なごり雪
東京の春には珍しく、その日は朝から小雪が舞っていた。
二十数年前の三月、私は彼女から電話を貰い、待ち合わせの喫茶店に出かけた。
喫茶店のドアを開くと、いつもの席に彼女が座り、私の姿を確認すると、片手を挙げて合図をした。
それは、いつもの待ち合わせの、いつもの風景と変わらなかった。
ただ、これが最後の待ち合わせだということ以外に・・・。
彼女は大学を卒業したあと、信州に帰り、小学校の教員になる。そして、親の決めた相手と結婚する。
その話を聞かされたのは、正月の休みが終わり、彼女が帰郷先から帰ってきたときだった。
信州には彼女の父親が一人で暮らしている。母親を早くに亡くした彼女は大学の四年間だけという約束で東京に出てきていた。
彼女は、その約束を律儀に守り、卒業と同時に信州に帰る。そして、結婚をする。
アルバイトに追われ、卒業単位が修得出来ぬまま、すでに留年が決まった私は、卒業のあてもなく、将来の軌道さえ決まっていなかった。
二人はただ黙って、ロシアンティーを口にするだけだった。
「明日、帰る。最後だから、駅まで送ってくれるでしょ」
彼女が口を開いた。
私は、何も言えなかった。
そして、しばらくした後、
「俺、これからアルバイトがあるから・・・。明日もバイトで・・・」
それだけ言うと、伝票を取り席を立った。
彼女を振り返ることなく、小雪の舞う外へ出た。
翌日、私はアルバイトを休み、アパートの窓から降り続く雪をずっと見ていた。
翌年の正月。彼女から年賀状が届いた。
そこには、結婚をして、春には赤ちゃんが生まれると記されていた。
その翌年には、女の子が生まれたという年賀状が届いた。
そして、それから毎年、娘の成長と、家族の様子を知らせる年賀状が欠かさず届くようになった。ただ、そのうちに二回だけ喪中の葉書が届いた。一回は彼女の父親が亡くなった年と、彼女の夫が亡くなった年に・・・。
去年の暮れ、彼女の家人から三回目の喪中の葉書が届いた。
それは、彼女自身の喪中の知らせだった。
私は、この二十数年間、あの日に駅に送りに行かなかったことをずっと悔やんでいた。
今年の正月。私は信州に向かった。信州はおりしもの大雪。彼女の故郷に続く鉄道の支線は、運休する列車が多かったが、運良く運転されていた列車に乗ることができた。
駅に着き、無人の改札口を抜けると、そこで私は立ちすくんだ。
彼女が立っていた。あの日の姿のままで。
呆然と立っている私の姿に気付いた彼女は、私に向かって頭を下げた。
「大沢さんですね」
そう話しかける彼女に、私はただうなずくだけだった。
「母からいつも話を聞いていました」
彼女の娘だったのだ。
私は、出かける前に彼女の家に電話をして彼女の墓の場所を聞いていた。
「今日、来られると聞いていましたので、ここでお待ちしていました」
「朝から、ずっと?」
「いえ。この駅に止まる列車の数は少ないです。それに今日は運休が多く、この列車でいらっしゃるということは見当がつきましたから」
「びっくりした。君がお母さんによく似ていて・・・」
それから私は、娘さんの運転する車に乗せてもらい、彼女の眠る寺へ行った。
降り続く豪雪がフロントガラスを覆う。ワイパーで落としても視界はすぐに狭くなる。
私は、運転する娘さんを横目で見た。
その姿は、あの日、喫茶店で別れたときの彼女の姿と重なっていた。
寺は車で10分くらいのところにあった。
私は、車から降りると、娘さんの後について歩いた。傘をさしているにも関わらず、冷たい雪が顔に当たり、目を開くのも思うようにできなかった。
「ここです」
娘さんがひとつの墓の前に立って指差した。
大雪のため、ほかの墓はほとんど雪に埋もれていたが、彼女の墓だけは雪が払われていた。
「朝来て、雪かきをしたのだけれど、もうこんなに積もってしまったわ」
娘さんは、墓の上に積もった雪を払いながら言った。
私は、その墓の前にひざまずき、両手を合わせた。
二十数年前の一コマ一コマが目の前に浮かんでは消える。
娘さんが私に傘をさしかけてくれた。
「私は、君のお母さんが東京を離れるときに送っていかなかった」
そう言って娘さんを見上げた。娘さんは、にこっと笑って言った。
「その話、母から聞いていました。雪の降る新宿駅で待っていた日のことを・・・」
「あの日のことを、ずっと後悔していた」
「実は、今日が母の四十九日なんです」
「四十九日・・・。次の生に生まれ変わる日ですね」
「はい。その日に見送りに来て頂き、母も喜んでいると思います」
私はもう一度、彼女の墓に手を合わせた。
「あの日はごめん。送っていく勇気がなかった・・・」
と心の中で話しかけた。
帰りは、支線が不通になっているので、本線の駅まで娘さんの車で送ってもらうことにした。
駅までの1時間、娘さんから彼女の話を聞いた。
9月までは教壇に立っていたこと、療養の様子、最後の日のこと。
私は、娘さんと彼女が重なる錯覚に陥りながら、目を閉じて聞いていた。
娘さんも、この4月から小学校の教員になるという。
車がある店の前で止まった。
「あの〜。ちょっとこの店に寄っていいですか?」
と娘さんが言った。
そこは駅から少し外れたところにある喫茶店の前だった。
大雪のせいか、その店には客が誰もいなかった。
席に腰掛けると、
「ロシアンティーでいいですか?」
と娘さんが私に尋ねた。
私がうなずくのを見ると、更に、
「マーマレードの方がお好きですよね」
と言った。
「そんなことまで知ってるんだ・・・」
「母から聞きました。私の小さい頃から、紅茶はいつもロシアンティーでした。母が倒れる前に、ロシアンティーの美味しい店を見つけたと嬉しそうに話していました。そのあと、母と一緒にここに来ました」
昔、彼女と二人で観たロシア映画でロシアンティーが出てきて、それ以来二人で逢う喫茶店ではロシアンティーを注文した。ジャムが美味しいか、マーマレードが美味しいか。そんなつまらない議論をしたことを思い出した。
娘さんは彼女と私の昔の出来事をよく知っていた。初めて逢った日のこと。一緒に観た映画。学校の様子。住んでいたアパートのこと。
彼女の夫が亡くなってから、娘さんに昔の話をよくしてくれたそうだ。
私は、彼女と話しているような気持ちでそのひとときを過ごした。
店を出て駅に着くと、
「ホームまで送らせてください」
と娘さんが言った。
「いや。私は君のお母さんを送っていかなかった。だから、君に送ってもらうわけにはいかない」
「だから、送りたいんです。母もきっとそう思っています」
私は、黙って頷いた。
ホームで見送る娘さんの姿がすぐに小さくなって見えなくなった。
私は、電車の窓から雪の景色を眺めていた。
それにしても、娘さんは彼女と私のことをよく知っていた。私が忘れていた細かいことまで話してくれた。
もしかすると・・・。娘さんは彼女ではなかったんだろうか・・・。そんな気持ちが私の心の中をよぎった。