やる気と素質
日の光が増す午後の早い時間は、部屋の中もぬくもって気持ちがいい。
稲穂は窓辺で日向ぼっこしながら悪戦苦闘する小桃を眺めていた。
「むりむりむり。わかんない。この本に出てくるヒトばかなの? 巨大な化け物の目玉がどうしてありがたがるの?」
「それは隠語です。化け物とはいってますが、これはお話の中の中心となる神様が敵対する別の神様を指しているのです。それに、眼球は丸いでしょう?」
「で?」
「きれいでしょう?」
「どんな理屈!?」
きいっと頭を抱える小桃だが、稲穂にはその苦悩がわからない。眼球は人体に有する唯一の球体とされている。それを美しいとする認識を小桃は受け入れがたいと言うが、稲穂としては常識中の常識だ。
毛嫌いしている宗教だが、思った以上に稲穂の中に浸透してしまっていたらしい。
「小桃様を見ていたらわたしのほうが不安になってきました」
「稲穂、それひどくない? そんなにあたしってダメ?」
「いえ。新鮮な気持ちです」
「ぜんぜん慰めにならないよ……」
「なら、お慰めしましょうか」
さきほど窓から上等すぎる四頭引きの馬車が見えたところだ。第一級の客を迎えて、案内されるまでおよそ十五分といったところ。
つまり、そろそろだ。
こんこんこん、という控えめなノックに稲穂はにんまりと猫のように笑った。すぐさま扉にかけよれば開いたそこから風見が顔を出す。
「小桃さんにお客様です」
「突然失礼。小桃、はかどっているか」
「緋桐さん、浅葱さん!」
水を与えられた花のように小桃はぱあっと笑みを見せた。
風見が連れてきたのは緋桐と浅葱だったのだ。
「俺も例大祭にむけて本格的に学ぶ段階になったので、こちらに出入りすることになった。風見高等神官様に指導をお願いする。顔を合わす機会も増えるだろう」
「ほ、本当?! うれしい!」
「勉強は進んでいるか?」
「うう、それが……。いままで信仰とは無縁の生活だったから……」
「世界と我々を創った神々のことをないがしろにしていたからな、お前は。これから学べばいいだけのことだ」
兄妹のように過ごした、というのは事実なのだろう。身分差を感じさせない自然さで互いにふるまっている。
その様子に稲穂は満足げにうなずいた。これで小桃の志気も上昇間違いなしだ。
「やー、元気だった? 稲穂ちゃん」
ぽん、と気安く肩に触れてきた浅葱に、稲穂は硬く礼を返した。
「本日はご足労いただきありがとうございます」
「稲穂ちゃんから呼んでくれてうれしいよ! 会いたかった」
「ええ、小桃様も喜んでらっしゃるようで、わたしも嬉しいです」
すすすと滑らかな足取りで距離を置き、風見の後ろにまわる。酒場でおかしな輩にからまれた際の慣れた動きだ。風見もそつなく笑顔をつくり浅葱に牽制した。
「浅葱様。稲穂は何分子どもなもので」
「や、失礼いたしました、風見高等神官様。ぜひ今度稲穂さんと食事に行く許可をいただきたいのですが」
「ふふ、コレが行きたがるかどうか」
コレ呼ばわりはもはや気にならない。稲穂は聞こえなかったフリをして小桃と緋桐のほうをむいた。緋桐は小桃の開く経典をのぞきこみながら何やら話し込んでいる。
「さっき稲穂から教わったんだけど、目玉ってきれい?」
「……神々の美的感覚だからな、それは」
「あのね、教わるのが怖いエピソードばっかりなんだよ。これなんて力ある神様がお互いひいきにしているヒトに味方して戦ってるんだよ? 勝ったほうを将軍にする、とかなんとか。怖いよね?」
「うむ……」
確かに神話、経典の中には血なまぐさい話も多々ある。しかし世界が、国が出来上がるとはそういったことも切り離せないのだ。
とはいえ大昔の神々に共感を抱くには難しい。信仰心の厚い緋桐も言葉につまるのだから、これは案外一般的なのかもしれない、と稲穂は改めて思った。しかしそこからつまづいていたらいつまでたっても先へは進めないだろう。
「小桃。神々はあくまで神々だ。自分の物差しで測れる存在ではない」
「そうなの?」
「そういうものだ、と理解していればいい」
「でもさ、それだと神様の言葉聞いても意味わかんなくない?」
「神官の役目は神々に仕えること。お声が聞こえなくても、理解できずとも、お仕えすることはできる」
「そ、そうなの……? じゃあなんで祈るの?」
子どものような、神官の意義そのものに迫るような質問に、緋桐は鮮やかに答えてみせた。
「この世に存在させてくれたことへ感謝を捧げるのだ」
「存在に、感謝?」
「キイチゴのケーキ。好きだろう」
「え? す、好きだよ」
「お前の母親。やさしいしっかり者だ」
「うん」
「牛のロマ。お前と仲が良かった」
「うん、懐いてくれた」
「お前がこの世に生まれなければ出会うことができなかった」
「あたしがケーキをおいしく食べられるのも、ヒトを創った神様のおかげってこと?」
「その通りだ。お前がこうしていられることを感謝することが、信仰への第一歩だ」
「……そっかァ……」
「お見事です」
ぱちぱち、という軽い音に振り向くと、風見がにこりとほほ笑んで拍手を送っていた。
「さすがは緋桐様。今年の例大祭が楽しみになってまいりました」
「いえ、ああ、高等神官様の前でお恥ずかしい。知ったような口を」
「とんでもない。並の神官ではできない素晴らしいお答えでした」
必要とあらばウソも世辞も辞さない風見が、珍しく本気で褒めている。以前言っていた、緋桐が神官にふさわしい能力を有しているというのも本気ということか。
稲穂はまた僻み根性がわきあがりそうになるのを無表情で抑える。それよりも、なんとなく祈祷にも経典にも前向きになっている小桃に自分の行いの成果を見出そうとした。
ねちねちと小うるさい物言いしかできない黒風からよりも、やはり緋桐に教わるほうがよほど勉強が進むらしい。ページをめくる速度がいままでとは比べ物にならない。
「ね、風見様。わたしも褒めてくださいます?」
「ん?」
「ご褒美ください」
「あとでな」
その答えと目配せに、稲穂は今日の『山猫のしっぽ』行きを確信した。とたん上向きになる自分のげんきんさには我ながら笑ってしまう。
不満そうな浅葱は無視だ。
「では、緋桐様。そろそろ」
「ああ、お願いします」
緋桐も小桃の勉強を見にきただけではない。例大祭での神の役を演じるにはそれなりにやるべきことが多いのだ。
席を立つ緋桐を、小桃は捨てられる子犬のような目で追った。
「……小桃?」
「あ、あの。えっと……。ごめんなさい。がんばる」
自分でも意識しないでやったことなのだろう。小桃は恥ずかしげに顔を伏せた。
「小桃。言いたいことはハッキリ。ね?」
もう一人の兄役である浅葱は、それを見過ごすような男ではないようだ。
小桃はきゅっと唇を結ぶと、わずかばかり迷ったあと、ハッキリと言った。
「がんばるつもりはあるよ! 神官になる。でも……ちょっとさみしい。王都に来てから、あたし一歩も神殿を出てない。……これからも出られないんだよね」
小桃の訴えはもっともだ。
神官とてある程度の自由はある。休日には街にでることだって可能だ。しかし、小桃のような神殿における最重要人物ともなれば気軽な外出も難しいだろう。
偶然にも得てしまった姿のせいで。
緋桐がそれに哀れみを覚えるのは当然だった。
そこまではいい。
「山猫のしっぽ」
はっと緋桐が稲穂を見た。
「風見高等神官。小桃を『山猫のしっぽ』へ連れていけないだろうか」
「山猫? なにそれ?」
何かはわからずとも、緋桐が自分のために何かをしてくれようとしているのはわかるのだろう。小桃は期待をにじませた顔をしている。
「いやァ~、あそこはどうかなァ? 緋桐様、あそこは女の子連れて国はあんまりいい場所とは……」
「あ、浅葱さん! それってどんなとこ? あたし行きたい!」
「あー……。ごめん」
そう言った浅葱の目は、蒼白になる稲穂へと向けられていた。
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