昨日と同じ服、そして二人から同じ香り
京都大学付属病院で、香川教授の着任の挨拶をハラハラしながら聞いていた。
確かに教授の発言は正しい。が、理想と現実には大きな開きが有る。日本の医療現場で働く人間は――特に大学病院では――皆、疲弊している。それなのに手術を増やすとなると、現場の反発は必至だろう。
病院収入を増やすためには手術を増やすのが一番早いという意見も妥当だった。
他の科にパイプのないだろうアメリカ帰りの香川教授が取れる唯一の手段だとも分かってはいる。先生がそのお積りなら、内科医としてどこまでもフォローするのが自分に課せられた役割だと決意した。顔には出さないけれども。
その時、1人の医師が発言する。横に居た自分は香川教授の手が神経質に震えていることに気付く。
先生らしくないな…と思った。自分の記憶している限りこんな先生の動作は初めてだ。そしてその発言に対する教授の物言いも先生らしくなかった。いつも言葉を選んで発言する人が…。
改めて、発言した医師を観察する。気が強そうで自分の言いたいことはハッキリ言うタイプ。でも発言したことが嫌味にならない愛嬌がある。今は憤りを湛えた瞳をしているけれども、笑うと人間味溢れる魅力を持っているだろうな…と思う。彼の発言も医療現場の現状を反映していて真摯に仕事に取り組んでいるのが分かるわ…と。
香川教授とは違ったタイプのハンサムさんだわ…と思って眺める。自分の人生を自分で切り拓く野性味溢れた人なんだろうな…と。自分の回り――婚約者の岩松を筆頭として――の人間とは違う。こんなことを思うと不遜だとは思ったけれども、香川教授と似ている部分もある。
それは「育ちの違い」だ。香川教授も、この医師も金銭的に苦労して育ったに違いないと思った。言葉は悪いかも知れないけれど、子供は親を選べないし家庭環境もそうだろう。自分の周りにはいないタイプのだったが、だからこそ感じで分かる。
社会に出て初めて分かったことだったが、自分がどれほど恵まれていたか…だった。お金の苦労も――受験勉強の苦労は人並みには経験したけれど、あれは第一志望の大学に入った瞬間消えてしまう種類のものだった。
そして岩松との出会いから婚約まで。彼は自分の致命的な欠点――家事労働に全く向かないという点――を笑い飛ばしてくれた。「そんなものは専門家に任せればいい。僕達に必要なものは、家政婦さんが本当に信頼に値するかを見抜く眼力だけだよ」と。
家政婦さんも色々居るらしい。職業意識の有る本当に信頼出来る人と、あわよくば、勤め先から金目の物を失敬しようと狙っている人が。後者を雇い入れては自分では把握出来ない。岩松や両親から贈られた宝石が部屋のあちこちに散乱している。世間では高級ブランドと言われているバックや時計も沢山持っていたが、宝石を何個持っているのかや、時計を何個持っていたか…などは覚えきれない。
京都で働くと言ったら父親が新しくマンションを買ってくれた。これも値段は知らない。
外観は落ち着いていて、ゲートからマンションの入り口まで植え込みが続く道を歩いていく。書斎やリビングには宝石があちこちに置き忘れている。キッチンで簡単な朝ご飯を作ろうとして冷蔵庫を覗き込むと、ナゼか、ルビーとダイアモンドで花をかたどった指輪が冷蔵庫の冷気に冷やされていた。
「こんな体たらくでは、家政婦さんを雇っては恥ずかしい」
そう思って自炊していた。自炊といっても御飯を炊くくらいで――洗ったお米を入れたら御飯が出来るという優れものだったが――最初は、お米を洗うのに洗剤を使ったら泡が出てきた。母親がお米を洗って時は泡は出ていなかったので電話で聞いてみると、「お米は洗剤で洗うのではありませんよ…お水だけで洗うものです」とアドバイスされた。
そんな自分の育ちがかなり特殊なものであったかが分かった。香川教授の生い立ちは聞いたことはなかったが、何となく自分の回りに居る「生まれてこの方、お金に困ったことはない」という人種とは違うような気がしていた。
そして、香川教授に反論している医師――田中祐樹と言った――も同じ感じがする。
一触即発の空気を変えようと、精一杯微笑み挨拶を済ませた。
もちろん、医局では香川派と目されているため、一応同僚の医師達は敬意を表するものの、あまり話してくれない。それは想定内だったので別に構わないと思っていた。
手術もノーザンクロス病院に居た時のように手術室には入れなかった。日本の大学病院の硬直性は知っていたので、それほど不満には思わなかった、が。
香川教授の手術の補佐をしている内に、彼の内心のイライラが募って行くのを敏感に感じた。手術室で何か有るのだろうか――そう思っても、外科のことは分からない。自分が相談に乗れないことを歯痒く感じた。
香川教授は――長い付き合いの自分にしか分からないだろうが――仕事以外でも不本意なことがあったのでは?と思うようなオーラを出している。
こちらも教授が話してくれない限り自分が聞くのは僭越な気がした。
ある朝のこと、患者さんの容態が気になって6時に職場に行った。宿直は香川先生が教授になってから随分減っている。少し自分の心だけで自慢したかったのは自分の投薬が上手く行って緊急手術が減ったせいだった。
患者さんの容態は投薬のお陰で落ち着いたのを見計らって同僚があまり居ない医局に行った。
扉を開くと、ナゼか自分にはキツイ眼差しを向ける田中先生が1人で椅子に腰掛けて居る。
――そういえば、今日の手術、第一助手に抜擢されたって噂だったわね――
扉を開けた途端――当たり前といえば当たり前だが――視線がこちらに注がれる。
が、いつものような意地悪げな眼差しではなかった。ナゼかは分からなかったけれども。
安心して医局に入り、近寄って「お早うございます」と言った。
「お早うございます」と晴れやかな挨拶を返してくれる。これも前代未聞のことだった。
フト田中先生が立ち上がり、コーヒーサーバーに行くのだろう、自分の横を至近距離で通り過ぎた。
あれ?この香り…どこかで…嗅いだ覚えがある。それがどこかは今すぐ思い出せないけれども…。
教授に患者さんのことを報告しなければと思い、教授室に向かった。――こんな朝早くから教授が出勤していないかも――という考えは浮かばなかった。
ドアを小さくノックすると、返答が有った。入室して驚いた。昨日と同じ服装だったからだ。
「泊り込みですか?」
そう聞こうと思って近付くと、先ほど田中先生がまとっていたのと同じ香りが漂ってきた。