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静かな夜、麗しい朝




 誰だ、この人。

 これまで稲穂が見てきた涼也とはまったく異なる振る舞いに驚き、動けないでいると、涼也は「ああ」と納得したように瓶を引っ込めた。


「そうだった。君、実はずいぶんな箱入りだったね」


 またもや懐から取り出したのは、折り目の付いたハンカチだ。それで飲み口をぐいっとぬぐい、改めて稲穂に瓶を差し出す。


「これでどう?」

「……どうも、ご親切に」


 使い古した心のこもらない礼を言えば、涼也は片眉を器用にあげて答えた。


「ああ。僕は親切なんだ」


 やはりおかしい。こんな、ヒトを小馬鹿にしたような物言いをする人物ではなかった。だがどういうわけかしっくりくる。

 普段なら、絶対に飲むことはなかっただろう。それでも、この不思議な世界であれば、不思議な闖入者が差し出す不思議な飲み物も、いただいていいような気がした。

 こういうのを魔が差した、というのだろうか。

 稲穂はゆっくりと瓶をかたむけて液体を口に含む。


「んんんんっ」

「あっはっはっはっは」


 噴出して大声をあげずに耐えきったことをほめてほしい。音響ばっちりの大ホールで悲鳴を上げようものなら、あっという間にヒトに見つかってしまう。

 ぶわりと舌、喉、鼻腔を駆け抜けたものは真っ赤な暴風のようだった。非常に芳醇な香りに圧倒され、ついで強いアルコールが追ってくる。

 これにくらべれば蜂蜜酒なんて子どもの飲み物だ。

 涙を目にためならが、稲穂は恨みがましく涼也を睨んだ。


「き、きつすぎますっ。なんてものを飲んでいるんですか!」

「ブランデーだよ。本当は口の大きいグラスで香りも味もじっくり楽しむものなんだけど。はじめてだった?」

「ええ。びっくりしました」

「だろうね。そんな滑稽な君、初めて見たよ」


 けらけらと笑う涼也は、稲穂から瓶を取り戻しゆっくりと一口飲んだ。中身を知っているとはいえ、そんなに軽く飲めるものではないはずだ。


「慣れてるんですね、お酒」

「まあね。こういう晩は飲みたくなる。たまにはいいよね」


 そういうと、涼也はあぐらの状態からごろりと寝転がって大の字になってしまう。


「あ、ちょっと。お行儀が悪いですよ」

「いいでしょ、別に。僕たちは普段ここに額づいているんだから、後頭部つけたってそんな変わらないよ」

「……そうでしょうか」

「玉の台座には足向けてないのがせめてもの敬意」

「うーん……?」

「君、そんなにまじめな信徒だった?」


 神官が言うセリフだろうか。呆れる稲穂を気にもせず、涼也はそのまま動かない。口を閉じてしまった涼也に、稲穂は少し迷ってから言った。

 

「あの。どうしてここに?」 

「ん? それ、君は答える気ある?」

「……いいえ」

「なら、そういうことにしておこう。僕も聞かない」

 

 涼也は器用に寝転がったまま酒を飲む。


 聞きたいことはまだまだあった。

 涼也は、稲穂の目から見て非の打ちどころのない人物だ。

 有能で、才能があって、将来を期待されている。人望も厚い。

 そんな彼がどうして、と思う。いや、だからこそ?

  

 しかしこれ以上の問いかけは無粋だ。それならばこの奇妙な出会いを、もう少し楽しんでみるべきではないだろうか。

 神官らしさのかけらもない今の彼には、なんだか好感がもてた。


「ねえ、もう一口ください」

「いいよ。気に入った?」

「蜂蜜酒のほうが好きですが、練習したい味です。慣れるとおいしいですか?」

「うん。僕も蜂蜜酒は好きだけど、アレで酔うには樽がいる。こっちなら持ち込みやすくてすぐ酔える」

「高そうですね」

「わかる? これで蜂蜜酒が十杯飲めるよ」

「まあ、贅沢品」

「これくらい君はさんざん貢いでもらってるんじゃない?」

「え?」


 稲穂は慎重に、ほんのわずかな滴を舌の上に乗せた。そうすると先ほどとは違う熱が広がっていく。その感覚を追うのに夢中になっていたおかげで、涼也の言っている意味を理解できなかった。

 きょとん、と相手を見つめると、涼也はばつが悪そうに顔をしかめた。こんな表情も初めて見る。


「ごめん、今のは失言」


 それでようやく無礼を働かれたことに気づいた稲穂は、ブランデーをもう一滴口にした。瓶はまだ返さない。


「……誰がくださるっていうんです、こんなもの」

「いや、その。きみの信者たち。ここにもたくさんいるだろ」

「神官様は神々を信じてこそでしょう。バカなことをおっしゃらないでください」

「ああ、まったくもってその通り。すみません」

「でもそういえば、貢物ってもらったことありません」

「君がたくらむと笑えない、神官にバカは多いんだよ」

「存じております」

「ふふ、そうだね」 

 

 稲穂の暴言に涼也は機嫌よく笑う。だがそれ以降、二人の会話は途切れた。

 稲穂には話題が思いつかず、これ以上強い酒を飲む気も出ない。瓶を涼也の頭の横におけば、彼は黙ってそれに手を伸ばす。

 涼也もまたぼんやりと月を眺めて酒を飲むだけだ。

 元の心地よい沈黙が戻ってきた。

 静かな世界。

 

「僕はたまにここに来る」

 

 おそらく小一時間は経過していた。空になった瓶を懐に戻し、涼也は立ち上がる。


「また練習したくなったら、いつでもどうぞ。そのときは涙を見せてくれるともっと嬉しい」


 じゃあね、と言い残し去っていくのを見送ったあとで、上着を返しそびれたことに気がついた。




 夜更かしをした割には、質の良い睡眠がとれたのだろうか。

 稲穂はすっきりとした気分で目が覚めた。それも稲穂自身のベッドで、だ。隣のベッドで眠る風見は、不安定になっているはずの稲穂が自分のベッドにもぐりこんでいなかったことを不思議に思ったのではないだろうか。

 昨夜のためにいろいろと気苦労があったのだろう、険しい顔で眠り込む彼の目の下はうっすらと黒い。

 それを見て、そうか、と稲穂は納得がいった。


 昨日の涼也は、少し風見と似ていたのだ。


「彼、けっこう大物になりそうですね」 

「……誰のことだ」

「あら。風見様、おはようございます」

「……ん、おはよう」


 風見は寝ぼけ眼で手招きをし、側に稲穂を呼んだ。


「昨夜はいかがでした」

「お前こそ」

「わたしは問題ありません」


 手招きの後ベッドから垂れ下がった手は、ぽすんと稲穂の頭に着地した。 


「……そうか、ならいい。俺のほうは散々だ。……山猫の連中に嫌味を言われたよ」

「嫌味? なぜです?」

「なんで俺がいてお前がいないんだ、と……。弟子のくせに、師匠の俺がオマケ呼ばわりとはどういうことだ」

「……あら。わたし、人気者ですね」

「そりゃそうさ。メジロちゃんなんかかわいそうだったぜ。せっかく愛しい相手が来てるってのに、お弟子さんは具合でも悪いのか、なんで来ないんだって、さびしそうに聞くんだ」


 くふ、と風見は枕に顔をうずめて笑う。


「次の機会はなるべく早くつくる。今度は余計な連れはナシだ」



  

 稲穂は朝食作りの手伝いの前に、小桃の部屋へ寄ることにした。珍しい夜更かしで寝坊することが心配だった。黒風に怪しまれることは避けなければならない。きっとまた行きたい、と言うに決まっているからだ。

 稲穂はそんな気遣いができる自分に内心驚いていた。あんなに小桃が『山猫のしっぽ』に行くのが嫌だったのに。

 昨日飲んだブランデーより胸を熱くさせるものがある。感情に振り回されている自覚はあったが、こういうのは悪い気分ではない。

 天気も雲一つない青空で、それがより気分を向上させた。小鳥のさえずりも聞こえてくる。


 ああ、今すぐにでもメジロさんに会いたい。

 彼女に祝福があらんことを!

 神様は信じていないけれど!

 

 鼻歌交じりに井戸で水をくみ小桃のもとへ行けば、部屋は真っ暗なままだった。起床時刻よりわずかに早いから当然ともいえたが、まあいいだろう。昨日の腹いせに、嫌がらせもかねて起こしてしまおう。


「小桃様、おはようございます。朝ですよ、とってもいい朝です」


 我ながら浮かれた明るい挨拶だが、あいにく返事はない。

 しかたない、と稲穂は薄暗い室内に入り水桶を置いた。


「少々心配でしたので声をかけさせていただきました。朝食には遅れないよう注意してくださいね」

「んんんん……」


 子犬のうなり声のようなものが聞こえたが、おそらくこちらの言葉をわかってはいまい。

 朝日がベッドを照らすようにカーテンを開ける。


「さあ、小桃様。お顔を洗ってください」

「うううううう」

「……小桃様?」


 小桃はもぞもぞとうごめくばかりで起き上がらない。


「……失礼します」


 イヤな予感に上掛け布団を思い切りひっぱると、「ああ~っ」と情けない悲鳴があがった。

 

「小桃様、もう、どうされたんですか!」


 最後の抵抗とばかりに枕にしがみつく小桃は、昨日の変装姿のままだった。つまり戻ってから寝間着にも着替えずそのまま眠ってしまったのだ。

 稲穂の柳眉はひくひくと震えた。せっかくいい気分だったというのに!


「わたし申し上げましたよね。あそこは臭いがつくから、戻ったらきちんと髪と体を洗って服を干すように、と」

「う~ん……」

「ああ、もうっ! いい加減にしてください!」


 嫌がらせ腹いせうんぬんではなく、単純に目の前の光景に稲穂は腹が立ってきた。言葉も自然と荒くなる。

 冷たい水でしぼった布をぽいっと小桃の顔にのせた。


「ひゃ! 冷たい!」

「すぐに起きて、身支度を整えてください! うう、たばこと油とお酒のひどい臭い。布団にまですっかり染みついて……」

「あ……。ごめん……」


 ようやく意識がはっきりしてきたらしい小桃は、反射のように謝罪を口にする。だが、何が悪いことなのか理解していないに違いない。


「誰がコレを、誰にもばれないよう片づけると思っているんですか」

「あ、じ、自分でやる。 ほんとごめん」

「いいえ、そんな時間は小桃様にはありません。とにかくご自分のことだけ考えてくださいっ」


 大急ぎで小桃から服をはぎとりながら、稲穂はこの後の算段をする。

 ああ、本当にこちらに寄ってよかった。お湯なんて親切はしない、冷たい水をもう一度くんでこなければ。それから朝食づくりに遅れることを奉仕者の方々にわびなければならない。髪をかわかすのには時間がかかるから、匂い消しの香料が必要だ……。


「稲穂ォ」

「はいはい、なんです!?」

「ありがとう。昨日、すっごく楽しかった」


 半裸でベッドに座り、いまだ半分夢の中のような小桃はへらりと気の抜けた笑みを浮かべた。

 なんて憎たらしい。

 そうは思うものの、なぜか心底嫌う気にはなれないのはどうしてだろうか。

 稲穂は盛大なため息をついて腹立ちをアピールし、くずれそうになった背骨をしゃっきりと伸ばした。


「それはよかった。では、今日の小桃様はやる気に満ちていらっしゃると黒風高等神官には報告させていただきます」

「あ、それはやめてぇ……」




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