次郎と小次郎
ポツポツと雨の降る公園のベンチの側で、
赤い傘を差した女の子が、うずくまって泣い
ていました。
「グスグス… ごめんね… 家に入れてあげ
られなくて、せめて雨が降ってる今日だけで
もって思ったんだけど…」
女の子は傘を首で支えながら両腕に一匹の
茶色い子犬を抱えていました。
「お父さん犬が嫌いなの。でも、でもね私に
はとっても優しいから、きっと許してくれる
と思ったの。なのに、あんな酷いこと…」
萌ちゃんは、お父さんの言葉を思い出して
いました。
「ダメだ! 元にあったところに返してきな
さい。萌は、お父さんが犬嫌いなこと知って
るだろう」
「うん。でもお父さん… 雨が降ってて、あ
そこじゃ濡れちゃって可哀想だったから」
「ダメだといってるだろ。とにかくその小汚
いのを早く戻してきなさい。家の中に臭いが
付くし、部屋が汚れてしまうじゃないか」
「お父さん、なんでそんな酷い事言うの?
あんな所に置いといたらこの子死んじゃうん
だよ」
「その犬が死のうと生きようと家には関係な
い!」
「そんなぁ…」
「グスグス …バカ。お父さんのバカ」
雨の中を萌ちゃんは泣きながらトボトボと
歩き、家に帰ります。
「ただいま…」
玄関に入ると、萌ちゃんをお婆ちゃんが出
迎えてくれました。
「萌ちゃんお帰り、あら! ずぶ濡れじゃな
い、傘はどうしたの?」
「置いてきた。ワンちゃん濡れたら可哀想だ
から」
「そう。じゃあすぐ着替えなさい、風邪引い
ちゃうから。待ってタオル持ってくるからね」
「ありがとう、お婆ちゃん」
「ワンちゃんどうしてるかなぁ…」
居間のコタツに入りながら萌ちゃんは、置
いてきた子犬のことを考えていました。そこ
におばあちゃんが湯気の立つマグカップを持
ってきました。
「はい葛湯よ。体が温まるからお飲み」
「お父さんは?」
「うん? さっき出かけたみたいだけどね」
「そう…」
「ねえ萌ちゃん。お父さんがどうして犬が嫌
いになったか知ってるかい?」
「えっ、噛みつかれたとかじゃないの?」
「萌ちゃん、そこの庭の、桜の木を見てごら
ん。上の方の枝になんか貼ってあるだろう」
「……えーっ、どれ? ああ、あの茶色いの?
汚くて分かんないよう」
「あれはね、『猛犬注意!』って書いてあっ
たの」
「猛犬って、昔犬飼ってたの?」
「そう。今から二十年位昔に次郎が、つまり
あなたのお父さんがね…」
お婆ちゃんは桜の木を見ながら萌ちゃんに
語り始めました。
あれはそう、春先の夕方のことだったわね。
私が庭で洗濯物を取り込んでいたときに、外
から次郎が大声あげながら帰ってきてね。
「母ちゃん、母ちゃん! 牛乳有るかぁ」
「なんだよ騒々しい。牛乳? 冷蔵庫を見て
ごらん… って、お前何持ってんだい」
「な、何って、えっえーと…」
「怒らないから見せてごらん。ほらっ!」
見られないよう後ろに必至に隠してたみた
いなんだけどね、次郎のズボンの下から茶色
のシッポが生えててね。おかしいの何のって。
次郎が持っていたのはね、茶色の子犬だっ
たんだよ。
「河原で遊んでたら見つけたんだ。なあ母ち
ゃん家で飼っていいだろう」
「別にかまいやしないけど、お前ちゃんと面
倒見れるかい?」
「うん。やったぁ! それじゃあ、まず名前
決めよう。…うーんと何がいいかなぁ。ポチ
はありふれてるしなぁ。身近な物の名から考
えようか、 …そうだ、俺の名前から取って
小次郎にしよう。ただの小次郎じゃないぞ、
剣豪佐々木小次郎の小次郎だ!」
私も死んだお爺ちゃんも、犬は嫌いじゃな
かったから子犬を飼うことを許したんだよ。
次郎は一人っ子だったからね、弟が出来たみ
たいに嬉しかったんだろうね。
ちょうど春休みだったから付きっきりだっ
た。ご飯食べるのも、遊ぶのも寝るのも四六
時中一緒だったよ。
ーキャン!ー
「コラッ小次郎、転んだくらいで鳴くな。い
いか、男はよっぽどのことがないと泣いたら
ダメなんだ。お前の名前は佐々木小次郎から
取ったんだしな。強くなれよ、分かるか?」
ーキャン!ー
「ちがうって… うわっ、こらペロペロなめ
るなよもうアハハハ…」
春休みが終わってしばらくしたある日、次
郎が玄関に札みたいな物を貼ってたんだよ。
「次郎? 玄関に何貼ってるんだい」
「犬注意の札」
「犬注意ってなに?」
「はす向かいの家に貼ってあったろ!」
「ああ、『猛犬に注意』の札ね。でもまだ子
供だよ。それに小次郎は猛犬ってガラじゃな
いわねぇ」
「チェッ… じゃあ母ちゃん、小次郎が大人
になったら貼っていいか?」
「ハハッ、小次郎が猛犬になったらね」
私がそういったら次郎は悔しそうに札をは
がして下駄箱のスミに入れてたよ。
でもね… その札が玄関に貼られることは
二度と無かったのよ。
ジメジメとした梅雨が明けて、夏休みが近
づいた七月の初め… 小次郎はね、死んだん
だ。
一週間前から様子がおかしかったから動物
病院に連れていって見て貰ったんだけど。
「…これはパルボウという病気だね。弱った
犬や子犬がかかりやすい怖い病気なんだ」
「先生どうしたら直るんだよ」
「…言いにくいが、もう手遅れだ。この病気
は潜伏期間があって、発病するとまず一週間
もたない」
「ウソだろ! 病気を治すのが先生の仕事だ
ろ! 手遅れってなんだよ、ふざけんなよ」
「次郎、おやめ!」
「だって母ちゃん…」
「だってじゃない。先生… ではどうしたら
いいですか?」
「多分、もって後三日でしょう。このまま苦
しんで死なすよりここで楽にしてあげた方が
…」
先生はね、苦しんでる小次郎のために安楽
死をしてあげようとしたのよ。でも次郎は大
声を上げて怒って、先生から奪い取るように
して小次郎を連れて帰えってしまったの。
「なんだよ楽にって… 冗談じゃない。小次
郎は絶対直るんだ! あんなヤブに任せられ
ない。俺が直してやるからな」
次郎は一晩中小次郎の側にいてね、お腹や
背中をなでながら何度も声を掛けてたよ。
ーフーッ、フーッ……
「どうした小次郎、苦しかったら鳴いていい
んだぞ。我慢すること無いんだぞ。バカ、苦
しいのにシッポなんか振るな… 振るなよう
…」
もう起きあがることさえ出来なかったのに
ね、次郎が声を掛けるたびに小次郎はシッポ
を振るの。しっぽを振るのにはとっても体力
がいるのにね、次郎に答えるように何度も何
度もね…。
そんな姿に居たたまれなくなったんだろう
ね、次郎は小次郎をそっと抱き上げて、泣き
ながらつぶやくようにいったんだ。
「苦しいか小次郎、ごめんな… 俺には何も
できないよ。ごめんな、先生の所に行こう。
すぐ楽にしてやるからな」
早朝だったのに、先生はすぐ見てくれたん
だ。そしてね、次郎から小次郎を受け取ると
次郎をまっすぐ見てこういったんだ。
「辛い決断だったな。最後… 看取ってあげ
るかい?」
コクンとうなずく次郎の前で先生は、小次
郎に一本の注射を打った。小次郎は診察台の
上で、ゆっくりと息を整えながら眠るように、
眠るように死んでいったよ。
次郎は息をしなくなって冷たくなっていく
小次郎を抱きかかえてワンワン泣いたよ。
「小次郎… 死んじゃったのか? なあ目を
開けてくれよ。シッポ振ってキャンて鳴けよ
… ちくしょーっ、こんな悲しい思いをする
んだったら、お前なんか飼うんじゃなかった
… こんな辛い別れをするんなら出会わなけ
れば良かった。なあ小次郎…」
その日次郎は、小次郎の亡骸を桜の木の下
に埋めたんだ。そして、いつかの札を持って
きて桜の木の幹に貼ったんだよ。
そこに小次郎が、いつでも居るって思いた
かったからだろうね…。
桜の木を見ながら遠い目で話していたお婆
ちゃんは、萌ちゃんに向かっていいました。
「あのね萌ちゃん。お父さんの心の中にはね、
小次郎との悲しい思い出が今も残ってるんだ
よ。それとね、萌ちゃんにも、そんな辛い思
いをさせたくないから、辛くあたったんだよ」
「グスグス、そうだったんだ…… でも、だ
からって捨てられている子犬を見て見ぬ振り
するなんて私には出来ないよ。そんなことし
たら小次郎だって悲しむよ」
「フフッ、あのね萌ちゃん。一度だけでも犬
を飼ったことがある者はね、見て見ぬ振りな
んかできないんだよ。たとえ自分が飼えなく
てもね」
「お婆ちゃん、それどういう…」
ーキャンー
「へっ、今のなに? なんか家の中から聞こ
えてきたけど…」
萌ちゃんは声のしたほうに行こうと廊下に
出ました。そして周りを見渡し玄関の方に行
くとそこに、子犬の所に置いてきたはずの赤
い傘があったのです。
「なんで傘がここに?」
萌ちゃんが傘を取ろうとした時またどこか
らか鳴き声が。
ーキャンキャンー
「えっ、どこ? あれ、風呂場の方からだ」
風呂場に入ろうと萌ちゃんが脱衣所のドア
を開けたときです。茶色い毛玉が勢い良く飛
び出してきました。
「キャッ、なに? あれ!」
毛玉だと思っていたのは子犬でした。子犬
はハタハタとしっぽを振って萌ちゃんの足に
まとわりつきます。
「あれぇ、もしかしてお前…」
萌ちゃんが子犬を拾い上げたとき、脱衣所
からランニング姿のお父さんが顔を出しまし
た。
「コラッ! まだ洗い終わって… 『ゲッ、
萌…』」
「お父さん… どうして?」
「こ、これはその、とにかくそいつをよこし
なさい!」
「もしかしてお父さん…」
「ちがうぞ! 家で飼うんじゃなくてその、
なんだ、飼いたいって人がいるんでな。汚い
ままだとその人に悪いから…」
「うそだよそんなの。ねえ、どうして飼っち
ゃいけないの?」
「どうしてって、お父さんは犬が嫌いだから」
「嫌いじゃなくて、怖いんでしょ。小次郎み
たいに死んじゃうのが」
「…お婆ちゃんに、聞いたのか」
「うん…」
「そうか… 萌、この子犬は生きているんだ。
分かるかい? 命あるものはいつか必ず死ぬ
んだよ。どんなに可愛がっても、別れはやっ
てくるんだ。一緒にいる時間が長ければ長い
ほど、別れの時は辛くなるんだ。だから飼わ
ない方が…」
「お別れするのは悲しいと思うよ。でも…
でもね、それまでの間、いっぱい思い出作れ
ばいいじゃない。私… 私だったら、お別れ
する悲しみに負けないぐらい、この子との思
い出を沢山、沢山作るもん!」
「思い出?」
お父さんは思い出していました。小次郎と
初めて会ったあの春を。たった四ヶ月だった
けど、共に過ごし楽しかったあの日々を。突
然訪れた大きな悲しみによって忘れていた、
大切な思い出を…。
「お父さん?」
「…萌、約束できるかい? どんなことがあ
っても、最後まで面倒を見るということを」
「うん。最後までちゃんと面倒見るよ! だ
からこの子… 小次郎を飼っていいでしょ
う?」
「小次郎? 小次郎か…。 じゃあ萌、小次
郎が風邪を引かないように拭いてやりなさい。
飼い主としての最初の仕事だ!」
「うん!」
「萌、小次郎の首輪買ってきたか?」
「うん。それからこれも!」
「おいそれ、どこに…」
「決まってるじゃない。ひとつは玄関に、そ
れからもうひとつはここよ!」
庭ではね回る小次郎を抱えて、楽しそうに
首輪を付ける萌ちゃんの後ろを、お父さんは、
微笑みながら見つめていました。
それは、蕾が開き始めた桜の木の幹に貼っ
てあった『犬がいます注意!』の札でした。
おわり