お狐さまと留書ちゃん
登場人物:九尾の狐と女子高生
鉛筆を動かす音だけが、二人きりの境内に響いていた。
先をとがらせたそれで、同じところに何本も線を引く。少し離して全体を確認。消しゴムで消して修正。線を絞ったり加えたりして、絵に厚みを出す。
その繰り返しで、気づけば二時間が過ぎていた。
「お狐さま、疲れたでしょ。そろそろ休憩しよっか」
「ああ」
私が呼びかけると、日向に座っていたお狐さまが大きく伸びをして走ってきた。
長時間誰かに見られるっていうのは、それだけで結構ストレスだ。楽にしててとは言ったものの、私もあんまり動かれると困るし、お狐さまにとっても肩の凝る時間だっただろう。
「うーんっ」
スケッチブックをかたわらに置いて、私もぐうっと腕を伸ばす。関節がきしんで、一気にあちこちがポキパキと音を立てた。
「そうだ、これ、少ないけど。今回のお礼に」
こんなに長時間つき合わせるんだから、さすがに手ぶらってわけにはいかない。
お狐さま用に買ってきた油揚げをカバンから取り出して、ぴりぴりと封を切る。
「おや、これはこれは」
ありがとう、と言って、お狐さまが油揚げを食む。二、三回それをして、味を確かめてから、くわえて私の横まで持っていった。
「それで、絵は描けたのかい?」
油揚げをむっしむっしと噛み千切りながら、お狐さまがスケッチブックを見た。
まだ開いたままのページを、私は指で撫でてみせる。
「もうちょっとかな。けっこう順調だよ。見る?」
ページを見せると、お狐さまは「これが俺か」とぱちぱち瞬きした。いつもは自分の全身像なんて見ないもんね。新鮮な気分だろう。
「それにしても、どうして急に絵を?」
「宿題なの。美術で、好きなものを一枚描いてくるようにって」
「それで俺を? いいのかい?」
「ファンタジーが駄目なんて言われてなかったからね。それにお狐さまの絵は、今まで描いてこなかったから」
スケッチブックをぱたんと閉じて、表紙についた砂埃をさっと手で払う。使い込んでるせいで四隅はぼろぼろだけど、気をつけて扱ってる分、傷はあんまりない。
裏表紙に書いてある私の名前を見られる前に、それをカバンにしまった。
「お前、普段から絵を描くのかい。知らなかった」
「お狐さまには内緒だったからね。そんなに上手くないから、恥ずかしくって」
「上手じゃないか。少なくとも、俺を描くのは」
「そりゃ、よく見てるもん」
口元をべたべたにしたお狐さまに、「くち、ついてる」と合図。あわてて毛づくろいを始めるのを横目に見る。
「今日のは、写真の代わりなんだ」
「うん?」
「今日の、この絵。お狐さまは写真に写らないから、その代わり」
――お狐さまに言った、今まで描いてこなかったという言葉。あれは半分嘘だ。
このスケッチブックの他のページには、たくさんの描きかけのお狐さまがいる。それも本人を見ないで、記憶だけを頼りに描いた絵ばかり。
それらの全部に、大きくバツ印がつけられている。
描こうとして、描けなかったお狐さまたち。そのどれもがぞっとするほど似ていない。まるで違う人物を描いたみたいに。
そして、描けば描くほど、ズレが大きくなっている。
どういうことか、気づいたとき、鳥肌が立った。
私は、お狐さまの顔が、思い出せなくなっている。
お狐さまの見た目は初めて会った時から変わっていない。小さいころの記憶はわりかしはっきりしているから、それは確か。なのにどんどん抜け落ちている気がする。記憶から、お狐さまの顔が。
お狐さまのことは覚えているのに、声も顔も、思い浮かべようとすると靄がかかったみたいに曖昧だった。
だから。
「こうして描いといたら、ずっと後で、思い出せるでしょ」
褪せていくファインダー越しの透明な妖怪に、色と形を残す方法。それがこれ。
誰が見ても――目下、私以外には見ることのできないお狐さまだけど、それでも――一目で、お狐さまだとわかるような。
いつか、絵を、描こうと思っていた。
「俺がいないのに、思い出して何になる」
お狐さまが前足をなめる。細い、茶色の目が私を見る。
「だって、私のこと、十年振り回した人だよ。忘れるなんてあんまりじゃない」
「そうかい? 忘れない俺にはわからんが」
「薄情者」
お狐さま、化け物を忘れても、誰も同情しないんだよ。
皆あなたを知らないんだよ。
「よく描けてるでしょ、これ」
「本当に」
提出は三日後。これを見た先生は、きっと、素敵な空想画ねって言うんだろう。
それでも。
口にのせた《後》という言葉が、できるだけ遠くになるように。忘れないように。
これはきっと祈りに似ている。
「もうちょっと休憩したら、続き、描かせてね」
「ああ」
季節は春、桜の卯月。私とお狐さまの、最後の一年の最初の話。