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アストラル・クロック ~天球の歯車と神の保守点検~  作者: 如月妙美


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第3章:巨石のグリスアップ ——ストーンヘンジの注入口

3-1:霧の要塞と油の匂い

 イギリス、ソールズベリー平原。  漆黒の闇と、視界を数メートルにまで遮る、オイルを含んだ濃密で粘り気のある霧が、世界最古の巨石遺構『ストーンヘンジ』を、現代科学を拒絶する不気味な異世界の巨大要塞へと変貌させていた。空からは絶え間なく氷のように冷たい雨が降り注ぎ、古代の石の表面を湿らせていたが、その雨粒には、どこか鼻を突くような揮発性の機械油に近い、不快で独特の香りが混じっていた。

 徳永隆明は、輸送機から大型クレーンで降ろされた、工業用の巨大な高圧洗浄機と、数トンの超高純度化学合成潤滑グリスが詰まったドラム缶の前に立ち、ツイードの作業着の上から、重厚な革製のタクティカル・ベストを、肋骨が軋むほど締め直していた。

「玲子、空気中の成分をスキャンしろ。……嗅いだことがないか? この、古びたマシンオイルが異常過熱で焦げたような匂いを。地下の深部、この岩の数キロメートル真下にある、宇宙の基底公転構造を支えるベアリングの『摩擦熱』が、断熱層を突き破って地表へと漏れ出している決定的な証拠だ。宇宙の油温計がレッドゾーンを振り切っているぞ」

 玲子は、泥濘ぬかるみに足を取られそうになる、この過酷な現場にはあまりに不釣り合いな十センチのピンヒールを心の中で呪いながら、小型の多機能センサーユニットを巨大な環状列石に向けた。彼女の紺のスーツは特殊撥水加工で雨を弾いているが、髪の先には大粒の雫が結ばれている。

「……先生、計測値が工学的な常識を逸脱しています。ストーンヘンジの中心部から、異常なまでの高周波振動が検出されています。これは生命反応でも地殻変動でもありません。……巨大な金属体同士が、数千万トンの圧力を受けながら高速回転中に潤滑を失い、ロックされる寸前に断末魔を上げている際の……あの不吉な金属摩擦音です。磁気嵐の強度は、通常の地磁気の五万倍に達しています。ここが宇宙の『火葬場』になりかけています」

「だろうな。ここの巨石は、古代人が作った単なるカレンダーなんかじゃない。宇宙の回転軸、メインシャフトへ直接『メンテナンス・フルード(整備液)』を流し込むための、物理的な注入口なんだよ。数千年前のドリュイドの司祭たちは、何も知らずに生贄の血を捧げたんじゃない。血に含まれるヘモグロビンや脂質が、高熱で変性して極限の代用グリスになることを、本能的に理解して注ぎ込んでいたんだよ。彼らは、世界を延命させるための『場当たり的な整備』を代々続けてきたんだ。だが、今の末期的な宇宙には、そんな宗教的なパッチじゃ足りない」


3-2:数トンの「蓋」を回せ

 徳永は、最も巨大な中心の「祭壇石アルター・ストーン」へと、地響きを立てるような迷いのない足取りで歩み寄った。彼はその巨石の側面に、自作のチタン合金製重力アンカーフックを、特大のハンマーで力任せに打ち込んだ。キィン、という硬質な音が、霧に包まれた平原に不吉に響き渡る。  彼の広背筋が、作業着を内側から引き裂かんばかりに隆起し、血管が怒れる大蛇のように腕の表面をのたうち回る。

「玲子! 油圧ポンプを最大出力で起動しろ! 高圧グリスを、この石と地盤のわずかな継ぎ目に一気に流し込むんだ! 流体軸受(静圧軸受)の要領で石を数ミリ浮かせ、摩擦ゼロの層を作るぞ!」

「了解! 吐出圧力、危険域レッドラインまで上昇!……先生、石が……石が微かに浮き始めました! 周囲の重力場が逆転し始めています、吹き飛ばされないでください!」

 玲子がコンソールのキーを力強く叩くと、ドラム缶から数千リットルの、琥珀色に輝く超高粘度オイルが、巨石の隙間へと凄まじい噴射音を立てて放出された。数トンの石が、まるで目に見えない不可視の油圧ジャッキで持ち上げられたかのように、微かに数ミリメートルだけ垂直に浮上する。

「よし、今だ! 玲子、そこを絶対に動くなよ! 重力の揺らぎで、君の三次元座標が数センチ単位でズレる。タイミングがズレれば、君の体は空間の『噛み合わせ』に指先から飲み込まれるぞ!」

 徳永は、浮き上がった巨石の側面を、自らの頑強な両腕と肩で、全身の筋細胞を一斉に爆発させるような力で押し始めた。  「グ、オォォ……ッ!」という、腹の底から、宇宙の崩壊という名の軋みに抗うような咆哮。彼の全身の筋繊維が、宇宙の回転抵抗そのものを物理的に肩代わりし、凄まじい摩擦熱で皮膚から白煙が立ち上る。彼自身が、宇宙という機械の「手動クランク・ハンドル」と化していた。

 カチ、カチ……。  石が、地底からの鈍い振動音を伴って、ゆっくりと時計回りに回転を始めた。その瞬間、周囲の濃密な霧が爆風に煽られたかのように吹き飛び、霧の向こう側の空が、幕を引くように一瞬だけ本来の澄んだ深い夜空を取り戻した。狂っていた星々が、磁石に引き寄せられるように「パチン」と正しい座標に吸い込まれ、リセットされる。

「回った……! 先生、宇宙の『バックラッシュ』が一時的に収束、地球の公転周期のノイズがキャンセルされました!」

 徳永は巨石に寄りかかり、荒い呼吸を整えながら、油と泥にまみれた手で汗を拭った。彼の作業着はドロドロに汚れていたが、その瞳には、反抗期を過ぎた巨大な機械を再び手懐けた老練な整備士特有の、静かな満足感が宿っていた。

「……まだだ、これはたった一点の注入口の汚れを少し飛ばし、グリスを通したに過ぎない。宇宙という名の時計本体は、長年の稼働で摩耗した部品の自重で、まだ止まろうとしている。……玲子、次は時間の進みが物理的に狂い始めた場所——脱進機エスケープメントの故障箇所へ向かうぞ。新宿の座標が、スタック(停止)しかけている。時間が『渋滞』しているんだよ」

 霧が晴れ始めたソールズベリーの夜空に、今度はオーロラのような光の幕が現れ、物理的に「空間が波打つ」ような、異様な時間の歪みが街へと伸びていた。


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