8. Recollection of The Last Man
8. Recollection of The Last Man
(最後の一人の回想)
Dedication to the illustrious dead.
Shadows, arise, and read your fall.
Behold the history of the last man.
輝かしき死へ捧ぐ。
影は蘇り、お前は身の破滅を知るだろう。
最後の一人の歴史を見よ。
The author of Frankenstein “The Last Man” Preface
フランケンシュタインの著者 『最後の一人』 前書き
「俺はヴィクター・フランケンシュタイン……の弟アーネスト・フランケンシュタインだ!」
ゲンファータと名乗っていた青年軍人はそう名乗りを上げた。
「兄ヴィクターは、北極海の果てでお前を追い続けて亡くなった。俺はフランケンシュタインの最後の一人(I am the last man of Frankenstein)!」
それを聞いて、怪物は思い出した。
彼は俺を創ったヴィクター・フランケンシュタインではない。フランケンシュタイン家の次男アーネスト。ヴィクターの弟であり、ウィリアムの兄。
「君がヴィクターの弟か…」
怪物は、意外な人物の登場に対する驚きと罪悪感から、かろうじてその言葉だけを言えた。
「そうだ。兄ヴィクター・フランケンシュタインの創造物よ。お前に裁きを下す前に、俺がどうやってここまでたどり着いたかを教えてやろう」
アーネスト・フランケンシュタインは、怪物から目を離し、ファラデーの方を向いた。
「君も俺の話を聞くがいい。俺の話を聞けば、この怪物が姿だけでなく、心も醜い事が分かるだろう。コイツの魂(もっとも人間ではない怪物に魂などないが)を秤にかければ、君もこの怪物の処刑に賛同するだろう」
悲しみと憎しみが入り混じった表情で、アーネスト・フランケンシュタインは自らの過去を語り始めた。
俺は、フランケンシュタイン家の次男として生まれた。
今の見た目からは、考えられないかもしれないが、幼少期の俺は病弱だった。
母さんとエリザベス義姉さんは身体の弱かった俺の面倒を良く見てくれた。
兄さんは、外にあまり出れない俺の為に、いつも大きな世界の話をしてくれた。
幼少期の俺は身体は弱かったが、それでも幸せだった。だがそれも崩れた。怪物、お前のせいでな。
体の弱かった幼い俺が憧れたのは、怖い怪物を倒す力強い英雄達だった。兄さんの友達のクラ―ヴァルさんが英雄譚が大好きで、よく話してくれた。
一番好きだったのは、ギリシャ神話のヘラクレスだった。
「ヘラクレスみたいに、怪物を倒す強い英雄になりたい」
そう言った幼い俺の夢を兄さんは否定しなかった。
兄さんが14歳になったある日、俺のベッドの元に目を輝かせた兄さんが訪れた。
「アーネスト。今日は特別なプレゼントがあるんだ」
そう言って、兄さんは瓶に入った液体を掲げ上げた。
「どんな病も治す霊薬エリクサーさ! これを飲めば、きっと、アーネストも丈夫な体になれる! これを飲んで少しずつ体を鍛えて強くなるんだ!」
エリクサーの名前は聞いたことがある。英雄譚に出てくる万病を治す霊薬。造れるのは神や凄い魔法使いや錬金術師だけだ。
「エリクサー! 本当に丈夫な体になれるの? 兄さん、どうやってそんなすごいものを手に入れたの?」
兄さんは誇らしげに答えた。
「病弱なアーネストが見ていられなくて、パラケルススの錬金術を学んで、ゼウスからエリクサーの造り方を盗んでしまったんだ。だから、怒ったゼウスがプロメテウスみたいに私を縛りつけて拷問を加えるかもしれないな」
兄さんはプロメテウスが好きだった。主神ゼウスに抗ってまで、人間に火を与えた存在。兄さんにとってはヘラクレスよりも彼の方が英雄だった。
ただ、当時の俺はそこまで考えている余裕なんかなくて、ただ兄さんが消えてしまう事が怖かった。
「兄さんは怖い怪物にさらわれてどこかに行っちゃうの?」
兄さんは少しだけ意地の悪い顔をした。
「どうだろう? でももしさらわれたとしても、ヘラクレスみたいに強くなったアーネストが助けに来てくれるんだろう? だから心配してないさ」
俺は、兄さんの信頼に答えて頷いた。そして、兄さんから受け取ったエリクサーを飲み干した。
身体中に元気がみなぎった気がして、その日はいつもより少しだけ長くベッドから出ている事が出来た。
だが、やはり疲れてしまってベットに戻った。
「…まだ、完全な調合は出来ていないみたいだな。これから改良を続けよう。少しずつだが、アーネストも強くなれるさ。ヘラクレスみたいに」
それから、毎日、俺は兄さんの造った薬を飲み、どんどん体力がついていった。その内に、ベッドで休む事も無くなったし、外へ出る機会も増えていった。
一年ほど経った頃から、兄さんはもう不要だと言って薬を持って来なくなったが、俺は体力作りの訓練を続けた。そして、いつしか周りの子供達よりも強い体になっていた。
数年が過ぎて、兄さんは17歳になり、インゴルシュタットの大学に行く事が決まった。それを祝って、親しい者だけの送別会が開かれた。
幾つかの雑談を交わした後、俺は幼い頃の薬の話を思い出して、兄さんに改めて感謝を述べた。
それを聞いて、兄さんは、恥ずかしそうに笑った。
「今だから言えるけれど、あれは本物のエリクサーじゃないんだ。あの時は、自分でも本物だと信じていたが、あれは果物とか野菜の汁を混ぜただけなんだ。別に特別なものじゃない。アーネストがずっと信じていたから言い出せなかったんだ」
俺は兄さんの告白に少しがっかりした。ただどこかで頭の片隅では、エリクサーなんてないとも思ってはいた。話を聞いていたエリザベス義姉さんが口を挟んだ。
「あの頃のヴィクターは少し変だったわ。口を開けば、マグヌスやパラケルススの事ばかりで。アーネストの病を治す霊薬を造ったって言って、私に見せた物はおぞましかった。多分、色々と入れてはいけないものを入れてしまったのよ。だから、そんな自分でも飲めない様な危ない物を弟に飲ますなって怒ったのよ。果物とか野菜の汁でもう一度ヴィクターに創らせて、毒見もさせてから、アーネストにあげる事にしたのよ」
クラ―ヴァルも話に加わった。
「本当だよ。俺なんかちょっとかすり傷を負った時に、ヴィクターはパラケルススの三元素から造った治療薬だとか何とか言って、塩水を傷口につけたんだ。あの時は、本当に死ぬほど痛かった。エリザベスが見てなかったら、ヴィクターの造った毒薬を飲まされたアーネストは、今頃、英雄じゃなくて怪物か何かにでもなってたかもな」
義姉さんとクラ―ヴァルさんは笑って当時の昔話を続けた。兄さんも昔の言動に恥ずかしがって苦笑いしていた。
「でも、霊薬だと信じていたからこそ、アーネストさんもここまで丈夫になれたのだと思いますよ。信じる者は救われるんです」
純真なジュスティーヌが助け舟を出してくれた。
「そうかもね。少なくともアーネストに丈夫になって欲しい思いは本当だったのだし」
義姉さんは、優しそうに兄さんを見つめた。
過去の思い出の裏話を聞かされて、俺は色々と驚いたが、小さい頃も今も俺に取っては、本当の霊薬だった事に変わりはない。
俺たちの楽しそうな声を聞きつけて、ウィリアムを抱きあげた母さんが近づいてきた。すぐ後ろにいた父さんが兄さんに問いかけた。
「ヴィクター。インゴルシュタットで何を学びたいんだい?」
兄さんは希望に満ちた目で答えた。
「まだ決めてはいませんが、自然哲学を学びたいと思っています」
クラ―ヴァルさん、ジュスティーヌに、父さん、母さん、ウィリアム、義姉さん、兄さん、そして俺。皆、笑っていた。特別な事なんて何もないけれど、平穏で幸せな毎日がいつまでも続くと思っていた。
だが、皆、皆死んだ! 生き残ったのは俺だけだ! その多くの者の死は、怪物、お前がもたらした!
絶望の始まりは、このパーティの終わりだったのかもしれない。
突然、さっきまで笑っていた義姉さんが倒れた。高熱が出ていた。猩紅熱にかかっていたのだった。
一時は命の危機が訪れるほど重態になったが、母さんの懸命の看病のおかげで一命を取り留めた。
だが、今度は母さんがその病にかかってしまい、そして亡くなった。
母さんの突然の死に、皆悲しんでいた。けれども兄さんだけは、悲しみの中に何か別の感情が含まれている様に俺には感じた。
母さんの死で遅れてしまったが、兄さんのインゴルシュタット行きの日が訪れた。皆が別れを告げる中で、
俺は兄さんに自らの決意を話した。
「兄さん、俺はヘラクレスみたいに強くなるから。強くなって、ウィリアムやエリザベス姉さんを守る。だから、家の事は心配しないでくれ」
兄さんは、俺を優しく見つめた。
「なら私は、アーネストやエリザベスを苦しめ、母さんを死に追いやった病を追い払う新たな火を人類にもたらす現代のプロメテウス(Modern Prometheus)になろう。もし、私が苦しむ事になったら、ヘラクレスみたいに助けてくれよ」
兄さんの瞳の中には、悲しみと同時に、なにか決意や憎悪の様なものが見えた。まるで、母を死に追いやった神に反逆するサタンの様な。いや、ゼウスに反逆するプロメテウスといった方がいいだろう。
母さんの死と言う悲劇はあったものの、兄さんがインゴルシュタットに勉強に出かけてから数年は穏やかだった。時々来る兄さんからの手紙を義姉さんやクラ―ヴァルさんと一緒に読むのが楽しみだった。弟のウィリアムもすくすくと育っていった。
しかし、兄さんの手紙が段々と少なくなり、ついに来なくなった。こちらから手紙を出しても返事すら来なかった。
日に日に、義姉さんの心配は高まるばかりで、見かねたクラーヴァルさんが兄さんの様子を見にインゴルシュタットへと旅立った。
そんなある日、俺はいつもの様に弟のウィリアムと外で遊んでいたが、少し目を離した拍子に、ウィリアムを見失ってしまった。俺は、ジュスティーヌや家族にも手伝ってもらって、ウィリアムを探し回った。
ようやく見つけたウィリアムは既に変わり果てた姿だった。ウィリアムは死んでいた。誰かに首を絞められて。
そう。怪物、お前に首を絞められてな!
俺はウィリアムを守る事が出来なかった。ヘラクレスの様に家族を守ると誓ったのに、怪物の魔の手から弟すら守れなかった!
だが当時の俺には、怪物が犯人だなんて分からなかった。周囲にも犯人らしい怪しい人物は見当たらなかった。
そんな状況で、ウィリアムを探している途中に疲れて小屋で寝てしまったジュスティーヌの衣服からウィリアムが着けていたロケットが見つかった。彼女はウィリアムを殺した事を否定したが、状況証拠から容疑者として連れていかれる事になった。
この頃に、クラ―ヴァルさんに連れられて、兄さんもジュネーヴに帰ってきた。兄さんは病気で寝込んでいたらしく、やつれて虚ろな目をしていた。
ジュスティーヌはウィリアムを殺した事を否定し続けていた。義姉さんも俺もジュスティーヌは犯人ではないと信じたかったが、確証はなかった。
特に、兄さんはジュスティーヌは犯人ではないと強硬に言い張ったが、聡明な兄さんが主張するその論理は支離滅裂だった。
その時は、兄さんの優しさから言っているものだと思っていた。だが、真相を知った今なら分かる。兄さんは、怪物、お前がジュスティーヌを陥れた事に感づいていたのだ。だが、それを示す証拠がなかったのだ。
狡猾な怪物め!
その内に、ジュスティーヌは、長い拘留生活のせいか、段々と自分がウィリアムを殺したかもしれないと思う様になり、ついにはウィリアムを殺した事を認めた。そして、冤罪によって、ジュスティーヌは処刑された。
兄さんは、療養もかねて、クラーヴァルさんと共にイギリスに出かけた。多分、旅でもすれば心も晴れるだろう。だが、クラーヴァルさんも死んでしまった。不幸が続くばかりだった。
兄さんは意気消沈した様子で、ジュネーヴに戻った。不幸を振り払おうと父さんは、兄さんと義姉さんの結婚を計画した。本人たちはもちろんの事、周囲の皆も賛成だった。
俺も、兄さんとエリザベス義姉さんが結婚すれば、フランケンシュタイン家にまた幸せが戻ってくると思った。だが実際は、不幸の連鎖は加速する一方だった。
義姉さんは、兄さんと結婚した夜に、怪物、お前に殺された。度重なる不幸に加え、義姉さんが殺された事が引き金となり、父さんもショックを受けて死んでしまった。
兄さんは狂って、怪物の仕業だと、うわ言を言う様になってしまい、俺でも手が付けられずしばらく病院に入れるしかなかった。
フランケンシュタイン家の生き残りは俺と狂った兄さんだけになった。
必然的に兄さんが正気を取り戻すまでの間、俺が一時的な主人となった。しばらくして兄さんは落ち着き、病院から出て家に戻ったが、ほとんど一日中部屋に篭っていた。
俺には、フランケンシュタイン家の異変をただ傍観する事しかできなかった。
異変が起きていたのは、俺の家族だけではなかった。スイスも大きな混乱に巻き込まれていた。フランス革命の余波を受けて、1798年にスイスをフランス共和国軍が占領し、ヘルヴェルティアと名前を変えていた。
だがおかしくなってしまった兄さんは、外の世界の異変に何の関心も示さなかった。多分、背後に兵士が迫ったとしても、アルキメデスの様に気づかなかったのだろう。
そして兄さんはある日突然、ジュネーヴから消えた。俺は去ろうとする兄さんにしがみついた。
「どこに行くんですか? 兄さんはフランケンシュタイン家の長男なんですよ。この家に残って下さい!」
兄さんはしがみついた俺の手を払いのけた。その顔は狂気に似た決意を醸し出していた。
「私には残された使命がある。フランケンシュタイン家はアーネストに任せる。邪魔なら財産を売って、家を潰しても構わない。アーネストだけでも幸せに生きてくれ!」
最後の瞬間だけは、昔の優しい兄さんの顔だった。それから二度と兄さんは帰ってこなかった。
一人残された俺は絶望と得体の知れない恐怖に支配され、無為に時間を過ごした。故郷ジュネーヴにロシア・オーストリアの同盟軍が侵入したのはそんな時だった。
この訳の分からない状況を変える良い機会だった。
俺には元々、家にも財産にも興味がなかった。昔からの夢は英雄になる事だけだ。
だから、使用人達に大金を渡して放免し、住居も売り払った。家の財産も、大部分は父親の知り合いだった銀行家のネッケル氏に預けた。俺はネッケル氏に、兄さんがここに現れたら彼を保護してすぐに俺に連絡して欲しいと頼んだ。
そして、俺は財産を少し使って装備を整え、一人のスイス傭兵となった。呪われたフランケンシュタイン(Franken-stein)(フランクの石)の苗字も捨て、アーネスト・ゲンファータ(Genf-ather)(ジュネーヴの天空)と名乗った。
Gen:Genesis(創世記)のfather(父)なんて、神にでもなるつもりなのかと傭兵仲間にからかわれた事もあるが、別にそこまで深い意図はなかった。
ただ、stein(賢者の石)からather(エーテル/第五元素)に変えたのは、兄さんにもらったエリクサー(Elixir)の事が忘れられなくて、残したいと思ったのかもしれない。
スイス傭兵となった俺は、大陸軍のマッセナの指揮下に入り、ジュネーヴに進行してきたロシア・オーストリアの同盟軍を打ち破った。それは、1799年9月の事で、始めて得た勝利に俺は酔っていた。
戦っている最中は、家族の不幸を忘れる事が出来た。
同じ頃に、北極の果てで、兄さんが怪物を追いかけた果てに亡くなっているとは、露にも思わなかった。
その後俺は、ヴィクトル・ペランの指揮に入り、ナポレオンのアルプス越えに参加して、マレンゴの戦いで勝利を収めた。この目で見たアルプスを越えるナポレオンは、ダヴィッドが書いた絵のように華やかではなかったが、彼の醸し出す雰囲気に俺は圧倒された。
ナポレオンは、ただ戦いが強いだけの軍人ではなかった。元々は砲兵士官出身で、数学にも精通し、自然哲学を重視していた。
俺は、そこに自然哲学者だった兄さんの面影を感じ、贖罪をしようとしていたのかもしれない。
俺には兄さんの様に自然哲学を理解できる頭はない。俺に出来るのは傭兵として、戦う事ぐらいだった。
だから、ナポレオンを通して、兄ヴィクターが成し得なかった自然哲学を振興することを誓った。
家族を失った今、これが俺にできる最善の選択だった。
俺は昔から英雄に憧れていたし、自然哲学の普及という大義面分もあったが、家族を襲った得体のしれない不幸から逃げたかったのも理由だった。
得体の知れない恐怖よりも、人間の敵の方が怖くなかった。目に見える敵には銃や剣で戦えばいいのだから。
暇な時間ができる度に、何故俺の周りは不幸に襲われたのかと考えこんでしまった。
フランケンシュタイン家の地位や財産を狙う者、恨みを持つ者など、心当たりのある者は片っ端から調べさせた。しかし、答は出なかった。
だが偶然と呼ぶにはあまりに不幸が重なりすぎていたし、その手口は、何か深い恨みを持つ様な気がした。
兄さんが言っていた怪物が何かの比喩なのかとも思ったが、調べようがなかった。
俺は真実を何も知らないまま、今までの不幸を振り払うかのように、ただ戦いに明け暮れた。
1802年になり、俺はナポレオンの義弟ルクレールの遠征軍の一員として、黒人が反乱を起こしたハイチへと派遣される事になった。
装備すら満足に整えられない反乱者たちを相手に戦いは俺たちフランス軍に有利に進み、そして反乱の首謀者であるトゥーサン・ルーヴェルチュールを降伏に追いやった。その後、トゥサンは騙されて、フランス本国に連れていかれた。
これで、ハイチの戦いは終わるはずだった。しかし、トゥサンを騙した事などから、再び現地民たちの反逆が高まり、戦いは泥沼化した。
もはや兵士と兵士の戦いではなく、人と人との殺し合いだった。フランス軍は、現地住民たちの奇襲に絶えず襲われるばかりか、熱病にも苦しめられていった。
過酷な戦いの中で、仲間の多くが熱病に苦しんだが、俺は病気にはかからなかった。
だが、余りにも戦闘は激しく、病人たちを収容してる施設で、俺も倒れてしまった。
意識朦朧としている中、思い出していたのは、フランケンシュタイン家の多くの者が死んで広い舘に兄さんと俺のたった二人になった時の事だった。ある日、ほとんど篭りきりだった兄さんが珍しく部屋から出てきて俺を呼んだ。
「アーネスト。ジェンナーの種痘って知ってるか?」
兄さんのその目は、何か良いことを思いついた時の目だった。
「いや、知らないけれど…」
兄さんは冷静に、でも目は輝かせて説明を始めた。
「ジェンナーと同じ、ジョン・ハンターの弟子だった知り合いから届いた手紙で知ったんだが、種痘というのは、ジェンナーが最近発見した方法で、天然痘の膿を皮膚に注射するものなんだ。このワクチンを打つ事で天然痘にかからなくなる。とにかく、これを腕に刺してくれ」
俺は腕を出して種痘を受けた。
「これは私が調合した種痘の改良版だ。天然痘だけじゃなく、ニュートンの時代にも流行ったペストにも、母さんを殺した猩紅熱にも効く。色々な病気の元を集めたんだ。いわば、混合ワクチンとでも呼べるだろうか。これでほとんどの伝染病にかからなくなるだろう。アーネストは昔から身体が弱いからな。心配だったんだ」
俺は身体が弱いと言われて、少しだけ不機嫌になっていた。本当は、昔の兄さんが戻って来たようでうれしかったのだが。
「いつまでも体が弱いと思わないでほしいな。もう兄さんよりも、よっぽど強いんだから」
「そうだったな…。アーネストなら立派な英雄になれるさ。私が兄としてできる事はこれくらいしかなくて…。こんな不甲斐ない兄で済まなかったな。明るかったフランケンシュタイン家に私が不幸を招いてしまった…アーネスト、お前だけでも生き抜いて幸せになってくれ」
それは、昔俺にエリクサーをくれた兄さんの表情によく似ていた。その背後にある優しさも狂気も。
俺が病気にかからなかったのは、兄さんの改良版の種痘のおかげだったのかもしれない。だが、それでもやはり、肉体には限界があって…。
死を意識した俺の前に、怪物が現れた。ついに俺にも兄さんの言ってた怪物が見える様になってしまったのか。俺はどこか冷静に怪物を眺めていた。今振り返ると、本物の怪物にそっくりな姿だった。もしかして、怪物、お前もハイチにいたのか? まあ、それが幻でも現実でも俺には関係のない事だ。
怪物は、周りが疫病で死んだフランス兵しかいない事に気付くと、扉から出て行った。
しばらくすると、熱さを感じた。燃える様に熱かった。俺は、ただ出口を求めて、這い出ていた。それが夢だったのか現実だったのかは分からない。
その後、さっきの怪物がまた現れて、俺の目の前で、仲間を、家族を、そして兄さんを殺していった。
そして、最後に俺を殺そうと怪物は近づいてきて、俺は思わず叫んでいた。
「忌まわしい怪物め!(Abhorred Monster!)」
叫び声と同時に目が覚めた。
そこは見た事がない船の中の一室だった。