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Re^2 (Rescuer); of the Frankenstein's Monster  作者: 刹多楡希
Appendix (付録)
48/48

Revelation of Birthday of the Frankenstein's Monster

フランケンシュタインの怪物の誕生日についての考察です。

長い評論の様なもので、物語の要素はありません。

Revelation of Birthday of the Frankenstein's Monster

(フランケンシュタインの怪物の誕生日の真実)



・概要


 フランケンシュタインの怪物の誕生日は、1793年11月16日である。


 メアリー・シェリー作『フランケンシュタイン あるいは現代のプロメテウス』は、架空とされている小説です。しかしながら、舞台背景や時代設定は曖昧ではありません。

 作中に散りばめられた、日付、実在の出来事、作品などの時間標識から、年表を作成する事が出来ます。

更に、月の満ち欠けの情報を元に、日にちについても推測する事が可能です。

 

 一部、恣意的に決めなければならない所がありますが、以下、物語の時系列および、怪物の誕生日がなぜこうなったかについて考察していきます。


・年表

時間標識を元に作成した年表は以下の通りです。

挿絵(By みてみん)




目次


・概要

・年表

・時間標識一覧

・時間標識の矛盾点と考察

・怪物の誕生日の日付の推定

・結論

・参考文献



時間標識一覧


 小説の舞台となっている年代を示す手がかりである時間標識を、小説の登場順に列挙していきます。

 『フランケンシュタイン』は入れ子構造の為、一部、物語の時系列と異なっている箇所もありますのでご了承ください。


・時間標識1:ウォルトンの手紙

 冒頭のウォルトンの手紙1(12月11日付、サンクトペテルブルク(St. Petersburgh))より、17xx年となっている事から、物語の舞台となる世紀は1700年代と特定できる。


・時間標識2:『老水夫の歌』へのウォルトンの言及

 ウォルトンの手紙2(3月 28日付、アルハンゲリスク)で、ウォルトンが、コールリッジの『老水夫の歌』に言及している。

 『老水夫の歌』が収録された『リリカル・バラッズ』が出版されたのは 1798年 10月なので、小説の冒頭(物語としては終盤)は 1799年だと確定できる。


・時間標識3:ヴィクター発見時の日付と曜日

 ウォルトンの手紙4より、8月1日にウォルトンが、ヴィクターを発見する。( 7月 31日の翌日という記述から)

 ここで、7月31日(月曜)と書かれている。日付と曜日の組み合わせは、年によって異なるため、ある程度年代が分かれば推測する事が出来る。

 グレゴリオ暦で、7月31日が月曜になるのは1797年である。

しかし、『老水夫の歌』の時間標識2と矛盾している。矛盾しない1799年では、水曜日である。


 後述の矛盾点の考察でも述べる様に、時系列的にも不可能である事に加え、この日付が正しいかどうか疑わしいため、この時間標識は無視する事とする。



・時間標識4:ヴィクターのインゴルシュタットでの研究

 第三章冒頭より、ヴィクターは17才の時、インゴルシュタット大学に入学する。

母親の死の影響で少し遅れて入学している。

 時間標識9から逆算して、1789年の事と思われる。


その後、2年間勉強を頑張り続けた後、怪物創造のインスピレーションを受ける。

(Two years passed in this manner, during which I paid no visit to Geneva)

その為、 19才の時、おそらく1791年の頃から、怪物の創造を始めたと思われる。


 怪物を創造する第5章冒頭に、二年近く研究してきたとある。

約2年後、ヴィクター21歳の時、怪物を創造する。

 時間標識9から逆算すると、1793年11月の事である。



時間標識5:引用作品の時代錯誤

 第5章で、ヴィクターが逃げ惑っている時に、コールリッジの『老水父の歌』が引用されている。ヴィクターが言ったとすると、怪物の誕生した時点で 1798年以降となり、物語の終盤では 1800年代に突入してしまい、多くの時間標識から矛盾する。

しかし、ヴィクターが直接言ったとは書いていないので、『老水夫の歌』が好きなウォルトンが勝手に加えたり、ヴィクターが後で知って、会話に用いた可能性が大きい。

その為、この時間標識については無視する。


 18章終盤のクラーヴァルのシーンに引用されているワーズワースの『ティンターン僧院』についても、老水夫と同じ『リリカル・バラッズ』と同様の事が言える。


 10章では、夫パーシー・シェリーの詩『無常』が引用されている。

 フランケンシュタインの初版はパーシー・シェリーの作品だとも思われていたし、明らかに意図的に入れていると思われるので、これも時間標識から除外する。



・時間標識6:エリザベスの手紙

 第6章冒頭にヴィクターが回復した際に受け取るエリザベスの手紙があり、日付が 3月 18日(March 18)となっている。

つまり、11月に怪物を造ってから、 ヴィクターは、最低でも4ヶ月ほど寝込んでいた事が分かる。

 時間標識9から逆算すると、1794年3月だと思われる。



・時間標識7:アーネストの生年

 また、同じ第6章冒頭のエリザベスからの手紙の中では、ヴィクターの弟アーネストについて、 "He is now sixteen"と記載されている。

 1794年3/18までに16歳という事になるので、逆算すると、アーネストは1777-8年生まれである。

 兄ヴィクターとは 6、 7歳違いだと推測される。



・時間標識8:クラ―ヴァルとの交遊

 その後、ヴィクターの体調は回復する。

第六章中盤で、夏がクラーヴァルとの勉強で過ぎ去り、その後、ダラダラとスイスへの帰郷が長引き、来年の春になってしまった事が語られる。

(Summer passed away in these occupations, and my return to Geneva was fixed for the latter end of autumn; but being delayed by several accidents, winter and snow arrived, the roads were deemed impassable, and my journey was retarded until the ensuing spring. )


ここまでで、怪物の誕生から年が二回変わっている事が分かる。

時間標識9から逆算すると、この時点は、1795年春だと推測される。



・時間標識9:ウィリアムの死の日付と曜日

 7章冒頭の5/12の父の手紙があり、先週の木曜( 5月 7日)(Last Thursday (May 7th))にウィリアムが殺されたとある。

 時間標識3と同様に日付と曜日の組み合わせを調べると、グレゴリオ暦では、1795年5月7日が木曜日の条件を満たす。

 その一つ前は、1789年が該当するが、古すぎる為、他の多くの時間標識と矛盾する。


 そのため、ウィリアムが殺されたのは1795年5月7日だと考えられる。

 ここから逆算すると、怪物の誕生は1年以上前の 11月なので、1793年 11月となる。



・時間標識10:ヴィクターのジュネーヴ帰還までの回想

 7章冒頭の5/12付の父の手紙を受け取り、ヴィクターは急いでジュネーヴに戻る。

1795年の5-6月頃には戻ったと推測される。

 ジュネーヴに戻って家族と再会した時に、故郷を後にしてから約6年経ったとヴィクターは回想している。

つまり、自然哲学の基礎の勉強2年、怪物の創造2年、怪物創造後の療養とクラ―ヴァルとの勉強や旅行の2年、計6年である。

 1795年の6年前は1789年であり、ヴィクターはその頃に、インゴルシュタット大学に入学した事になる。



・時間標識11:ジュスティーヌ処刑の時期

 第9章中盤で、ウィリアムとジュスティーヌの死に疲れたヴィクターは、8月半ばにモン・ブランの近くへの旅行を始め、そこで怪物と初めて対話する。その際に、それがジュスティーヌの刑死から約 2ヶ月とかかれている。

 ここから、ジュスティーヌの処刑が、1795年6月頃だと分かる。



・時間標識12:若きウェルテルの悩み

 第15章で、怪物 がゲーテの『若きウェルテルの悩み』を読んでいる。

 『ウェルテル』が出版されたのは1774年である。また、怪物が読んだ時、まだ生まれてから2年も経っていない為、怪物が生まれたのは 1772年以降となる。



・時間標識13:ヴィクターのイギリス滞在

 第18章中盤に、9月末にイギリスに向かって旅立ったとある。

 終盤では、 12月下旬にイギリスに着いた。

(latter days of December, that I first saw the white cliffs of Britain. )

 また、第19章でロンドンに数ヶ月滞在し、3月 27日(翌年)にロンドンを立っている。

順当にいけば、1796年3月27日となる。


・時間標識14:オックスフォードでの清教徒革命への回想

 第19章で、ロンドンを発った後、オックスフォードにヴィクターが立ち寄った際、チャールズ一世が処刑された清教徒革命(1642年)について触れ、それから 1世紀半以上経った事が記されている。

(From thence we proceeded to Oxford.

As we entered this city our minds were filled with the remembrance of the events that had been transacted there more than a century and a half before.

It was here that Charles I. had collected his forces.)

従って、第19章での年代は 1792年以降となるとJ・J・ルセルクルは主張している。

(『批評理論入門』 (廣野由美子著)、 1小説技法篇、 6・時間の章でも触れている)


 しかし、ルセルクルはヴィクターが言及しているのは清教徒革命(1642)と主張しているが、オックスフォードに着いた時にチャールズ1世の死と絡ませながらの発言である為、清教徒革命後に、チャールズ一世がオックスフォードで軍勢を集めて、最後の戦い( Siege of Oxford)をした、1646年 4 月頃の事だとも取れる。

 その場合、それから150年後は、1796年4月以降となる。

 ヴィクターは1796/3/27にロンドンを発っているので、オックスフォードに着いたのは4月頃だと考えられるので、こちらの方が適していると考える。



・時間標識15:怪物の伴侶の破壊

 19章で、伴侶の創造を行うオーク二―諸島に7月末に着く予定といっている。

 その後、20章にて、ヴィクターが怪物の伴侶を完成間近になって破壊する。その際に、3年前に怪物を作り上げたと記述している。

 1793年11月に怪物を創造したとすれば、1796年11月以降となる。


また、冒頭に、日が沈み月が登ろうとする夕方に、ヴィクターは実験室にいたとある。

(I sat one evening in my laboratory; the sun had set, and the moon was just rising from the sea)

一般的に、満月は日没と同時に出る為、満月から数日経った頃から、下弦の月までの頃だと思われる。

月齢から考えると、1796年11月15日満月から、21日下弦の月の間に伴侶が破壊されたと考えられる。



・時間標識16:ヘンリー殺害疑惑によるヴィクターの投獄

 21章終盤で、ヘンリーが怪物に殺され、容疑をかけられたヴィクターが三か月間、監獄に閉じ込められた。

 22章で、ヴィクターが釈放され、スイスに帰るためにパリに滞在している時に、エリザベスの手紙が届く。その日付は、5月 18日である。

 従って、ロンドンを経った 3月 27日から最低一年は経っている事が分かる。

 おそらく、1797年の事である。



・時間標識17:エリザベスの結婚と死

 22章で、エリザベスから手紙を貰った約一週間後、ヴィクターは故郷に帰る。そして、同日にエリザベスとの結婚を10日後に行う事が記されている。つまり 5月18日の 17日後なので、 6月 4日以降である。


 エリザベスが殺された際に、怪物と月が見えたという記述があるので、月のある日である。

 1796/6/4-23がその条件を満たしている。

 ちなみに満月は6月9日であり、手紙が届く際の日数等も含めると、ちょうど良い日時となる。


・時間標識18:ヴィクターの発狂

 23章で、エリザベスと父の死後、ヴィクターが狂ってしまい、何ヶ月か監獄に入れられる。

(For they had called me mad, and during many months)

 その後、釈放されてから一ヵ月後 (about a month after my release)、判事に事件を話すが認められない。


 この時点で、最低 3ヶ月は経っている事が分かる。エリザベスの結婚があったとされる6月 4日から 3ヵ月後は 9月 4日である。

一方、ウォルトンがヴィクターを発見するのは、8月1日である。

その為、エリザベスが亡くなった同年に、ウォルトンに会う事は不可能である。

この間に、1年以上は経過しているため、ヴィクターがジュネーヴを去るのは、1798年以降となる。



・時間標識19:ヴィクターのジュネーブ出立

 24章で、ジュネーヴに戻り引きこもっていたヴィクターが、家族の墓の前に現れた怪物に復讐するため故郷を捨てて、追いかけ始める。

 ジュネーヴを去った時期については不明だが、ヴィクターが去った後に、フランス共和国のジュネーヴ侵攻(1798年 3月)及びヘルベルティア共和国の建国が起きないと、矛盾が生じると主張している。


 しかしながら、第23章の最後で、ヴィクターは判事の家を出た後、半ば錯乱しながら引きこもっているので、ジュネーヴが占領されてもほとんど関心を抱かなかった可能性もある。

 現に唯一の生き残りの家族であるアーネストについて、世話をされたとも、どこかに行ったとも記述が全く存在しない。


 従って、1798年3月のジュネーヴ侵攻の混乱時や、その後に去った可能性も充分考えられる。

マルキ・ド・サドの『ジュスティーヌ』と原作の関係性は多くの文献で指摘されているが、ヴィクターにサドの影響を見るのであれば、サドはフランス革命前に投獄され、革命後の1790年に釈放された様に、ヴィクターも、ジュネーヴの統治機構が劇的に変わった際に釈放された可能性がある。

 平時であれば、むしろ、アーネストか世話役の誰かが引き留めるはずである。それがないのは、占領により周囲が混乱していたと考える方が筋道が立つ。


 確実に言える事は、ヴィクターが正気を保っていたエリザベスの結婚前までは、ジュネーヴ侵攻はなかったと考えられる。

 その為、この時間標識については、1797年以前にヴィクターがジュネーヴを去ったという条件は守る必要がないと考える。


 また、丸い月に照らされて怪物の醜い姿が見えたとある事から、ヴィクターが満月の夜にジュネーヴを出発した事は確実である。


・時間標識20:ヴィクターの怪物追跡行

 ヴィクターは怪物を何か月も追いかけたと言っている。

(I pursued him, and for many months this has been my task. )

 ここから、最低数ヶ月以上、怪物を追いかけている事が確認できる。

 単純な直線距離で、ジュネーヴからアルハンゲリスクまでは3500㎞ほどある。

 馬で一日30km移動したとしても、4ヶ月近くかかる道のりである。


 24章で、怪物を追いかけて、ユーラシア大陸から北極に移動した約3週間後に、ウォルトンに発見されたとある。つまり、7月頭頃には、北極に辿り着いたと思われる。


・時間標識21:ヴィクターの死と怪物の最期

 最後の、ウォルトンの手紙(9月12日付)より、おそらく9/11の深夜頃、ヴィクターは死亡したと思われる。

 その翌日に9/12に、ウォルトンの前に怪物が現れ、北極の果てへと消えて物語は終わる。

 1799年の事だと考えられる。






時間標識の矛盾点と考察


・矛盾点:日付と曜日の組み合わせのずれ


 作中で日付と曜日が示されているのは、時間標識3:ヴィクター発見時と時間標識9:ウィリアムの死、の二つだけである。

 当時から現在まで一般に用いられているグレゴリオ暦では、日付と曜日の組み合わせが年ごとに異なる。その為、大まかな年代が別れば、具体的な年が特定できる。

 他の時間標識より、物語の中心となっている年代は1790年代である。これを満たすのは、以下の組み合わせである。

 1795/5/7 :ウィリアムの死

1797/7/31 :ウォルトンによるヴィクターの発見

 

 この間に、怪物の伴侶の創造未遂、エリザベスの死、ヴィクターによる怪物の追跡など、多くの出来事が起きている。

 そして、The Essential Frankensteinでも指摘されている様に、これらの出来事は、2年3か月では収まらず、また、両者を同時に満たそうとすると、多くの時間標識から矛盾する。


 実際の1799/7/31は水曜日であり、時間標識の7/31月曜日とは、曜日の関係では二日ほどのずれが存在している。


 この矛盾の原因を、作者メアリー・シェリーの単純なミスと考える事は容易である。

 しかし単純なミスとしては、初版の時点で、7/31月曜と、『老水夫の歌』の矛盾した時間標識が存在しており、その後、アーネストの描写などについて編集を行った、第三版においても修正されていない点が疑問である。

 矛盾が生じると分かっていながらメアリー自身が生まれ母が死んだ1797年8月末から9月をどうしても、最後に持っていきたかったからかもしれない。


 しかし、ここは若干こじつけではあるが、作者が意図的に矛盾を生じさせた可能性を考える。


メアリーがあえて曜日をずれさせた要因としては以下の三つが考えられる。


1.白夜によるずれ(ずれ2日)

2.地球の自転によるずれ(ずれ2日)

3.ユリウス暦のずれ(ずれ1日)(他の要因が必要)



1.白夜によるずれ


 北極探検中に、ウォルトン達は、太陽が一日中沈まない白夜に遭遇したと考えられる。

太陽が沈まない為、実際には一日(24時間)より経っているのにも関わらず、日付は変えて曜日はずらしたなどの可能性がある。

 白夜は確かに極地方でしか見られない珍しい現象ではあるものの、北極海だけでなく、サンクトぺテルブルクなどの町でも見られるため、何らかの対処はしていると思われるため、少し要因としては弱い。



2.地球の自転によるずれ


 地球の自転によって、世界各地の時間(正確には太陽の見える位置)が異なる事は現在では常識ですが、メアリーが執筆した当時はまだ常識とまでは言えなかったはずです。

 しかし、16世紀のマゼランの世界一周航海の際に、世界一周した船内と戻って来たスペインの日付のずれが発覚し、ローマ教皇に使者が出される騒ぎになっていました。この影響を受けたのか、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』(1820年にメアリー読了)でも、日付が一日ずれる描写があります。メアリーは『ロビンソン・クルーソー』の『ガリヴァ―旅行記』を1816年に読んでおり、そちらからの影響も考えられます。


ニュートンも地球の自転を支持しています。(厳密な地球の自転の証明はフーコーの振り子まで待たなくてはいけませんが)

自然哲学を学んでいた夫パーシー・シェリーもそばにいたため、メアリーがマゼランの世界一周旅行における日付のずれを知り、意図的に入れた可能性があります。


 実際に変わるのは、曜日ではなく日付であるため、曜日と日付の組み合わせは変わらない。しかし、当時の作者及び一般大衆にそこまでの知識がなかったかもしれません。(日付変更線は1844年制定)

 但し、地球上では日付のずれが起きるのは一日であるため、二日ずれている原因としては弱くなっています。



 3.ユリウス暦によるずれ


 現在、世界で一般的に用いられるグレゴリオ暦ではあるが、1582年の制定以前は、ユリウス暦が用いられており、その後、徐々にグレゴリオ暦が採用された経緯がある。

スイスは17世紀の初めまでにグレゴリオ暦を採用し、イギリスは1752年に採用している。

しかし、ロシアは物語の舞台となる1700年代の間は依然として、ユリウス暦を使用していた。

グレゴリオ暦とユリウス暦では、11日程度の日付のずれが存在する。


 時間標識9:ウィリアムの死は、スイス・ジュネーヴでの出来事であり、グレゴリオ暦だと考えられる。

一方、時間標識3:ヴィクター発見時は、ウォルトンがロシアで準備をしている際に現地で乗組員を募集しているため、あえてユリウス暦を採用した可能性が考えられる。


実際に、ユリウス暦では、1799年7月31日は日曜日である。(グレゴリオ暦では、1799/8/11)

これだけでは、1799/7/31が月曜日という条件を満たせてはいない。

 その為、白夜や地球の自転によるずれが一日必要となる。




 これらを踏まえた上で、もう一度二つの時間標識を考えると、時間標識9:ウィリアムの死は、グレゴリオ暦が既に定着したジュネーヴでの出来事であり、信頼できる。

 一方、時間標識3:ヴィクター発見時の方は、ロシアから出港のためにユリウス暦を採用している可能性があり、更に航海による白夜や地球の自転によるずれなど、不確定な要素が多々含まれている。


 前者の方が後者より信頼性が高いと考えられる為、前者を採用し、後者を無視した。

 1793年11月に怪物誕生、1799年 9月に原作終了である。ヴィクターは27-8歳で死去。28歳のウォルトンとほぼ同い年である。怪物は6才になる直前で北極の果てへと消えている。

 

 矛盾点は、時間標識3:ヴィクター発見時と、時間標識5:引用作品の時代錯誤の二点のみである。

 これらについても、理屈付けは一通り行っている。




・怪物の誕生日の日付の推定


 ここまでの考察で、物語の年表が大まかに作られ、怪物の生年月が1793年11月である事までは決定できた。

 しかし、怪物が何日に生まれたかについては原作中では明確には示されていない。

 原作中では、怪物はその生命を呪われる事はあるが、祝ってもらう事はないので、もちろん誕生日を祝ってもらう事もありません。


 手掛かりは、怪物が生まれた次の日に見た月である。

 怪物は、生まれた後、一度眠りにつき、夜中に目覚めている。その際に、月を見ている。特に月の形状は書いていないが、怪物、ヴィクター共に月の光を印象深く思っているという事は、明るい月だと思われる。

また、その後の記述で、「数日経つと月の光が少なくなり暗くなっていき、月が完全に消え再び出てくるまで森にいた」とある。

 つまり、怪物が見た月は、満月以降の欠けていく月であり、1793年11/17-30の期間に絞り込める。

(過去の月齢は、ネット上で調べる事が可能)

 月の満ち欠けの形状は地球上では変化しないので、地域性は考慮しなくて良い。また、怪物が生まれたインゴルシュタットの時差はUT+1である。



 ここからは恣意的な決めつけとなるが、以下の根拠より、怪物の誕生日は満月の前日だったという説を取る。


まず原作中では、以下に示すように、月の光は、ヴィクターと怪物が対峙する時に何度も出てきている。


・怪物創造の場面

・怪物が無人となったド・ラセー家に火をかける場面(月が沈んだ直後から)

・ヴィクターが伴侶の創造をやめる場面

・怪物が婚礼の夜にエリザベスを殺す場面

・ヴィクターが墓で復讐を誓う場面(明白に丸い月と記載)


 怪物が生まれたシーンで、月に対して原作中唯一の脚注をつける辺り、メアリー・シェリーもかなりこだわっていると考えられる。

 丸い月、すなわち満月だと厳密に言われているのはジュネーヴの墓の前で現れる所である。


 月の潮汐力はニュートンによって説明されており、ヴィクターは幼少期の回想でニュートンの砂辺の比喩を引用しているなど影響が見られる。

また、エラズマス・ダーウィン等主催のルナ協会では、満月に会議を開いていた。

真偽のほどは不明だが、満月の夜に出産が多かったり、狂気が蔓延し、悪魔的儀式が行われるなどの噂も当時から存在していた。

 月及び、満月に対して、何らかの意識的なイメージを持っていた事を感じさせる。


 また、メアリー・シェリーとの関係でいえば、メアリー・シェリーの早逝した長女が生まれたのは、1815/2/22で満月の前日である。

 新生児黄疸の様に怪物の肌が黄色い件や両者とも名前が付けられていない点といい、満月の前日に生まれた長女と怪物をどこかで同一視していた可能性もある。

 その後、長男ウィリアムや次女クレアラなどが相次いで亡くなっているが、1818年1月の『フランケンシュタイン』初版出版時に亡くなっているのは長女のみである。


 バイロンがメアリー達にそれぞれ怪奇話を書く事を提案した有名なディオダディ荘の怪奇談義も、1816年6月10日の満月といわれている。メアリー・シェリーが怪物の発想を思いついたのは、6月16日だと考えられている。

 偶然だとは思うが、1793年11月の満月の前日も同じ16日である。





結論


 従って、1793年11月の満月の日は17日であり、怪物の生年月日はその前日の 1793年 11月 16日と決定した。

 日付の所では私の独断になってしまいますが、シャーロキアンによるホームズの誕生日決めよりは、論理的な気はします。

 間違っている所がありましたら、ご指摘いただけると幸いです。


 長々と書いてしまいましたが、ただ、フランケンシュタインの怪物の誕生日を祝いたかっただけです。

 誰にも認められなかった怪物の誕生日を、祝ってくれる方が増えますように。

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