プロローグ
すすけたコンクリートブロックの塀に、子猫が頭を突っ込んでいる。
学校が終わって、今日も新しいルートを散策している時だった。
今回はひと二人が通れるかくらいの狭い通路。背の高い塀とまわりに連なる古い住宅に囲まれて、陽の光があまり行き届いていない薄暗い路地裏だ。
そこに、白、こげ茶、黒の三毛猫がいた。
小さなお尻をこちらに向けて、塀のすぐ横に行儀よく座っている。
子猫は塀の向こう側を覗こうと必死になっているようだった。あっちにはなにがあるのかな? そんな風に黒くて短いしっぽを一ミリも揺らさず、頭を無理やり向こう側へ押し込めている様子は、傍らから見ればきっと微笑ましい光景に映るだろう。
その頭は赤く花開いて、中身があちこちに飛び散っていた。
子猫は死んでいた。
穴も隙間もない平坦な壁に子猫の顔を押しつぶされていた。まるで破裂した水風船のように、ひしゃげた子猫の頭蓋から赤い血と桃色の肉塊がそこらじゅうに散らばり、暗がりの中でてらてらと、鈍く、紅く、光っていた。
そこから数歩進むと、次は黒猫がいた。
おなかを上に向けて、じゃれているようなポーズをとった黒猫の短い首は、異様に伸びていて、四本の足すべてが違う方向に曲がっている。黒猫は丸っこい口元から舌を出しながら、痴呆がかったような濁った視線を路地裏の隅に向けていた。
さらに奥に進んでいくと、次々と暗がりの中から子猫の姿が視界に現れた。
みんな死んでいた。
眼や耳を引きちぎられていたり、雑巾のように身をねじ曲げられていたり、腹わたから内蔵のいくつかをこぼしていたり……踏み場の余裕がないほど、そこは生まれたての赤ん坊の肌のような赤黒い液体と多くの死骸でぶちまけられていた。
呆然と闇の中にある死骸の山を見つめている傍ら、後ろで物音がした。
振り返るとそこには少女がいた。ボブがかった黒髪のショートで、その眼には紛れもない恐怖の色が露わになっている。見た目小学高学年くらいの少女にとって、この悲惨な光景を見るのは精神的に耐えられないものだろう。
そう思っていると、少女は地面にへたり込んで、肩を震わせ始めた。腰を抜かしてしまった彼女のくるぶしから伸びる白い靴下に赤い染みが染みこんでいく。
そんな彼女に手を貸そうと、一歩、少女に近づいた。
すると彼女は小さな悲鳴を漏らして、思うように動かない身体を無理やり引きずるようにして、後ろへ離れようとする。
どうしたの?
そう問いかけながら、また一歩。しかし少女は恐怖に目を見開かせながら、必死にこの場から離れようともがき続ける。
そんなに動いたら、服がきたなくなっちゃうよ?
血に濡れた地面と少女の着ているワンピースが擦れる音は、蛆虫が地に這うような狂気を伴って、闇の中に木霊する。それは聞き慣れている音だった。死の極限へと追い詰められた能なし共が、自分の血に汚れながら逃げようとする時の、いつもの音だ。切り裂かれた足から大量の血液をこぼしながら、それでも生きようともがく……
別に本当に死ぬ事でもないのに。なんて無様なのだろう。
しかし目の前の少女を、そのように思ってはいけない。
なぜなら彼女はまだ幼いし、僕の大切な人なのだから。
心配ないよ、おいで。
耳に入ってくる不快な音をかき消すように、わざと一回り明るく、大きい声で彼女に投げかける。
それでも少女は依然、恐怖に顔をひきつらせたまま、ゆっくりと後ずさりする。声にならない叫びが、少女の歪みに歪みきった表情に現れているようだった。僕の方に視線を注ぎながら、蝶番のような小さい唇を震わせていた。
その時、ようやく気付いた。
少女は、僕から逃げているんだ、と。
少女が見ているのは、後ろの死骸だらけの光景ではなくて、僕なんだ、と。
その事に気づいた時、自分が今までここでなにをしていたのか、思い出したような気がした。そして血で汚れた自分の両手を見て、それは確信になった。
子猫たちを殺したのは紛れも無い自分自身だった。
血に汚れたままの迫ってくる僕を見て、少女はどう思っているのだろう。
僕にはわからなかった。
今思えば、声が出せなくても、その表情を見ればすぐに理解できたはずだった。しかしそれができなくなっているほど、自分には、すでに人間としての真っ当な倫理と純真な精神はすでに破壊されていたことに気付いた。
ごめんね。
自分の口から出た言葉が、本心なのか、思いつきなのか。
その時の僕にはわからなかった。