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リンゴと嵐




「こんにちは、黒風高等神官様。……おひとつ、いかがです」


 稲穂は黒風が嫌いだ。すれ違う際は必要最低限のあいさつのみを済ませている。それなのに思わずそう声をかけてしまうほど、今の黒風の顔色は悪かった。


「ああ、いただこう」


 珍しく嫌味一つ言うことなく稲穂からリンゴの砂糖漬けを受け取った黒風は、その場で静かに口に入れた。いつもは後ろに流している黒い前髪が少し乱れ、額に何本か垂れている。


「お前が作ったのか」

「はい。奉仕者の方々といっしょに」

「そうか。よくできている」

「恐れ入ります」


 これは本音だ。

 素直な黒風なんて、今まで十数年側にいたが見たことがない。


「今思えば、お前は神官ではないのによく学んだ」

「は?」


 もう珍しいを通り越して不気味になってきた黒風に、稲穂はあからさまに身を引いた。しかしそんな無礼な態度にも黒風は気づかないほど気力を消耗しているらしい。いつもなら嫌味交じりの叱責が飛ぶところなのに、ぼんやりと遠くを見たまま小さな声でつぶやくばかりだ。


「アレが未来の大神官かと思うと恐ろしい……」


 黒風がおかしくなった原因は小桃か。

 稲穂はささっと頭を下げると、小桃がいるであろう小会議室へ小走りに向かった。

 



 突如降ってきた雪に埋もれた、瀕死の小鳥。

 稲穂は机に倒れ伏す小桃に、そんな哀れな小動物の姿を重ねた。


「お疲れのようですね」


 小桃の向いに座ってリンゴの砂糖漬けを差し出すと、小桃は腕だけを伸ばして行儀悪く食べだした。


「疲れるってもんじゃないよ。なにあれ、拷問だよ! 神経めちゃくちゃ削られたよ! あたしの寿命も減っちゃったんじゃないの!?」


 小桃がそう嘆くのも無理はない。教育係が黒風に変わったことで、小桃の生活リズムは大幅に変更された。稲穂と一緒に行っていた雑用を免除されるかわりに、その時間をすべて勉強にあてることになったのだ。

 とはいえつきっきりで指導できるほど黒風はヒマではないので、実際に向き合う時間は二時間ほどだ。だが、その分しっかり自分で学ぼうとしないと、黒風から怒涛のお説教を食らうことになるのだ。

 小桃はずいぶんと苦しめられているようだが、実のところそれは黒風も同じなようだ。お互いどうすればこんなに辛い目にあえるのだろう。


「なんとかの女神はかんとかの時どのようなことを当時の大神官に宣告したか。なに、わからない?この部分を読んでおくように伝えたはずだが、あなたはどこを見ていたのか? ……そんなこと言われても、すぐには覚えられないって!」

「黒風高等神官はネチネチとした物言いをされる方です。気になさらない方がいいですよ」

「それだけじゃなくって。今日は神様の声、よく聞き取れなかった」


 今日の昼過ぎ、小桃は高等神官たちが見守る中初めての祈祷を行った。形式も何もなく、ただ小桃がご神体に額づくだけ。特別なのは大ホールを貸切にした、ということくらいだ。おかげで他の神官たちは小ホールや外の庭に追いやられてしまった。


 そしてその結果は、あまりに多くの声が頭の中に鳴り響いたために小桃がひっくり返るという悲惨なものだった。「うるさくて集中できない!」と文句が出たあたり小桃らしいというか、なんというか。


「次はうまくいきますよ、きっと」

「そうかなァ……。うう、こんなことならもっとちゃんと小さいときから神様について興味もっとくべきだったよォ」


 文句を言いつつも小桃は与えられた経典の文字を目で追うことを止めない。


「……小桃様は、どうしてそんなに熱心にお勉強なさるのですか」

「え?」


 ふとわいた疑問を口にすると、小桃はリンゴをくわえたまま首をかしげた。


「そのお姿ですから逃れることは難しいかとは思います。ですが、もう黙っていたって神官になるのです。そんなに頑張ることもないのでは」

「う、う~ん」


 小桃はきょろきょろと目を泳がせる。


「あたし何のとりえもなくって」

「お顔があるじゃないですか」

「いやいやいや、一般的にこの顔はとりえになりえないって。繕いものとか料理とかも下手だし、あんまり体力ないから畑仕事も苦手で。だから、いきなり押し付けられたって感じがなくもないけど、あたしにできることがあるっていうのはちょっとうれしい、というか」

「ふぅん」

「村の人たちもびっくりしてたけど、みんな喜んでくれて。えっと、その」

「……緋桐様も。なるほど。ほォ」

「わァ! 違うよ! もう!」


 稲穂が付け足してやると、わかりやすいくらい小桃は狼狽した。その姿に稲穂はようやく納得することができた。


 なぜ小桃が嫌っているはずの神殿へ赴き、素直に神官になる道を選んだのか。


 小桃は健気だ。流されるままにここに連れてこられたのかと思っていたが、案外自分の立ち位置というものを理解していた。


 まず自分に与えられたギフトに対し、嫌悪感より自分だけの役目を見つけられたという喜びを見出している。小桃の素直でまっすぐな性質がうまく作用したのだろう。

 確かにまだ神官という特殊な役柄についての理解は乏しい。だが、自分への評価が村への評価、ひいてはそこを管理する一等貴族夏野家緋桐の評価につながることをしっかり自覚しているのだ。


 小桃はまだ不慣れで不安や戸惑いを隠せていない。だが、前向きだ。自分の運命の波を乗りこなそうとしている。


 だからこそ神経を削らせるほど必死になるのだろう。

 なるほど、ここにも恋する乙女がいたのか。やはり、強い。

 

 ついほころんでしまう口元に、小桃が強引にリンゴを突っ込んできた。


「ぶっ」

「稲穂も食べなよ! おいしいよ! わー、リンゴ最高!」

「………」

「に、睨まないで。ごめん」


 稲穂はじっとりと小桃を見据えたまま、リンゴを咀嚼し飲み込んだ。


「今から百五十年ほど前、北東の役の折大神殿に降臨した女神は誰か?」

「へ?」

「そのとき女神と言葉を交わした大神官の名は?」

「え、あ」

「女神はそのとき何を伝え、それを受けた王は何をなしたか? そしてその結果は?」

「あ、ちょ、待って」


 矢継ぎ早に問題をだす稲穂にあわてふためきつつ、小桃はおろおろと経典のページをめくる。


「答えは今開いている経典の中にあります。小桃様のお志は実にご立派。わたしも微力ながら協力いたします」

「うええええッ!」

「がんばってくださいね」

 

 小桃のやる気は認める。

 だが、どうにも空回りしがちなのは性分なのかもしれない。これでは黒風の苦労もうかがえるというものだ。


 稲穂がちらりと目の前の黒板を見れば、黒風のカチカチとした字で稲穂が出したばかりの問題の答えが解説されていた。


 稲穂は小桃が黒板には目もくれず、まったく的外れな章を読んでいることを確認しつつ、小会議室を後にしたのだった。




「で、こっちはこっちでお忙しそうですねぇ」

「そう思うなら俺にもリンゴを寄こしたらどうだ?」


 風見は自室にて大量の木札に囲まれていた。

 これに力ある文字を記し、神官が念をこめれば護札になる。


「風見様の作ったものとうたえば大層売れますからねぇ」

「売るんじゃない、お授けするんだ」

「はーいはい」


 稲穂はペンを握ったままの風見の口に砂糖がこぼれないようリンゴをくわえさせ、また一人で優雅にお茶を飲む。


「ああああ、書いても書いても終わらない!」

「まさか神官がこんなヤケッパチで書いてる護札だとは皆様は思わないでしょうね」

「こんなときにいきなり面倒なのが飛び出てくるから悪いんだ!」

「未来の大神官様になんと不敬な」


 からかいまじりに笑うと、風見はぎろりと稲穂を睨んでペンを置いてしまった。すっかりやる気がそがれたらしい。

 両手で頭をかきむしり、リンゴをがじがじと噛んで八つ当たりしている。


「その未来の大神官様の成長具合で今度の例大祭の内容がガラっと変わるんだよ。黒風高等神官は最初こそ目立つ場所に彼女を据えようとしていたが、どうも考え直す必要がでてきたとかでプランの練り直しだ。会議会議で空いた時間には札作り。ふざけるなよ!」

「おつかれさまです」


 このあたりが限界と見計らい、稲穂は温かいお茶を机に置いてやる。たまに休憩を淹れさせないと、風見は仕事をつづけながらも延々と愚痴を言い続ける。


 風見は一息に飲み干すと、二杯目を仕草で要求しながらため息をもらした。


「声が聞こえるってのはいいんだ。落ち目の大神殿としちゃあ大歓迎だろうよ」

「でも、簡単にお披露目はできませんね」

「そこだ」


 稲穂の見たところ、あの小桃の様子では普段の祈祷会でさえ出席させることはできないだろう。ずるずると裾のながい神官服につまずいて転ぶ未来しか見えない。下手をすると自分の力をコントロールできず、勝手気ままに神との会話を始めてしまう可能性もある。


「夕食のメニューくらいならいいが、政治的問題なんか口にされたら目も当てられないな。爆弾みたいに扱いが難しい」

「黒風高等神官様も同じお考えのようで、神々の言葉がこれまでどう国の大きな問題と関わってきたのかを講義しようとなさっているみたいです。でもそれを小桃様がわかっているかどうかは、ちょっと。お勉強は苦手のようで」


 その反動であの黒風が自分を褒めたのだと伝えれば、風見は口をへの字に曲げた。


「恐ろしい逸材だな、ホントに。……なァ、稲穂。実際どうなんだ、あの子は」


 探るような風見の視線に、稲穂は肩をすくめた。

 小桃の存在は小さな嵐のようだ。

 否応なしに周囲を巻き込んで混乱させている。


「何か手はないか。お前が一番近くにいるだろう」

「ん……」


 稲穂は甘い砂糖漬けのリンゴを手に、じっとそれを見つめた。


 小桃の原動力、それは何か。


「ねえ、風見様。恋する乙女って、とっても強いのですよ」


 ごめんなさい、メジロさん。でもこれは緋桐様のためでもあるんです。後で必ず埋め合わせをしますから、ちょっとだけ許してください。




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