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その部屋は静かな空気に満たされていた。
硝子窓は閉じられ、朝露に濡れる蜘蛛の糸のように繊細なレースのカーテンはそよとも揺らぎはしない。
差し込む日差しは部屋の中心を囲むように配置されたソファの革を暖め、葡萄酒色の絨毯に落ちている。
陽の光は、あと一歩のところで部屋の主人の足下まで届かずにいた。
もう少し早い時間であれば、この部屋はすみずみまで陽光で満たされていただろう。そうしたら、部屋の主もその光を透かしてさらに美しく輝いて見えたに違いない。
部屋の中へ入ったエディスは、感嘆の息をついて主を見つめた。
透明な硝子でつくられた、エディスよりも少し小さいだけの乙女の像。
薄衣を纏った彼女は体の線すら美しく、とろけそうな曲線で作られている。顔の彫りも柔らかく、そっと削って丁寧に磨いたのだろう職人の努力がうかがえた。
髪だって珍しくもない茶色だし、容貌もとりたてて褒められたことのないエディスとは比べものにならないほど美しい、女神のような硝子の姫君。
この部屋は、彼女のためのものだ。
エディスの役目は、彼女とこの部屋を綺麗にして飾りたてることだった。
もう埃は払い終わっている。エディスは仕上げと思って摘んできた花を飾ろうとしたところで、部屋の隅にいる人物に気付いた。
「で、殿下」
エディスはさっと腰を落として一礼した。
彼は平民のエディスが相対することなど畏れ多いはずの人物、王国の第二王子ラザルスだ。
硝子の姫君と並んでも遜色のない秀麗さに、月の様に美しい金の髪を持つラザルス王子は、ゆらりともたれていた壁から離れる。
動いた瞬間の藍色の上着と白い絹のシャツが擦れるかすかな音さえも優美だ。
「今日はリエラなんだね」
柔らかな低い声が、エディスの持つ花の名を口にする。
暗色の蔓性の葉茎に、夜空の星みたいに小さくて青い花を沢山つける花だ。
「せめて姫様に、青の月らしい装いをと思いまして」
今月は『青』の月にあたる。貴族の子女達はその月の名にちなんだ色を服飾品に取り入れるのが慣習だ。
硝子で造られた姫君は服を替えることこそままならない。が、それらしいことをさせてあげたいと思ったエディスは、このリエラを飾ることにしたのだ。
「それはいい。我が婚約者も喜ぶだろう」
ラザルスは満足そうにそう応じた。
※※※
ラザルスがこの美しい硝子の姫君を妻にすると言い出したのは、今から一週間ほど前のことだった。
「こっ、この大馬鹿者!」
唐突に国王の罵声が、早朝の回廊に響き渡った。
白大理石の床や天井をびりびりとふるわせ、回廊に配置された石像までも振動するのではないかと思うほどだった。たまたま居合わせてしまったエディスも、思わず体が縮こまった。
エディスは最初、二人がこんな時間にそろってやってきた意味がわからなかった。そもそもこの時間にエディスが回廊にいるのは、王様も貴族もまだ起きていない時間だからだ。
下仕えの人間は王族の前に姿を見せてはいけないという決まりがある。そのためにこんな時間に掃除をしていたのに。
けれど王子だけならば問題なかった。
下々の者とも気安く接するラザルスは、とがめることなく自分から話しかけてくれる。が、国王は別だ。だからエディスは、決まりを守るべくハタキを持ったまま石像の陰にかくれていた。
そっとのぞき見れば、国王は怒りのあまりか身を震わせている。
五十代になって多少皺が刻まれた顔は紅潮し、そのうちに自慢の金の髭まで朱に染まりそうな勢いだ。
怒鳴られたラザルスの方は、平然と答えた。
「しかし父上。日頃からおっしゃっていらしたではありませんか。美しさにおいても内面においても、この世で最も理想的な女性とは母上であると。ですから……」
「そういう問題ではない! お前が婚約者とのたまっている相手は人間ですらないだろう!」
国王の指さす先にあったのは、ラザルスが隣に立っている硝子の像だった。
さすがのエディスも目を丸くする。
それでは国王が怒るのも無理はないと思った。と同時に、心が箒の柄をぐいと押しつけたように鈍く痛む。
エディスも彼に憧れる人間の一人だ。だから相手が硝子の人形とはいえ、ラザルスに思い人がいると知って心が痛んだ。
「何か問題でも?」
「問題があるに決まっているだろう! どうやってその像と結婚するつもりだ!」
叫び過ぎた国王は、ぜいぜいと息継ぎをしている。対照的にラザルスは顔色ひとつ変えずに淡々と返事をした。
「まぁ、世間に認められた結婚は無理ですね。司教様もさすがに挙式は執り行って下さらないでしょう。仕方ないので、独身という建前で彼女と共に暮らすことに……」
「それでは子が!」
「兄上がいらっしゃいますし。私に子がなかったとしても問題ないでしょう。それに父上は常々おっしゃられていたはず」
ラザルスは一言ずつ区切るように言った。
「母上のような女性を娶れ、と。この硝子の姫君は、常々父上が亡き母上に似ていると大切にしてきたものです」
そして彼は抱き込むように乙女の像に腕を回す。
「父上が今までお勧め下さったご令嬢達はあまりに母上のお姿とは遠く、父上の薫陶を心に刻んできた私は違和感をおぼえるばかりでした。が、彼女とならば間違いなく父上のお気持ちに沿い、かつ私も安心できる相手です」
国王は、今や痙攣するように前身が震えていた。
「お、お……お前という奴はっ! 硝子の像を王妃と似てると形容するのはたとえというものだろう! 結婚は人間としろ!」
「しかし母上と似た方が一向に見つからず……」
「まだ言うかっ、北の離れで謹慎だっ! その沸いた頭を冷やしておけ!」
全力疾走したかのように荒く息をついた国王は、踵を返して回廊から立ち去ろうとした。
「ではその謹慎場所には彼女を連れて行っても?」
国王は一度足を止めかけたが、黙したまま歩きだす。
「彼女を一日に一度でも眺められないのなら、私は食を断ってしまうかもしれません。けれど、それもいいかもしれませんね。天上におわす母上にお会いできるかもしれない。そして父上の心ない仕打ちを語るとしましょう。きっと母上は、私の純粋な気持ちを推し量って下さり、ともに涙して下さるはず……」
とうとう国王は振り返った。
「勝手にしろ!」
「そうそう、彼女の世話係に誰か侍女をつけてほしいのですが」
「そこの掃除女にでもしておけ! 人形にはそれで充分だ!」
今度こそ国王は、靴音も高くその場を立ち去った。
エディスは今の言葉を反芻しつつ、国王の背中をぼんやりと見送る。
「乙女の像の……世話係。そこの、掃除女?」
他に誰かいただろうか。そう思って辺りを見回したが、この回廊に掃除にきているのはエディスだけだ。それを証明するかのように、笑顔のラザルスがエディスに近づいてくる。
目の前に立った彼は、エディスに手を差し出してきた。
「このようなわけだから、今日から君に彼女の世話をお願いしたい。よろしく頼む」
そういわれて、さらに手を少し動かされて、エディスは彼が自分との握手を望んでいるのだとようやく気付いた。
憧れの人との握手だ。
普段側に近寄ることすらできない人と、触れ合える。なんという幸運だろう。興奮で頭が真っ白になりかけながら、エディスはスカートでさっと右手を拭って、ラザルスの手にそっと触れた。
「せ、精一杯お仕えさせて頂きます」
「ありがとう」
ラザルスは、しっかりとエディスの手を握ってくれた。