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極寒の呪われた地で、追放令嬢は美しくも冒涜的な愛を知る

掲載日:2026/09/22

 豪奢なシャンデリアの光が降り注ぐ王立学園の大広間。その中央で、エレノア・クロムウェル公爵令嬢は冷徹な視線を浴びていた。


「エレノア! 貴様の悪辣な所業、もはや看過できん! 心清きマリアを階段から突き落とし、あまつさえ毒を盛ろうとした罪、万死に値する!」


 エレノアの婚約者であり、この国の第二王子・アルフレッドが、正義感に溢れた顔で糾弾する。その腕の中には平民出身の『聖女』、マリアが怯えるように身を寄せていた。


 彼は婚約者のエレノアをないがしろにし続けていた。そして教会が発言力の誇示を目的に仕立て上げた聖女を優遇し、逆にその影響力を取り込もうとしている。


 そういった王子の思惑のすべてを、エレノアは把握していた。

 それを通すためには、彼女自身のの存在が邪魔だということも。


 もとよりエレノアとアルフレッドの婚約は政略のものである。貴族間の関係性や勢力図などを鑑みたものであることは、両者ともに理解しているはずだった。少なくともエレノアはそのように理解している。


 愛を求めるつもりはなかった。しかしまさか、王子は信頼を積み上げていく気持ちさえ微塵もなかったとは、エレノアは思いもしなかった。なにしろ、彼女に何ら心当たりのない冤罪を押し付けているのだから。しかも多くの貴族がいる面前で。


 いつしかエレノアは、何事にも期待をしなくなっていた。婚約者である王子に対しても、彼の言動を黙認する王家にも、娘の扱われ方を知りながら寄り添いさえしない公爵家の両親にも。


 ただ、自分くらいは誰にも恥じないようにありたい。エレノアは貴族令嬢としての、いや、ひとりの人間としての矜持をもって日々を過ごし。そして今日、この場に立っている。


 華やかに行われているのは、王立学園の卒業パーティー。生徒たちが学んできたことを誇りとし、学園の卒業を機にそれぞれ新たなステージへと旅立つ。

 そんなめでたい場で、尊き存在であるはずの王族、王子が、新たな門出を汚すような愚行に出た。


 王子の無体を目の当たりにしながら、それを諫める者はいなかった。周囲を取り囲む貴族たちも、むしろやり玉に挙げられたエレノアに対し、嘲笑と軽蔑の眼差しを向けている。


 それでも、エレノアは、見下すような視線を一身に浴びても怯まない。凛とした姿勢を崩さず、静かに婚約者たるアルフレッドを嗜めようとする。


「殿下、すべて事実無根の言いがかりにございます。わたくしはそのような浅ましい真似は――」

「黙れ、稀代の悪女め!」


 だが、アルフレッドはまったく耳を貸そうとしなかった。まるで筋書きが決まっているかのように、彼は断罪の言葉を告げる。


「エレノア、貴様との婚約はここで破棄する。さらにクロムウェル公爵家より除籍の上、北の果て『黒泥島 (こくでいとう) 』への永久追放を命じる!」


 広間がざわめいた。下された裁定が想像以上の重さだったことに、誰もが息を飲む。


 黒泥島――。

 それは王国の最北端、鉛色の海に浮かぶ極寒の孤島。常に吹雪が吹きすさび、夏でも決して雪が溶けない。人が足を踏み入れるにはあまりに過酷で、それこそ国家規模の犯罪者が追放されるような地だ。生きて戻った者は誰一人としておらず、古き呪いが満ちる地として地図からすら消されている。

 そんな地への追放。それはつまり、実質的な死刑宣告であった。


 弁明の機会は与えられなかった。

 エレノアは公爵家の馬車ではなく、鉄格子の護送車に押し込められ、着の身着のままで王都から引きずり出された。彼女の父も母も、マリアの『奇跡の力』に魅了された王家に逆らうことを恐れ、エレノアを切り捨てたのだった。


 ――そして、幾日か過ぎて。


 エレノアはひとり小舟に乗せられ、追放地である黒泥島に向けて、荒れ狂う海へと放り出された。

 奇跡的に黒泥島の岸辺に打ち上げられたものの、待っていたのは荒れ狂う吹雪。白銀の絶望だった。


 吹き荒れる吹雪が、エレノアの薄い絹のドレスを容赦なく切り裂いていた。人を拒絶するかのような厳しい雪と豪風に、彼女は埋もれかけている。


 足の感覚はとうに消え失せ、吐く息の白さは激しい吹雪にかき消される。唇は紫色に凍りつき、睫毛にはびっしりと霜が降りていた。


(ああ……わたくしは、ここで野垂れ死ぬのね……)


 誇り高く生きようとした。未来の王妃にふさわしく、誰よりも立派な淑女であろうと努力を重ねた。その結末が、この冷たい雪の上での孤独な死なのか。

 理不尽への怒りすら凍りついていく中、エレノアの意識が暗転しかけた――その時だった。


 猛吹雪の向こう側に、ぼんやりと温かな橙色の光が灯った。

 幻覚かと思いながら顔を上げると、そこには荒涼とした孤島には似つかわしくない、壮麗な館がそびえ立っていた。


 儚い羽虫が灯りに吸い寄せられるかのように、エレノアはおぼつかない足取りでその館へと向かう。

 吹きすさぶ吹雪に身を叩かれ、一面に敷き積もる豪雪に足を取られながらも、少しずつ近づくほのかな灯りに希望がこみ上げてくる。


 助かるかもしれない。


 わずかに隙間の開いた門扉をすり抜け、玄関の扉へ辿り着き。彼女は残された最後の力で、真鍮のドアノッカーを叩いた。


 ごつん、と鈍い音が響く。

 直後、軋む音を立てて扉が内側へと開いた。


「おや……こんな吹雪の夜に、可愛らしい迷い子だ」


 現れたのは、息を呑むほどに美しい青年だった。

 濡れたような黒髪に、陶器のように白い肌。

 夜の海を思わせる深い青の瞳。

 仕立ての良い漆黒の燕尾服を纏った彼は、凍え崩れ落ちるエレノアの身体を、ふわりと優しく受け止めた。


「ようこそ、我が館へ。誇り高きお嬢さん。もう何も恐れることはありませんよ」


 青年の胸元から漂う、百合の花のような甘い香り。

 抱きしめられた身体の冷たさに微かな違和感を覚えながらも、エレノアは温かな館の空気を感じ、闇の中へと意識を手放した。




  ◇   ◇   ◇




 目が覚めた時、エレノアは天蓋付きの豪奢なベッドの中にいた。

 暖炉には赤々と薪が爆ぜ、部屋の中は春のように暖かい。着ていたボロボロのドレスは、上質な真紅のベルベットの部屋着に着替えさせられていた。


「お目覚めですか、お嬢様」


 枕元に控えていたメイドが、丁寧にお辞儀をした。黒髪をきっちりと結い上げた、二十代半ばほどの端麗な顔立ちの女性だ。


「ここは……?」

「ここはヴィンセント様の館にございます。旦那様がお待ちです。お身体が動くようでしたら、食堂へご案内いたします」


 どうやら意識を失ったまま朝を迎えたらしい。うっすらと、意識を失う直前に顔を合わせた青年を思い出す。この屋敷の主だというのなら、助けられた礼を述べねばならない。


 エレノアは、メイドの言葉にうなずき。

 館の主との顔合わせを願った。


 メイドの後ろについて長い廊下を歩く。磨き上げられたオーク材の床、壁に飾られた豪壮な宗教画、銀の燭台。どこを見ても王都の一流貴族の屋敷と遜色のない、完璧な美しさに満ちていた。窓の外はまだ吹雪いていて、館の内側の静かな空気感がより際立っている。


 案内されたのは、これまた豪奢な食堂。置かれた長テーブルの主席には、昨夜の青年――ヴィンセントが座っていた。


「気分はどうかな、エレノア」

「えぇ、おかげさまで。命を救っていただいたこと、心より感謝申し上げます。ですが……、なぜわたくしの名を?」

「君のことは知っていたよ。クロムウェル公爵家の美しき薔薇、そして愚かな王子に裏切られた悲劇の令嬢」


 ヴィンセントは立ち上がり、エレノアに歩み寄る。彼女の手を取ると、その甲に恭しく口づけを落とした。

 その唇は氷のように冷たかった。

 だが向けられる眼差しは熱情に濡れている。


「君のような気高く美しい女性を捨てるなど、王国の連中は余程狂っていると見える。だが、だからこそ君はここに辿り着いた。……エレノア、どうかこの館で私の花嫁として暮らしてくれないだろうか。君を傷つける俗世から、私が永遠に守ってあげよう」


 あまりに急な求婚だった。

 だがそれ以上に、好意をもって接してもらえたということに、エレノアの心が疼く。婚約者も、その周囲も、血の繋がった家族ですら、そのような接し方をすることがなかったがために。


 裏切られ、すべてを失ったエレノアの心に、その言葉は甘美な毒のように染み渡る。

 目の前の男性は自分を否定しない。自分を求めてくれている。

 そのことにエレノアは、これまで感じたことのない喜びに満たされた。


「……身に余る光栄ですわ」

「ヴィンセントだ。そう呼んで欲しい」

「ヴィンセント様……」


 エレノアが微かに微笑むと、ヴィンセントは歓喜に満ちた笑みを浮かべる。そして、まずは体力を取り戻すといい、と、豪勢な朝食を勧めた。


 互いにテーブルに着き、エレノアは目の前に置かれた料理の数々に目を向ける。

 湯気を立てるポタージュ、香ばしいパン、そして美しく焼き上げられた分厚いロースト肉。

 吹雪の中に放り出されて衰弱していたエレノアは、勧められるままにナイフとフォークを手に取った。


 ――肉を口に含んだ瞬間、舌の上に奇妙な感覚が広がった。


(……これは、何の肉かしら?)


 牛でも豚でも、羊でもない。貴族令嬢としてそれなりに多種多様な食材を口にしてきた彼女だったが、これまで味わったことのない味わいだった。


 非常に濃厚で、脂が舌にまとわりつくように甘い。異常なほどの弾力があり、噛むたびにじゅわりと生温かい脂汁が溢れ出す。どこか金属のような、微かな鉄錆の風味が鼻腔を抜けた。


 美味ではあった。脳が痺れるほどに強烈な多幸感を伴う美味さだ。

 しかし、どこかで本能が警鐘を鳴らしている。得体の知れない胸騒ぎが消えない。


 ふと視線を上げると、給仕をしていたメイドが、じっとこちらを見つめていた。にこやかな笑みを浮かべている。完璧な、絵に描いたような笑み。


 しかし――瞬きを、一度もしない。


 エレノアの背筋に冷たいものが走った。

 よく見ると、彼女の首筋に、ファンデーションで厚く塗り固められた『赤黒い縫い目』のような線が見えた。

 さらに、彼女がワインを注ごうと傾けた腕――肘の関節が、あり得ない角度へ『コクッ』と外側に曲がっていた。


「……あ、なた……腕が……」

「お気に召しませんでしたでしょうか、エレノア様?」


 メイドは首を傾げた。

 傾げすぎだった。

 ゴキリ、と鈍い軟骨の鳴る音がして、頭部が直角近くまで倒れる。

 それでも彼女の顔に張り付いた笑みは一切崩れない。


「エレノア、どうしたんだい? 食が進まないようだが」


 ヴィンセントが心配そうに声を掛けてきた。席を立ち、再びエレノアの傍らまで歩み寄る。そして、心配そうな表情で彼女を見つめた。


 その顔は完璧な美貌だった。

 だが、意識を確かにして見つめ合うと、分かってしまう。

 彼の芳しい香水の匂いの奥から、微かに――真夏に放置された動物の死骸のような、ねっとりとした『腐敗臭』が立ち上っていることに。


「……い、いえ。少々、疲れが残っているようですわ」

「そうか。無理をしてはいけないよ。君の身体は、これからゆっくりとこの館に馴染んでいけばいいのだから」


 ヴィンセントは優しく微笑み、冷たい指先でエレノアの頬を撫でた。

 その指が触れた瞬間。エレノアの頬の皮膚の奥で、何かが「ピクリ」と小さく跳ねるような感覚があった。




  ◇   ◇   ◇




 夜。部屋を与えられたエレノアは、公爵家でもないような豪奢なベッドに横になった。しかしまったく眠ることができずにいる。


 グチャ

 ……グチャ

 ズズ……ズズズ……


 何かが湿った肉を踏みしめるような足音。

 床を這いずるような不気味な音。

 そんなものが、壁の向こう側から断続的に聞こえてくる。


 さらに、あれだけ食事を摂ったにも関わらず、腹の底から湧き上がるような『異様な飢え』がエレノアを苛んでいた。

 喉が渇く。

 胃の腑が熱い。

 もっと、あの甘い肉を腹一杯に詰め込みたいという衝動が、理性をじわじわと削り取っていく。


(変だわ。この館は……何かがおかしい)


 エレノアはガウンを羽織り、意を決して部屋を抜け出した。

 暗い廊下には燭台の火も灯っていない。迷い込んだ日から降り続けている雪の白さが、窓を通して暗い館の廊下を照らしている。彼女はそれを頼りに、昼間は気づかなかった違和感を追う。


 壁のクロスを撫でると、冷たい石の感触ではなく、まるで人間の肌のように柔らかく、湿り気を帯びていた。微かに脈動している気さえする。


 壁の向こう側から聞こえた音。それは廊下に立っていても、かすかに聞こえていた。エレノアはその発生源をたどる。


 やがて彼女は、地下へと続く重い鉄の扉の前にたどり着いた。

 扉はわずかに開いており、地下から生ぬるい風が吹き上がってくる。

 むせ返るような血の匂いと、腐敗臭。

 そして、おぞましい祝詞のような呟き声。


 エレノアは息を潜め、階段を降りていく。

 雪灯りが差し込んでいた廊下と違い、ここにあるのは漆黒の闇。

 彼女は壁に手を置きながら、恐る恐る、一段ずつ踏みしめる。


 やがて、エレノアは扉もない地下室に降り立ち。

 ――見てしまった。


「ああ……母なる肉よ。我が麗しき花嫁のために、完璧な器を整えたまえ……」


 地下には巨大な空間が広がっていた。その中央にある台座のようなところにいるのは、この館の主であるヴィンセントだった。


 地下室の床には、赤黒い肉塊が絨毯のように敷き詰められ、無数の血管が脈打っている。

 台座には、昼間のメイドが無残に、四肢を解体されて横たわっていた。

 ヴィンセントが、自らの青白い手でメイドの顔の皮をベリベリと剥ぎ取る。その下から現れたのは、筋肉と骨ではなく、無数の蠢くミミズのような『赤黒い触手』の塊だった。


 ヴィンセントの傍らには古びた罪人服を着た人間の死体が転がっている。

 彼は死体から切り取った手足や皮膚を、床に散らばる肉塊から千切った粘着質な肉芽で、メイドの身体へと丁寧に縫い合わせていく。


「ふふ……これでよし。新しい腕は、まだ新鮮だ。明日の朝には、もっと滑らかにお茶を注げるようになるだろう」


 ヴィンセントの顔は、半分がずるりと崩れ落ちていた。剥き出しになった頭蓋骨の隙間から何本もの小さな肉の触手が蠢き、空気を舐めている。


「ひっ……!」


 エレノアの喉から、小さな悲鳴が漏れた。

 ヴィンセントの青い瞳が、カチリと異様な音を立てる。そして、自分自身の異様な姿を気に留めることもなく、エレノアの方へと振り返った。


「ああ、エレノア。見ていたのかい?」


 彼の顔に浮かんでいるのは、慈愛に満ちた微笑み。それは彼女の半生で誰にも向けられたことのないような、温かみを感じさせる表情。

 しかし、その顔は半分が崩れ落ちている。全身を血まみれにしながら、人間の肢体を引きちぎり、その手足をメイドにすげようとする奇怪なもの。

 誰が見ても、正気とは思えないものだった。


 恐怖に全身を支配されたエレノアは、踵を返して階段を駆け上がった。

 逃げなければ。

 ここは人の住まう場所ではない。化け物の巣窟だ。


 自室へ飛び込んだ。荒い息を吐きながら、扉を抑えるように背を預ける。

 すぐに鍵をかけようとしたが、指が激しく震えていた。


「なんなの……あの化け物は……っ! わたくしも、あんな死に方を……!」


 混乱しながらも、誰もいないかと周囲を見回す。

 ふと、鏡台が目に入った。

 正確には、鏡に映るナニか、だ。


 エレノアはふらふらと、鏡台の前へと歩み寄り。

 震える手で鏡に手をついた。


 そこに映るのは、自分自身。

 エレノアは息を呑む。鏡越しに見えた自分の姿に。


 ――鏡に映る自分の肌が、透き通るような異様な白さに変わっていた。

 そして、胸元から覗く鎖骨のあたり。

 皮膚の下で、何かが蠢いている。

 ミミズのような、小さな虫のような影が幾筋も、皮膚の下を這い回っているのだ。


「あ……あぁ……、あぁっ!」


 エレノアは狂ったように自分の胸元を引っ掻いた。

 爪が、皮膚を裂く。

 だが痛みはまったくなかった。


 傷口から流れたのは赤い血ではなく、濁ったタールのような液体。そして、裂けた皮膚の隙間から小さな、無数の赤黒い肉の芽が顔を出し、傷口を縫い合わせるかのようにひとりでに塞いでいく。


『君の身体は、これからゆっくりとこの館に馴染んでいけばいいのだから』


 ヴィンセントの言葉が、脳裏に蘇る。

 食事に出ていたあの肉。

 あの甘美な食事。

 あれは、あの地下の肉塊――この島に封印されたという、異形の神の肉そのものだったのだ。


 エレノアは既に、人間ではなくなりつつあった。




  ◇   ◇   ◇




 エレノアが自室に逃げ帰り、自分の姿の変化に呆然として、しばらく。

 カチャリ、と、静かに部屋の扉が開いた。


 立っていたのは、ヴィンセントだった。

 崩れかけていた彼の顔は、すでに新しく継ぎ合わされた皮膚によって、完璧な美貌を取り戻している。


「怖がらせてすまないね、エレノア」


 ヴィンセントは静かに歩み寄り、床にへたり込むエレノアの前に膝をついた。逃げようとするエレノアの冷たい手を、彼は両手で優しく包み込む。


「君も気づいたのだろう? 私たちは皆、王都の人間たちに捨てられた『ゴミ』だったのだよ」


 彼は先ほどの自分の姿を見られたことを咎めるでもなく、エレノアに接する。むしろその表情は慈愛に満ちたもの。崩れたところもなく、誰が見ても美しい。だからこそ、エレノアの恐怖はより強いものになる。


 そんな彼女に構わず、ヴィンセントは優しい声で語り掛けた。


「私はかつて、国王に反逆の罪を着せられてこの島に流された王子だ。飢えと寒さで死にかけた時、この島の深淵に眠る『母なる神』に出会った。母は飢えた私に自らの肉を与え、永遠の命と、傷つかない身体をくれたのだよ」


 彼はエレノアの黒く染まりかけた指先に、愛おしそうに口づけを落とす。

 唇が触れた指先に、彼女は不思議な温かみを感じた。


「人間とは、醜いものだ。平気で嘘をつき、無実の者を陥れ、都合が悪くなれば切り捨てる。アルフレッド王子も、マリアという女も、君の家族も……」

「なぜ、それを……」

「君の中に、私たちと同じものを見たから」


 言葉などいらない。

 エレノアの内側に強い哀しみを感じ取った。

 それだけで十分だった、と、ヴィンセントは言う。


「特に貴族は皆、中身の腐りきった化け物だ。それに比べて、私たちはどうだろう? 母の肉で結ばれた私たちは、互いを裏切らない。嘘をつかない。永遠に愛し合い、補い合える」

「わたくしを……騙していたのね……」

「滅相もない。私は君を一目見た時から愛しているよ。君の高潔さも、美しさも、そして魂に宿る深い怒りも。……エレノア、君は人間として雪の中で凍え死ぬか? それとも、私の妻となり、母なる神の祝福を受け継ぐ『女王』となるか?」


 ヴィンセントは微笑み、自らの胸元を切り裂いた。

 彼の胸の中央には、人間の心臓の代わりに、美しく脈打つ真紅の『神の肉核』が埋め込まれていた。それはまるで宝石のように、妖しく輝いている。


「君の怒りも、絶望も、すべて私が受け止めよう。私たちとひとつになり、君を裏切った世界を、喰らい尽くそうではないか」


 エレノアの瞳から、一筋の黒い涙が零れ落ちた。


 ――思い出すのは、学園の大広間での屈辱。

 アルフレッドの嘲笑。

 マリアの狡猾な笑み。

 父と母の冷淡な眼差し。


 人間として正しくあろうとした自分は、踏みにじられ、捨てられた。


(……わたくしが人間でいる必要など、どこにあるというのかしら)


 エレノアの心を満たしていた恐怖が、急速に冷え固まり。

 じわじわと、まったく別の感情へと変質していく。

 それは、暗く燃え盛る復讐の歓喜。


 エレノアは手を伸ばし、ヴィンセントの胸の肉核に触れた。

 ドクン、と、二人の鼓動が同調する。


「ええ……いいですわ、ヴィンセント様」


 エレノアの唇から、妖艶な笑みがこぼれる。


「わたくしを愛してください。そして、わたくしたちの完璧な世界で……あの者たちに、真の絶望を教えてあげましょう」


 エレノアがヴィンセントの冷たい唇に口づけを重ねた瞬間。

 背中の皮膚が弾け。

 無数の真紅の触手と肉の薔薇が、美しく咲き乱れた。




  ◇   ◇   ◇




 エレノアの追放から半年が過ぎた。初夏の風が吹くはずの季節だが、黒泥島を取り巻く冷気は相変わらずだった。吹雪こそないものの、雪はまだ溶けることなく島全体を覆っている。


 そんなある日、黒泥島の船着き場に王家の紋章を掲げた大型船が接岸した。タラップを降りてきたのは、第二王子アルフレッドと聖女マリア、彼らの護衛騎士たちである。


「まったく、忌々しい。なぜ私がわざわざこのような辺鄙なところまで、あの悪女の死亡確認に来ねばならんのだ」


 アルフレッドは不機嫌そうに悪態を吐いた。


 彼は目的があって、この島までやって来た。

 名目上は、罪人に貶めた令嬢・エレノアの生死確認である。

 だがその実態は、クロムウェル公爵家の財産からエレノアに割り当てられていた部分をかすめ取るため、彼女の生死の確認が必要になったのだ。


 断罪劇の後、アルフレッドは公爵家にたかり続けていた。娘の罪を贖うためだ、と彼は公爵に無理難題を言って金品を巻き上げる。公爵も実の娘を切り捨てた後ろめたさがあったのだろう、王子の要求に従っていた。

 だが、これ以上は公爵家そのものが揺らいでしまう、というところまで財産が擦り減ってしまった。娘の嫁入りのために出すはずだった予算を出せばいいと迫れば、それはエレノアの生死が確認できないことには動かせない、と返されてしまう。

 そのため、アルフレッドは仕方なく、この黒泥島までやってきた。聖女マリアとの贅沢な暮らしのため、金が必要だったのだ。


「この雪の中を、ドレスひとつの女が生きているはずないだろうに。死んでもなお私の手を煩わせるとは、忌々しいやつめ」

「お気持ちは分かります。けれど、今後のために必要なことですわ」


 不機嫌なアルフレッドを、隣に立つ聖女マリアがなだめる。表向きは穏やかに、けれどその裏には王子に負けないほどの苛立ちを滲ませながら。


 今回の黒泥島行きは本来、マリアが同行する理由はない。だがエレノアの生死を確かめる第三者、という立場で無理やり参加していた。

 その本当の理由は、朽ち果てたエレノアを見て愉悦に浸ること。彼女と自分の違いを確認し、優位を噛み締め、嘲笑いたいというものだった。


 もっとも、行く手を阻む厚い雪に、マリアは早々にやる気を失っていた。それでも、未来の自分を飾ってくれるだろう金銀のためと考え、彼女はしっかり者の聖女のように振る舞っている。


 苛立ちと億劫さを内心に抱え、アルフレッドたち一行は歩き出す。

 雪に足を取られ、悪態を吐きながら、彼らは島の中央部へと進む。

 やがて、目の前に大きな館が姿を現した。


「……殿下。事前の調査には、あのような館は存在しておりません」


 騎士隊長が訝しむように声を出す。警戒を露わに、剣の柄に手を掛ける。

 雪原の中に佇む壮麗な館。こんな島で暮らしている人間がいるのか? 煙突からは煙が立ち上り、誰かが生活している気配を漂わせていた。


「ふん、どうせ密輸商人か何かの隠れ家だろう。行くぞ」


 少し先にたたずむ館。すぐそこに見えているというのに、深い雪にさえぎられて思うように進めない。アルフレッドたちは苛立ちを募らせながら、どうにか門扉までたどり着き、館の敷地内へと入り込む。


 一行が館の正面扉に近づくと、ノックをする前に、ギィと音を立てて重い扉が開かれた。


「ようこそおいでくださいました、アルフレッド殿下」


 出迎えたのは、燕尾服を着たメイドだった。その礼は誰が見ても完璧なものに見える。

 アルフレッドはそれを横目に、鼻を鳴らして館へと足を踏み入れる。


「おい、ここにエレノアという女が流れ着いただろ――」


 言葉が途切れた。

 思わず、息を呑む。

 大階段の頂上に、一人の女性が立っていた。


 純白の豪奢なウェディングドレスを纏った女性。

 王子が追放した、エレノア・クロムウェルだった。


 その美しさは、王都にいた頃とは比較にならなかった。

 透き通るような白磁の肌。

 濡れたように輝く漆黒の瞳。

 艶やかに波打つ金髪。

 神々しいまでの美貌に、アルフレッドは見惚れてしまう。


「エレノア……? 生き、ていたのか……?」

「ええ、アルフレッド様。お久しぶりでございますわ」


 エレノアは優雅に裾をつまみ、完璧なカーテシーを披露した。

 そして、静々と、階段を滑るように降りてくる。彼女の足音は驚くほど静かだった。


 その姿に驚いたのはアルフレッドばかりではない。彼が率いる護衛騎士たちも、エレノアのことを知っている。


 なにより、マリアだ。

 彼女は聖女としての自負よりも、エレノアから婚約者である王子を奪ってみせたという、女としての優越感を覚え、その感覚に酔っていた。

 だが今、目の前に現れたエレノアの美しい姿に、同じ女でありながら息を呑んでしまう。そしてすぐに、妬みや憤りといった敵対心で胸の内が塗り潰されていく。


「アルフレッド様の信頼を裏切って追放された身ですのに、御大層な歓迎ですわね」


 マリアは悪意を込めて、皮肉めいた言葉を口にする。

 彼女は、エレノアの佇まいを見て無意識に、女として負けていると感じた。相手の格が上だと思ってしまった。

 しかし、マリアはそれを認められない。


「ふん! 確かにな。雪で頭を冷やし過ぎて、自分の立場を忘れたか? エレノア」


 マリアの言葉に、アルフレッドが我に返った。

 よりによって、自ら追放した女に見惚れてしまうとは。

 彼は己を恥じる。


 同時に、惜しいと思った。

 あれだけ美しくなったのなら、元婚約者として手元に置いておくのも悪くはない。むしろその方が公爵家の財産に手を出すには都合がいいではないか――。


 彼は本気で、そんな自分勝手な思考を巡らし。

 ニィ、と、厭らしい笑みを浮かべる。


「随分と良い暮らしをしているようじゃないか。だが罪人は罪人だ。公爵家の財産を引き渡し、私に服従するなら、温情で王都に戻してやっても――」


 アルフレッドは居丈高にそう言いのけ、エレノアの前へと歩み進む。

 そして彼女の腕を乱暴に掴もうとした。

 寸前。


 パチン。


 エレノアが小さく指を鳴らした。


 その瞬間。

 エントランスの重厚な扉が凄まじい音を立てて閉ざされる。

 同時に、ガチャリ、ガチャリと、幾重もの鍵が勝手に閉まる音が響いた。


「な、なんだ!? おい、開けろ!」


 アルフレッドとマリアの後ろに控えていた騎士たちが、慌てて扉に駆け寄る。

 だが扉であったものは、まったく別物に変貌していた。扉の木目はいつの間にか赤黒い筋肉の繊維のようなものに様変わりし、びっしりと絡み合ってビクともしない。叩いても蹴っても揺るがない扉に、彼らは自分たちが閉じ込められたことに気付く。


「お前たち、何を突っ立っている! この女を捕らえろ!」


 焦りを露わにしてアルフレッドが叫ぶ。

 しかし、周囲の給仕やメイドたちは動かなかった。

 王子たる自分の命に反応しないとはどういうことだ、と憤るも。

 それはほんのわずかな瞬間。


 ピチャリ、と音がした。


「は……?」


 メイドたちの顔面が、縦に裂けた。

 裂け目から無数の赤黒い触手が噴き出し。

 彼女らの首がゴトリと床に落ちる。


 さらに、給仕の男たちの衣服も内側から破れていく。

 そして、何本もの人間の腕を継ぎ接ぎされた異形の肉塊が姿を現した。


「ひっ……ひぃぃぃぃっ!?」


 騎士が絶叫した。

 それでも、曲がりなりにも騎士。咄嗟に剣を抜こうとする、


 だがその瞬間、床から伸びた無数の肉の蔦が騎士の両脚に食い込んだ。


「くっ、なっ! あぁっ!!」


 騎士は身構える余裕さえなく、いとも簡単に足を取られ、転倒。


「たすけっ、王子! 王子っ!!」


 救いを求める声も虚しく、その騎士は異形に姿を変えた給仕の一人のもとへ引きずられ。触手に巻きつかれたまま、ビチャビチャといった肉と血が擦り合わさる音と共に、床下へと引きずり込まれていった。貪るような咀嚼音と、骨の砕ける音だけがエントランスに響き渡る。


「ば、化け物……! エレノア、貴様、何を――!」


 恐怖で腰を抜かし、後ずさるアルフレッド。まるで現実味を感じさせないおぞましい出来事に、みっともなく引きつった声を上げるばかり。


 そんな彼の前に、エレノアが静かに歩み寄った。

 彼女の隣に、気味の悪い空間の歪みが現れる。

 姿を見せたのは、この館の主たるヴィンセント。彼は優しく、エレノアの腰に手を回す。エレノアはそれを当然のことのように受け入れる。


「ご紹介いたしますわ、アルフレッド様。こちらはわたくしの愛する夫、ヴィンセント様です」

「はじめまして、愚かな元婚約者殿。妻が大変お世話になったようだね」


 ヴィンセントが冷ややかに微笑んだ。

 取り乱していたアルフレッドが、瞬時に血の気を引かせて身をこわばらせる。人ならざるモノの『なにか』を感じ取ったのだろうか。彼はこみ上げてくる恐怖と怖気に、身体を震わせた。


 エレノアは、元婚約者の醜態を見てもなんら感情を動かさない。貼り付けたかのような笑顔を見せるだけ。


「ふふっ。そんなに怖がることはありませんわ。だって」


 王子も皆と、一緒になるのですから。


 エレノアのウェディングドレスの背中が、大きく裂けた。

 そこから現れたのは、巨大な肉の触手の束と、無数に瞬く『人間の瞳』。その瞳のすべてが、かつて王都でエレノアを断罪した者たちの顔の皮で形作られていた。


「あ、あぁ……あぁぁぁ……!」


 悪夢、としか言いようがなかった。

 目の前にいるのは、紛うことなき化け物。

 アルフレッドは失禁し、床にへたり込んで震えることしかできない。


 無数の触手を背に負ったまま、エレノアは優しく慈愛に満ちた笑みを浮かべる。アルフレッドの前にしゃがみ込み、細く美しい指先で彼の頬を撫でた。

 その指の腹から、細い肉芽がちろちろと伸びる。

 そして、王子の皮膚へと潜り込んでいく。


「アルフレッド様。わたくしたちの館へようこそ。……あなたのその美しいお顔も、傲慢な心臓も、無駄にはいたしません」


 エレノアの瞳が、深淵の闇のように黒く濁る。


「わたくしたちの『新しい家族』のパーツとして……永遠に、ひとつになりましょう?」


 アルフレッド王子はあまりの恐怖に声さえ出ない。

 何かが自分の中に入り込んでくる。

 皮膚の下を蠢き、血の流れ掻き回されるような感覚に怖気が増す。

 そして、自分の意識がエレノアの黒い瞳に冒されていく。


 黒く染まっていく視界の隅に、マリアが別の触手に飲み込まれていく様子が見えた。背後からはベチャベチャと何かを反芻するような音がいくつも響いてくる。


 気が狂う。

 なぜ私がこんな目に――。


 アルフレッドが最後に見たものは、天井からゆっくりと降りてくる巨大な肉塊の顎だった。

 引き裂かれるような絶叫が、館中に響き渡り。

 甘く湿った咀嚼音の中へと消えていった――。




 -了-


今回は『悪役令嬢×追放×ざまぁ』でホラーを書いてみた。

ゆきむらです。御機嫌如何。



でも、書き終わってから思った。

これ、もっとボリュームを上げて中編にすれば良かったな、と。


中盤にヒロインの侵食具合をじっとりと書き連ね。

終盤では変異の描写と、

王子たちが冒されていく姿をねちっこいくらいに書くべきだったのでは。


次は気をつけようと思う。

ですので、次作もよろしくお願いします。


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