それぞれの昼
祝詞の複雑な言い回し、特殊な発音、意味のわからない単語。
巨大な神が体を横たえるとなぜ大地ができるのか、その血脈がなぜ大河となるのか、頭がい骨がどうして天空になるのか。理屈のわからない神話、いわゆる経典。
小桃にとって茜高等神官の講義は、理解しかねることでいっぱいだった。もともと神殿や信仰と馴染みが薄かったために、基礎の基礎からのスタートというのも辛い。
「そう難しく考えることじゃないのよ」
頭を抱える小桃に、茜はふわりと言った。
「わたしたちの神様たちはね、感情豊かでおもしろいことが好きな楽しい方々なの。恋もするし、歌も歌うし、踊りも踊るわ。それに構われたがり」
「か、かまわれたいのですか?」
「そうよ。だから神官たちがお祈りを捧げると喜んでくださるの。わたしたち神官がしていることはね、偉大なる御神々のご機嫌伺いなのよ。一応決まりはあるけれど、お祈りをするときは小桃さんが思った通りにやればいいと思うわ」
「そんなもんですか? あたし、これまで本当にそういうの縁がなくって……」
小桃が力なく問うが、茜は笑顔のままだ。
「平気よ! ただ一つだけ覚えてさえいれば」
「え、なんですか?」
「御神々はね、ヒトとは全く違うの。俗な面も高貴な面もたくさん持ってるけれど、それはヒトが判断したものにすぎないの」
「……つまり?」
「どこに逆鱗があるかわからないの。御神々を『畏れる』ことだけは、けっして忘れないで。むかァし、その逆鱗に触れちゃったとかで町が一つ地図からなくなった記録もあるわ」
あとは何をしても大丈夫よ!
朗らかな茜に対し、小桃はひきつる口元を隠すことができなかった。
小桃がげっそりとしながら講義を終えて、教室がわりになっている小会議室を出た。ようやく楽しいお昼の時間だ。ここに来てからというもの、楽しみは稲穂との雑談か食事しかない。
すると、そこに立ちふさがる影が複数。
「こんにちは、小桃さん」
「あ……こんにちは」
小桃が顔をあげると、友好的な笑みを浮かべる年若い神官がいた。教わったばかりの知識によれば、神官服の色が濃い灰色なのは三等神官であることの証だ。長い赤毛をきっちり一つに縛った彼女は、田舎者の小桃から見ても垢抜けたきれいな子だった。その後ろでしとやかに笑みを浮かべているほかの女性神官たちも皆それぞれ美しい。
神々は面くいなのだ。絶対そうに決まっている。
「これからお昼ですよね。ご一緒したいと思って、ここで待っていたんです」
「あたしとですか?」
「もちろん! 慣れないこともおありでしょう?」
「そうですね、まだここに来て三日ですし……」
「いろいろお話しましょう。小桃様と仲良くなりたいんです」
「こちらこそ、よろしくお願いします。あ、様はいらないんで」
彼女たちに連れていかれたのは、何度か通った食堂だった。この大神殿には百人近い神官が生活しているが、この食堂は全員が収まるほどの広さがあった。調理場に面したカウンターでは、街から来ている一般の奉仕者と若手の神官が協力しながら給仕をこなしている。
「ねえ、小桃様はどちらからいらしたの」
「あたしは隣国に近いアマリっていう村出身です。知ってます?」
「アマリ……。ごめんなさい、聞いたことがないわ。わたしたち、実は地理に詳しくなくって。どんな場所?」
「そうよね、神官学校に入ってからあまり外を歩かないから」
「大神殿はどう? 気に入った?」
「今回の憑代の一等貴族様とお知り合いなんでしょう、どんな方?」
長テーブルに小桃を取り囲むように座った女神官たちは、好奇心に目を輝かせながら小桃を質問攻めにした。
同年代の女の子と接する機会の少なかった小桃だ。ちょっと困惑もするが、ちょっと楽しい。
できるかぎり丁寧に答えていくが、とある質問で空気がガラッと変わったのがわかった。
「御神々のお声が聞こえるって本当?」
それまで別の会話をしていた他の神官たちも、すっと視線を小桃へ向ける。
そのあまりの強烈さに、小桃は思わず黙って首を縦に振っていた。
「ほ、本当に神代の相貌なんだ」
誰かの呟きを皮切りに、一瞬静まった場が一斉に騒がしくなった。
「どんな声!? 今までどんなことを聞いたの!?」
「いや、そんなたいしかことじゃないよ! ほんとに! 昨日だって夕食のメニューの変更がわかっただけだったし」
「ウソ!? 昨日も!? なんてことなの、そんな簡単に!」
「や、や、騒がしくってよくわからないときのが多いし」
「騒がしい!? そんなにハッキリ聞こえるというの!?」
小桃が何を言っても彼女たちの興奮はおさまりそうになかった。
驚きつつもあくまで小桃を気遣ってくれた稲穂とはだいぶ違う反応だ。やはり神官にとって神々の声というのはそれだけ特別なものなのだ。
「すごいわ、やっぱり本物は違う……!」
「まるでおごったところがないもの。こういうヒトを御神々は好むのね」
「ええ!? そういうんじゃないよ! 誤解しないで! あたしは本当ただの一般庶民で!」
感心しきり、といった様子の面々に、小桃は必死で否定する。しかしそれすら謙遜ととって、神官たちは頷くばかりだ。
「これが神代の相貌を持つヒトなのね。ああ、よかった。あなたがここに来てくれなかったら大変なことになっていたかも」
「た、大変なことって?」
心底安堵したように言うのは、稲穂に一番つっかかっていた友江だった。彼女は強烈だったから小桃もよく覚えていたが、今の彼女は聡明そうな明るいしっかり者といった感じで印象がだいぶ違う。
それでも、ほら、あっちよ、と指さしたときの表情は前と同じだ。
「あなたの偽物」
友江が指さした先には、高等神官たちに給仕する稲穂の姿があった。
こうして少し離れたところから見ても、稲穂は抜きんでて目立っていた。特に風見と寄り添う姿は一枚の絵のようだ。お互いの雰囲気が溶け合って、ぴったりと一つになっているように小桃には見えた。
「ああやって風見高等神官様に取り入ったのよ」
「……稲穂は、どういう子なのかな」
であってからまだ三日とたっていない。だが、小桃にとってはここでの生活の命綱のような人間だ。
「イヤな子よ。あの顔と権力を笠にきて、好き放題しているの。わたしたちの代の男神官なんて、もうみんなだまされてるんだから」
「だます? 稲穂が?」
「甘い言葉でそれとなく誘うの。小桃さんも気を付けてね。あの女にだまされちゃダメよ」
小桃は頷きながら、稲穂の言葉を思い返していた。
稲穂ってどうして先のことがわかるんだろう。やっぱり、稲穂こそ『本物』なんじゃないかな。
「いいですか、友江様という三等神官には注意してください」
「へ?」
そう稲穂が言ったのは、昨日の掃除の合間のことだった。
「きっとすぐにでも小桃様に接触してくるでしょう。わたしから小桃様を引き離すために」
「ええ!? どういうこと!?」
仰天する小桃に、稲穂はあくまであっさりと言った。
「決まっているでしょう、わたしの毒牙にかかる前に、清廉なる神代の相貌の持ち主を救い出すためです」
「救うって、なにそれ。あたしは稲穂といたいよ」
「嬉しいお言葉ですね。ですが、あまりわたしとは表だって親しくしない方がよろしいでしょう」
「なんで?」
「さっき小桃様もおっしゃったではありませんか。わたし、一部の女性からはひどく嫌われております」
「あ」
小桃は口を大きく開けた。
稲穂は艶が過ぎる笑みを浮かべ、物覚えの悪い子どもにさとすようにゆっくり言った。
「これからの小桃様の生活を考えても、友江様とは仲良くしていた方が絶対に得です。会話って、共通の敵をつくるとすんなりうまくいくんですよ」
「で、でも。稲穂を敵にしたくないよ」
仲良くしていたいのは当然として、敵に回すほうがよほど怖い気がする、と素直に言った小桃に、稲穂はまたくすくすと笑った。
「気にすることはありません。いくら口でわたしを嫌うといっても、わたしが小桃様の世話役なのは変わりません。仕方なしに付き合っている、という態でいるのです」
「んん、でもなァ。ウソって苦手で」
「あら、ウソつく必要もありませんよ。隠すことは隠して、言うことは言えばいいのです。これもさっき小桃様がおっしゃったことでしょう? それを言えば友江様からの信頼はバッチリ得られますよ」
小桃は教わった通り思ったことを口にした。
「稲穂って、男手玉にとるのうまいよねぇ」
「そう! そうなのよ! もう男どもったらあんなわかりやすい媚にすーぐひっかかるんだから!」
友江は鼻息荒く言い募る。
「でも、結局は小桃さんにはかなわないわ! なんたって本物だもの!」
「いやー、でも稲穂には勝てないよね。だって稲穂だもん」
「ふふふ、そんなことないわ。結局あの子は神官ではないもの。ああやって風見高等神官様にベッタリ張り付いていても、なんにもならないのだから」
「なんにもならない? どういう意味?」
「どんなに媚うっても、あの稲穂はこの大神殿の中じゃ誰とも結ばれないのよ」
「御神々はけっこう悋気が激しいの。自分に仕える神官は自分の所有物だとお思いになる。だから、神官が自分より優先する配偶者をつくるのを好まないわ」
「かわりに、所有物同士の婚姻はむしろ喜ばれるの。だから神官は神官としか結ばれない、ということよ」
「ああ、神官は神官としか結婚できないって、そういう理由なんだ!」
きゃらきゃらと笑いながら教えてくれる神官たちは、年相応の女の子といえた。狭い世界の中で許された娯楽の一つなのだろう。そういう意味では、小桃がいた村も同じだった。身分違いにもほどがあるが、緋桐と浅葱にあこがれる女たちは多かった。他に見目のいい若い男がいなかったというのもある。
友江が稲穂をひどく敵視する理由もそこにありそうだ。小桃は珍しく女の勘というものを働かせた。
「友江さんは風見高等神官様が好きなの?」
「ええっ!?」
聞いたことがバカらしく思えるくらい、友江は分かりやすい反応を示した。耳も首も真っ赤に染め上げ、目をうろうろとさせている。
「友江は風見高等神官様一筋なの。からかってはダメよ」
「そうよそうよ、昔っから稲穂さんへの敵意と同じく、変わらないんだから」
「そういうんじゃないわ! ただ、ふさわしくない者があんなステキな方の側にいるのが許せないってだけ!」
友人たちのからかいに動揺しつつ、友江はきっと小桃を睨んだ。しかし力はなく、ついつい小桃も笑ってしまう。
「あはは、たしかに風見高等神官様ってかっこういいよねぇ。気持ちはわかるよ」
「もうっ、ひどい!」
華やかな笑い声が響く。神官とはいえまだ十六の少女には変わりない。
ちょっとしたからかいと恋と噂話。
小桃は初めての体験に、胸を躍らせていた。
そんなふうに年若い子どもたちがはしゃいでいる一方で、大神官、高等神官が並ぶテーブルでは普段通りおだやかに時間が流れていた。
この特別な場所の給仕は、三等神官が当番制で行っている。しかし風見付である稲穂は例外なく毎日駆り出されていた。
緊張に青ざめる三等神官の少女をさりげなくフォローしつつ、稲穂は仕事をこなす。別に優しさではない、効率の問題だ。
それに、風見に茶を注ぐ役目を譲る気はない。
「稲穂」
「はい、風見様」
「おとなしくしているんでしょうね?」
風見の目は、少々はしたなく騒いでいる三等神官たちの座席へと向けられている。
お茶のお代わりを注ぎつつ、稲穂は素知らぬ顔で言った。
「わたしはいつでもおとなしいですよ」
「それが本当ならどれだけ我々の気苦労が減ることか」
そう言ったのは風見ではなく、その隣で苦々しい表情を浮かべる黒風高等神官だった。
「まあ、わたしがいつ黒風高等神官様にご迷惑をおかけしましたでしょうか」
「お前に関する風評被害の声はやむことがない。小娘、少しは素直になることを覚えろ」
何かとイチイチ嫌味ったらしい。誰が給仕などしてやるものか。
そう思う稲穂だったが、これみよがしに空のカップをもてあそぶ黒風に、震えたまま近づくこともできない三等神官。むずむずと騒ぐ従者根性に負け、稲穂はため息を隠すことなく黒風のカップへお茶を注いだ。
それを当然と受けながら、黒風は眉間のしわを深くする。
「風見高等神官、この娘はあなたに甘えすぎなのではないか? なんならわたしが直々に指導してやってもいい」
「ははは、黒風高等神官の指導があれば少しは変わりますでしょうか」
「断固お断りですっ!」
「ほらっ、風見高等神官様だけじゃないわ、黒風高等神官にもなんだかんだと親しくしてっ」
「黒風高等神官は男前だけれど怖くて誰も近づけないだけじゃない」
「もうっ、なによォ!」
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