月夜の出会い
「風見様が許可なさるなら、どうぞ、お好きに」
それしか稲穂は言うことができなかった。言葉が詰まり、口を開こうとすれば何を言い出すかわからない。稲穂には口を閉ざす程度の分別はあり、やさしい言葉で送り出すほどの自制心はなかった。
小桃はたしかにかわいそうだ。稲穂とて同情する。持って生まれたもののせいで押し付けられた運命は過酷といっていいだろう。
しかし胸の内からわきあがるのは、自分の場所をおかされることへの強い嫌悪感だった。
『山猫のしっぽ』は本来小桃が出入りしていいような場所ではない。しかし常連である風見がそれを止めるのは説得力に欠ける。一応は抵抗を見せたものの、緋桐と小桃の熱意に負け、風見はしぶしぶと首を縦に振った。
おそらく、あの場所の意味を真に理解しているのは浅葱だけだ。嬉しそうにはしゃぐ小桃の横で、浅葱はちらちらと稲穂を気にしていた。その視線にまたむかむかし、稲穂はお忍びならそれなりの支度が必要だろう、とその場を辞した。
北向きの外廊下は、少し冷たい風が吹き抜ける。
さっきまであんなに気持ちの良い日和だったのに。
稲穂は小桃に着せるのにどの服がいいだろうか、と数少ない手持ちの衣装を考えながら早足で自室へと戻った。
それから三日。
小桃は前よりまして熱心に経典をめくり、ときおりそわそわ落ち着きをなくしては黒風に叱られ、勉強に励んでいた。
「だんだんわかってきた気がするよ! 神様たちはヒトが大好きなんだね! いつも見守ってくれてるんだ」
「もちろんです。だからちょっかいをかけたり、愛したり、殺そうとするんです」
「ぶ、ぶっそうだね……」
稲穂が幼いころに風見に呼んでもらった本は、小桃の教育にはずいぶんと役だった。血生臭いことは省き、きまぐれに慈善をほどこした話や、調子に乗ったヒトをこらしめるコミカルなエピソードばかりを抜粋した楽しい絵本だ。基礎の基礎の、そのまた基礎から順に理解してもらうほうが、時間はかかるが実になっている。
少しずつではあるが、確実に小桃は神官への道を歩き始めていた。
黒風の指導はまだまだ難しすぎるようで互いに頭を抱えているが、きっとあと数か月、いや、数年すればなんとかなるに違いない。
こればかりは長い目で見るしかない。
「まだお祈りの言葉は覚えられないし、神様たちの声がうるさいのには慣れないけど。でも、がんばれそうな気がする」
「それは何よりです」
「うん。だからさ、えっと」
小桃は絵本を稲穂に返しつつ、少しばかり口ごもる。
何を言いたいのかはわかっていたので、稲穂はあえて助けない。聞きたくないばかりに、さっさと部屋を追い出してやろうかと、いじわるな考えが頭をよぎる。だが、小桃はためらいながらもハッキリと稲穂にたずねてきた。
「あのさ、やっぱりいっしょに行かない? 稲穂とだと、もっと楽しいと思うんだ」
小桃は町娘がよく好んで着るような、花柄のブラウスと丈の長いスカートを身にまとっていた。これでこっそり神殿を抜け出せば、誰も未来の大神官とは思わないだろう。近々行われる大神殿主催のバザーの売り物を借りたのだ。
仮にも神殿仕えの稲穂の服は地味で簡素なものばかりなうえ、スタイルが小桃と全く合わなかった。占い師の弟子ならばぞろっとした黒いワンピースもいいだろうが、小桃には似合わない役だ。
「何度も言いましたように、わたしは結構です。小桃様が抜けだしていることを悟られないよう工作員が必要でしょう」
「でもでも、夜なら誰も来ないよ。見回りの人とかも今まで来てなかったし」
「それは今まででしょう。万が一黒風高等神官にでもバレたら、もう二度と外へ出られないかもしれません。それはいやでしょう? さあ、これまでがんばったご褒美なのです。どうぞ、楽しんで」
窓の外はすっかり暗くなり、ぽつぽつと他の部屋の明かりも落ちている。稲穂は小桃のベッドに予備のシーツやクッションでヒト型に見える塊を作って迎えを待っていた。遠目で見れば、小桃が寝ているように見えるはずだ。
こんこん、こんこんこん。
合図の通りのノックに、小桃が扉へ飛びついた。
「遅くなってすまない。小桃、準備はいいか」
「はいっ! ありがとう、緋桐さん」
「風見高等神官様が道案内をしてくださる。いいな、お前は地方から来た商人の娘だ。それを忘れるなよ」
「はいっ!」
やってきた緋桐は真っ黒なマントをはおり、いつか見たのと同じ不格好な眼鏡をかけていた。まさにお忍びで夜遊びを楽しむお貴族様らしい姿だ。ちょっと小桃の恰好とは合わなかったろうか、と不安がよぎる。
緋桐は占い師姿ではない稲穂を見て、眉を寄せる。
「やはり共に来てはもらえないか」
「小桃様と同じことをおっしゃる。さ、お早く」
説明は不要、と稲穂は小桃にも暗い色の外套を頭からかぶせ、そのまま二人の背中を押した。誰にも見つからずに外へ出るには、少々のお転婆が必要だ。外廊下の手すりをよじのぼり、手こずる小桃を引き上げながら降り立つ先を確認すれば、細く灯りを灯すランプを持った風見がいた。いつもより冷めた目で、何を思ってか一つうなずいて見せた。
稲穂にとって唯一の大好きな場を使うことへの詫びか。
我慢をしろ、わきまえろ、と言い聞かせているのか。
どちらにせよ、稲穂の気持ちを晴らすものではなかった。
あの場所には、『山猫のしっぽ』には、行ってほしくなかった。
きっと小桃は目立つだろう。同年代の女の子、ならばメジロがほうっておくはずがない。あの気のいい客たちもそうだ。そうなれば、あっという間に小桃は人気者になる。自分より性格もやわらかく、明るく素朴で、かつ『神々の相貌』を持つ彼女ならば。
醜い嫉妬心にランプの灯りから顔を背ければ、小桃は小さな声で「いってきます」と言い手を振った。周囲を見渡すふりをしてその挨拶には何も返さない。
そしてゆっくりと三回呼吸を繰り返す。
もう灯りはどこにも見えず、稲穂は一人暗闇の中に取り残された。
無音、わずかな月影、青白い世界。太陽の光がいっぱいに差し込む大ホールは、夜になるとがらりと表情を変える。祈祷会の際に並べられる長椅子も赤いじゅうたんもすべて取り払われた、ただ一面真っ白な石床は、三等神官たちの手で毎日磨かれているだけあって塵一つない。
ひんやりと冷たく滑らかな感触が心地いい。
稲穂は寝間着に薄いローブを羽織っただけの姿で、大ホールの隅っこに座りこんでいた。
風見も高等神官として忙しい日々を送っている。時折、夜にいなくなることもある。そういうときは風見のベッドで眠りにつくか、こうして大ホールに忍び込む。
自分の淀んだ心と向き合いたくないなら、何も考えないのが一番だ。
祈りの声も神々の声もない世界。
稲穂であって、稲穂でなくてもいい世界。
だが、『山猫のしっぽ』とは違う、自分一人だけの小さな世界。
しばらくじっとしているうちに、月が動いたらしい。頬にあたる月光がやさしい。夜空には星が散らばり、いつになく美しかった。なんとはなしに手をのばせば、光を集めるように稲穂の腕が真っ白に浮かび上がる。
太陽を迎える天窓からは、満ちるにはまだ早い月がのぞいていた。満月、新円、完全なる美を描いていないことを、なぜか今は嬉しく思った。
「泣いているの?」
不意にかけられた言葉に、稲穂はハッとホールの入口を振り返った。
細身のシルエットは、ゆっくりと稲穂へと近づいてくる。
「いくら夏が近いとはいえ、冷えてしまうよ」
そう言って上着を差し出したのは、三等神官の涼也だった。金糸の髪がきらきらと光り、この場にはまぶしすぎるほどだ。
いつも浮かべているさわやかな笑みはなく、ぼんやりと稲穂を見つめている。そうすると人形のように作りものめいていて、これなら神の御使いといわれても信じるかもしれない、と稲穂は思った。
何も言わず、いつまでも手を伸ばさない稲穂にじれたのか、涼也は上着を広げ、稲穂の肩にかけてやった。そうすると自然と整った涼也の顔が目の前に近づいてくる。
「……ああ、残念。泣いていないのか。ここにひっそりと座り込む君は女神のようだった。泣いていればさぞ美しかったろうに」
涼也は青い目をすっと細め、稲穂の目尻に触れようとした。
なんだかいつもとは様子が違う。普段の王子様のような振る舞いの彼ならば、こんな夜におかしなことをしている女をまずは心配し、どうしたのかと気遣うのではないだろうか。
稲穂は奇妙な行動を見られた恥ずかしさをようやく思い出し、涼也の手をやんわりと払う。
「……何をおっしゃるのやら。上着、ありがとうございます。わたしはもう戻ります」
「まあせっかくだ、ゆっくりしよう」
ぐっと両肩に手をかけられ、稲穂は立ち上がれずぺたりとまた座り込んでしまう。その隣に無遠慮にあぐらをかいた涼也は、またぼんやりとした表情で天窓を見上げた。
「ああ、いい月だ」
「……新円ではありませんが」
「別にいいじゃないか。きれいなんだから」
「……え?」
やはりおかしい。神官ならば、太陽だろうが月だろうが、完全なる美を崇めるはず。それなのに、この欠けた月をほめるとはどういうことか。風見ならまだしも、今季最優秀にして期待の星の涼也が言うことか。
思わず目を丸くして隣を伺えば、涼也は背中をだらしなく丸めて懐を開き、小瓶を取り出しているところだった。
「いい肴がいて嬉しいや。女神の涙に乾杯」
「えええ?」
涼也はぽん、と軽い音をたてて栓をぬき、小瓶を傾けてまた月をあおいだ。
「ああ、うまい。グラスとか気の利いたものないけど、君も飲む?」
差し出された小瓶はほのかな甘さと、きついアルコールの匂いがした。
ずいぶんと間があきました。
こんなノリですが、ぽつぽつ書きたいと思っています。
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