セクション08:フライト前でも
大急ぎで支度を終えたラームは、ストームと共に急いで駐機場を駆けていく。
この時ほど、耐Gスーツの動きにくさを痛感する時はない。
Gがかかった時に下半身を締めつけ、血管が足元に溜まるのを防ぐ役割を持つこのスーツは、当然サイズがきつめであり、しかもフライトスーツの上から着る。そのため、平時ではただの拘束具にしかならない。
できるだけ速く走りたいのに、足が重い。
ただでさえ駐機場は下手なスポーツ競技場よりも広い。焦る気持ちから、耐Gスーツを脱ぎ捨てたくなってしまう。
そうやって無理して足を速く動かそうとした反動か、搭乗機が見えてきた所で足がもつれ、思いきり転んでしまった。
持っていた望遠鏡と赤いヘルメットが、乾いた音を立ててコンクリート舗装の上に落ちた。
「大丈夫、ラーム?」
「ごめん。大丈夫だから、ストームは先に行ってて」
「……うん!」
ストームを先に行かせ、ラームは急いでヘルメットを拾う。
次は望遠鏡。
一瞬、昨日の事が脳裏にフラッシュバックして手が止まったが、そんな事を考えている場合じゃないと言い聞かせ、すぐに手を動かし拾った。
今度は落とさないように抱えつつ、再び走り出す。
そしてようやく、搭乗機の前に辿り着いた。
ようやく足を止め、チャイムが鳴った時からずっと酷使していた息を整えていると。
「ど、どうしたんだシルヴィ? やけに遅かったじゃないか」
声がしたので顔を上げる。
そこには、ラームと同じくフライトスーツ姿のバズの姿があった。
一瞬その姿に戸惑ったが、とりあえず遅れた事を謝る。
「す、すみません兄さん! 少し、ぼうっとしていて――」
「いや、ならいいんだ。何かあったのかと思ったから、さ……」
そこで、会話が途切れてしまった。
相変わらず、何を話したらいいのかわからない。謝らなければいけない大事な場面だというのに、兄が相手だとどうしても言葉に詰まってしまう。
目を泳がせるバズとラーム。
2人の間に気まずい空気が漂う。
いつまでこんな調子なのか。ラームは戸惑うばかり。
このままの空気でフライトに挑む訳にはいかない。フライトでは、2人のチームワークがものを言うのだ。
「……なあ、もう、やめにしねえか? こういうの……」
「え?」
バズの提案に、泳いでいた目が定まる。
「いつまでもこんな事してても仕方がねえ、だろ? だからさ、元通りにしようぜ。こんな空気のままじゃ、フライトでもしくじりそうだし、さ……」
気まずい空気を晴らそうとしているのか、作り笑いをしてみせるバズ。
どうやらバズも、同じ事を考えていたらしい。
だが、元通りという言葉には、ラームに不吉な予感を抱かせた。
元通りにする、という事は――
「それって――またナンパするって事ですか……?」
余計な事だとわかっていても、そう質問せずにはいられなかった。
「う……」
「……す、すみません、余計な質問、でしたね……」
その質問のせいで、空気は再び逆戻りした。
謝った所で後の祭り。2人の会話は、またしても途切れてしまった。
沈黙という名の壁が、2人の前に立ちはだかる。
「君達、何やってるんだ」
それを破ったのは、搭乗機の機付長の声だった。
我に返った2人は、慌てて姿勢を正す。
「何の話をしてたか知らないが、その前に報告するべき事があるだろう?」
「も、申し訳ありません! 私の遅刻でフライトを遅らせてしまって!」
「うむ。君1人が遅れたら、リーダーさんにも迷惑がかかるんだ。今後はそういう事がないように気を付けるんだぞ。よし、すぐに離陸準備だ」
「了解!」
バズは教科書通りの敬礼をすると、すぐさま機体の点検に取り掛かった。
2人の乗る戦闘機、F-15Tストライクイーグルは、スルーズ空軍が誇る最新鋭戦闘機だ。
太く重量感あるボディに広い三角の翼、そしてまっすぐそびえ立つ2本の垂直尾翼という堂々とした姿は、まさに鳥の王者たる『鷲』の名にふさわしい力強さを醸し出している。
バズはそんなイーグルの周りを機首から時計回りに回り、機体各部を点検していく。
車輪の状態を確かめ、空気取り入れ口の中を軽く跳んで覗き込む。
そんな兄の姿を、ラームはぼんやりと眺めていた。
主翼から下げた装備を確かめ、エンジンノズルを確認するべく尾部へ向かう彼の目は、真剣そのものだ。
これまであまり観察した事がなかったが、兄がいつもこうやって自分の搭乗機をチェックしていた事は、容易に想像できる。
兄は今、どんな思いで機体の点検をしているのだろうか。
自分が安心して操縦するためか。
それとも、共に乗る妹のためか――
「兄さん……」
ラームはそうつぶやいてから、イーグルのコックピットにかけられたはしごに向かった。これ以上観察していても、仕方がない。
はしごを上り、コックピットの後席へと座る。4つの液晶ディスプレイが並ぶ計器盤が、ラームを出迎える。
慣れた手付きでシートベルトを締め、ヘルメットを被る。
そうしていると、バズが遅れてコックピットに上がってきた。
彼は一瞬コックピットの前で足を止めたものの、話しかける事がないまま前席に座り、準備を始めたのだった。