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短編集 そんな世界で

明け方の人

作者: 菅野リオン

グレン・グールドのCDに収録されていた、バードの「First Pavan & Galliard」を聴きながらイメージして書きました。

そこで、私は目を覚ました。


最初私は自分が今どこにいるのか、全く分からなかった。ただうっすらと明るい光だけが、私の元へとわずかに降り注いでいた。


360度、辺りを見渡す。


そこには部屋があった。


いや、私が今その部屋の中にあるのだから、部屋にいたと言ったほうがいいだろうか。


白い壁の、落ち着いた印象の部屋だ。焦げ茶色の棚に、小さい書き物机。白いシーツが敷かれたベッド。えんじ色のような茶色のような、微妙な色合いのカーペット。


部屋の隅には、小さなピアノがある。


黒く、ツヤのある塗装に、白黒の鍵盤がよく映えている。なぜだかそこだけ、この部屋の中から浮き上がってくるようにも見える。


私はこの空間に対して、過剰な潔癖さと、穏やかな暖かさが同居したような、不思議な印象を受けていた。

今ここにいる私は、一体外から見たらどのように見えるだろうか。自分を知らない以上、それ以上のことは何も言えなかった。


そこで初めて、私は気づいた。私は自分が何者か、全く知らないのだ。年齢も、性別も。

私はもう一度、部屋を見回す。残念ながら、この部屋には鏡がないようだ。私はそこで、早々に自分を知ることを諦めた。

自分が誰かを知らなくても、こうしていろんなことを見たり、聞いたり、考えたりできる。ならば、それでいいのではないか。私は不思議と、そう思っていたのだ。


日光がほとんど当たらないせいか、何だか空気がひんやりする。しかし、それがまた気持ちよく感じられた。


どこからか、メロディーが聞こえてくる。


私はふと、足元に目をやる。そこには、何冊かの文庫本が置いてあった。そのうちの一つを、私は手に取る。

なんだかやたら茶色い色をしている。思ってから、日焼けで変色しているのだな、と気がついた。よく見ると、表紙にうっすらと水色の印刷がまだ残っている。


その表紙には、何やら分からない複雑な形の文字が、二つ並んでいた。

私はそこで不思議に思った。たった二文字で表せる言葉とは、一体何だろうか。「愛」だろうか、「暴力」だろうか。

私はそこで出てきた単語に少し驚きながら、自分の中にそういった概念がちゃんとあるのだ、ということを感じた。


私はきっとこの部屋に来る前にも、どこかにいた。きっとそのはずだ。この小さな部屋で、生まれた訳はない。私は知っている。ここではきっと、得られない概念を。

「年齢」も「性別」も知っているのに、自分がどこに当てはまるかは知らない。それは、とても孤独に感じられた。


私はページをめくる。不思議なことに、その本の中身は私が知っている言語で書かれていた。最初の部分を要約すれば、「人の世の中は厳しい」といったような内容だった。


どこからか、メロディーが聞こえてくる。


聞き覚えのない、ピアノの旋律。

私は音をたどる。


この部屋には、誰もいないはずだ——もちろん私以外。

確かにそのはずなのに、メロディーは明らかにこの部屋の中から聞こえてきているのだ。

私は音の主を探ろうと、後ろを振り返った。


そこにはピアノがあった。


誰もいない。もちろん鍵盤は、動いてはいない。

しかし私はそこに何らかの作為のような、人の存在のようなものを感じとっていた。

私はゆっくりと、ピアノへと近づく。腕を伸ばして、見えない演奏者を探る。


しかし、その手はやはり、誰にも触れることはなかった。

私はそのままピアノの鍵盤に、そっと指を置いた。指は、動かない。弾き方を知らないからだ。


黒く塗られたピアノには、私の姿が映っている。その姿はぼんやりとして、はっきりとは分からない。ただ、どこか拍子抜けしたような、間抜けな顔をしているのは分かった。

この部屋は、恐らく私の部屋ではないのだろう。だとしたら、弾けないピアノなど置いているはずがない。弾き方を忘れているのだとも、思わなかった。


そう考えて、ふと私はこの部屋には窓がないことに気付いた。四方が壁に閉ざされ、小さなドアと、その向こうにある階段以外は何もない。そういえば今までに見た部屋はいったいどんなだったか、と考えてみたが、うまく思い出せない。


そこで私は、最初の疑問に立ち返った。ここは、いったいどこなのだろうか。


私は辺りを見渡す。


机の上には、小さな額縁に入った写真が飾られている。両親と、小さな子供。私にはそう見えた。

私にも、家族がいたのだろうか。記憶のない私には、分からない。分からない以上、いないのと同じだった。


これは私が触れたことのない世界だ。途端に、そう感じた。記憶がなくても分かる。過去のどこにも、こんな姿の私はいない。そう思うと、なぜだか少し寂しい気がした。


「誰かいるのかい?」


突然、声がした。

私はハッとして、後ろを振り返る。


そこには、黒いジャケットを着た、背の高い男が立っていた。


「あなたは誰ですか?」


私は尋ねた。すると男はそれには答えずに、ただうっすらと笑みを浮かべながら言った。


「君は誰だい?」


私は答えた。

「分かりません」

「どうして?」

「忘れてしまいました」

「そうか。なら仕方ないね」

そう言って男は視線を横に向けて、ぼんやりと虚空を見つめていた。まるでそこに窓があって、どこか遠くを見渡しているかのようだった。


私は何だか自分が適当にあしらわれた気がして、男にもう一度尋ねた。

「それで、あなたは誰なんですか?」

「ああ、僕はーー」

言いかけて、彼は口を閉ざした。それから胸の奥の引っ掛かりを取り除くような顔をしてから、そっと口を開いた。


「僕は、いない」

気付くと、ピアノの音は止まっていた。

「ここにはもう、僕はいないんだ」

「どうして?」

「もう過ぎ去ってしまった」


それだけ言って、また口を閉ざす。私はそれを見て、口を開いた。

「でも。過ぎ去ってしまったのかどうかすら、分からない人だっていますから」

彼はそれを聞いて、眉ひとつ動かさずに答える。

「でももしかしたら、まだ過ぎ去っていないかもしれないじゃないか」

その言葉が妙に迫真に満ちていて、私は何も言えなくなる。


「ここは随分と寒いね」

前触れなく、男が口にする。

「そうですか? 私は涼しいです」

「そうか」


しばらくの間、沈黙が流れる。

ピアノの音は聞こえてこない。


ふと、男が顔を上げる。

「そろそろ、時間だね」

「何の?」

「朝だよ」

「朝……?」

私は一瞬、その言葉の意味が掴めなかった。彼はそんな私のことは気にも留めずに続ける。


「もうすぐ、朝が来る。いや、もう来つつあるんだ。1日――24時間のうちで最も貴い、明け方の時間さ。この時間は、もう戻ってこない」

そうして彼はとても悲しそうな目をした。

「明日には、またやって来ますよ」

「未来は分からないよ」

私の言葉に、男はそうとだけ答えた。

どうして彼は、このようなことを言うのだろうか。知らなくても、私には分かる。彼はこのたった一瞬しかない明け方の時間を、もう何千と繰り返してきたはずなのだ。


「君はどこに行くんだい?」

彼は私に尋ねた。

「どこに、って」

「僕は知らないさ。でも、もうすぐ日は登る。君は、どこかへ行ける」


そこで、私は思い出した。私は先ほど、どこかから光が入ってきたのを感じて目を覚ましたのだ。


私は上を見上げる。


そこには、螺旋階段があった。大きな螺旋階段が部屋の隅から、天井を通ってさらに上へと高く続いているのだ。どこまであるかは、分からない。


「行くところがあるんだろう?」

男が尋ねる。

「そうなんでしょうか」

「きっと、そのはずだ。ずっとここにいていいのは、僕だけだからね」

私はその言葉に、なぜかすんなりと納得した。

「分かりました」


男はそれを見てゆっくりと微笑むと、棚から楽譜の束を取り出した。

「これを持って行くといい」

「これは?」

「楽譜だよ」

「何の?」

「この曲さ」

「この曲…… ?」

紙の上には、よく分からない記号が踊っている。でも、私には分かった。これは、先ほどピアノで聴いた、あの曲だ。

「ありがとうございます」

男は微笑んだだけで、何も言わなかった。


私はゆっくりと、階段の1段目に足を乗せる。2段、3段……。しばらくの間、登り続ける。

私は上を見上げた。終わりは、まだ見えない。まだまだだ。


どこからか、ピアノのメロディーが聞こえてくる。


さっきの男が弾いているのだろうか。私は、ただ階段を登り続ける。

あの部屋には、光がなかった。世間から忘れられ。放置された地下室。そう、まるで私を表しているかのような。

あれが私の部屋でないなら、いったい誰の部屋だったのだろうか。


どこからか、私を呼ぶ声が聞こえてきた。


おそらく、階段の上の方からだろう。その先は、まだ見えない。しかし、そのどこか懐かしい響きは、地下深くにある私の元まで静かに降り注いでいた。


その声に誘われるように、私は走り出した。

カン、カン、と、無機質な音が辺りに響く。何度も螺旋を描きながら、少しずつ私の体が上へと上っていく。

私は何だか、自分が空へ、空中へと舞い上がっていく感覚すらした。


カン、カン。無機質な音が響く。

ただ前へ、上へと進む。

しだいに光がだんだん大きくなって、私の体を照らし始める。


どこからか、ピアノのメロディーが聞こえてくる。


頭上からは、誰かの声。懐かしい感覚。

何だかとても、暖かく感じる。これは、いったい誰なのだろうか?


私はそこに希望を感じた。この先に私の未来がある。まだ知らない未来が。


まだ、記憶は戻らない。まだ、何も。

でも。この先に進んでいけば、分かるような気がした。

暗いあの部屋を捨て。ただひたすらに前へ進む。


あの部屋を……。


そこで、メロディーが止まった。


残響が、やけに頭の中に響く。

私は、足を止めた。けして見逃してはならないような、違和感を感じた。そして。


そこで私は思い出した。何か、大切なことを。

上った先にある未来ではない。

過去だ。

私は後ろを、ゆっくりと振り返った。

先ほどまで私がいたあの部屋は、遥か彼方、闇の向こうへと沈んでいた。


「あ……」

声にならない声が、私の口から漏れる。

足が震えた。怖くなった。


私は一目散に、階段を駆け下りる。荒っぽい靴の音が、乱れたリズムであたりに響く。

あの人からもらった楽譜が、私の手元を離れて宙に舞う。そして背中から私を追いかけるように散らばり、暗闇へと沈んでいった。


あそこには。大切なものがあった。

忘れちゃいけなかった。忘れちゃいけない、ことがあった。

ああ、ああ。なんで。どうして忘れていたんだろうか。

私は焦った。髪をかき乱し。私の体は、地の底へと落ちていく。

体が熱い。呼吸が荒い。それでも、走った。


そこには部屋があった。


深海のようなその空間の中で、その部屋だけがぼんやりと照らされて見えた。私は楽譜を踏むのにも構わず、息を切らせながら前へと進み、ドアを開ける。


そこには先ほどの男が、ピアノの鍵盤に指を置いたまま、神妙な面持ちでじっと手元を見つめていた。


私が何か言いかける前に、男が鍵盤に視線を落としたまま口を開いた。


「ダメだ」

「えっ?」

「君は、戻ってきてはいけなかった」

そうして彼は、私の方を見つめた。

彼は、涙を流していた。表情ひとつ、変えぬままに。


「もう、戻らない」

彼の声が、地面にこぼれ落ちる。

「あの日々はもう、戻ってこないんだ」

私の足元まで、その温度が伝ってくる。

「もう、戻らない……」

私はただ、その言葉を繰り返した。

「そう、何度思い出しても……いや、思い出すほど、もうここからは出られなくなる」

ピアノの鍵盤から、指を離す。

「ここにはもう、何もない。過去も、未来も。振り返っても、戻っては来ない」

「でも」

「何もないんだ」

彼が言葉を強める。

「僕はもう、いないんだ」

一瞬、静寂が訪れる。

「君と過ごした時間は、もうここにはないんだ」


そこで私は気づいた。

ここにはもう、何も残っていない。大切なものも、思い出も。どれだけ、過去を思い出してもーー

私の居場所は、どこにもないということに。


「そんなこと、知りたくなかった」

今度は私の方から、言葉が漏れる。

「そうだね。僕もだよ」

彼は少しだけ困ったような顔をして、そう言った。


男はまた、鍵盤に指を置いた。

「でも君は気付けた。わずかに差し込む、明け方の光に」

気付くと、この部屋の中にまで、少しずつ光が入り込んでいた。


「楽譜は、どうしたんだい?」

ふと、彼が尋ねる。

「すみません、落としてしまって」

「ダメじゃないか。ちゃんと拾っていくんだよ」

彼は鍵盤をそっとなぞって、それからまた私の方を見た。

「また、上で会おう。私はそこで待っている」

私はうなづいた。

その部屋に、背中を向ける。落とした楽譜を、一枚ずつ拾っていく。私の、大切な曲だ。

階段に足をかける手前で、私は一度だけ振り返った。

「あの」

「何だい」

「私は、あなたのピアノが好きでした」

彼は少し戸惑うようにしてから、そっと微笑んだ。

「ありがとう」


私は階段を登り始める。

カンカンと、規則正しい音があたりに響く。


これからは、進んでいけばいい。大丈夫だ。私には、この曲がある。

あの部屋にあった本の、表紙の言葉の意味も。楽譜の読み方も。人も、思い出も。

きっと全部、見つけられる。


私は足を進める。先ほどよりも、少し速いペースで。

もし。あの人にまた、会えたら言おう。

「私は、あなたのピアノが好きです」


光はだんだん大きくなる。私の体は螺旋を描きながら、ゆっくりと上へと上っていく。


どこからか、ピアノの音が聞こえてくる。私の、大好きな曲だ。

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