはあるものの、それらの名前らしい単語の意味するところは忘却の彼方だ。
「この国の貴族の名前は三節に分かれてるってとこまではいい?」
「二節だと平民か成り上がり、一節は間違いなく平民だったか?」
そうと頷くラニの黒髪が靡く。長さの割によく手入れが行き届いていて、本人の気性を鑑みれば他人の手が入った結果と見るのが妥当だろう。
やはり只の使用人ではない。
そんな疑念を頭の片隅に起きながら、マガルはラニの声に耳を傾ける。
「例えばこれからお会いするギブソン侯爵は他国から来た方だからオルト・ギブソンだけど、奥様はユノー・ギブソン・ファウスト。血を継いでないと名乗れない名前が三節目なの」
ファーストネームで個人、ミドルネームで家門、ラストネームで一族名を示すということになる。恐らく他家に嫁いだ場合、変わるのはミドルネームだけなのだろう。
「…要するに、これから行く侯爵邸での序列一位は当主じゃねえ可能性があるって訳か」
血統主義に、名前のルール。ただでさえ強い貴族の自尊心を育てる土台が更に強固に出来上がっている。
マガルは商人として様々な相手と渡り合ってきたが、気の強い異性はほぼ例外無く厄介だったことを思い出す。同じく場数を踏んでいるからこそ手の内を見抜いた交渉を仕掛けられたこともあれば、決して譲らぬ強硬な姿勢でひたすら押されたこともある。
これから会うユノーとやらは当主の地位を夫に譲り、侯爵夫人に収まってはいるようだが果たして。
「痴情のもつれじみた話だったら俺はその場で帰るからな」
「それは大丈夫」
妙に自信ありげに頷くラニの顔を睨むように見る。険の無い顔立ちは年相応の愛嬌に溢れていて、初めて会った時同様、物怖じしない眼差しがマガルを射抜く。
自慢でも自虐でもなく、強面の自覚があるマガルにとってそれは新鮮な対応だった。ラニくらいの歳の子供なら、先ずマガルとは視線さえ合わせられないのが殆どだ。少女であるなら泣き出す者までいる。
だからだろう。ラニに見つめられると、なんとなく惜しくなって自分から目を逸らせない。夕暮れの色をした大きな瞳に映る自身を眺めるのは不思議な気分だった。
「最近噂になってるの。侯爵邸に、青い髪の女の幽霊が出るって」
「付き合ってられるか今直ぐ帰らせろ」