表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アストラル・クロック ~天球の歯車と神の保守点検~  作者: 如月妙美


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/10

第2章:金属疲労する銀河 ——天球の悲鳴

2-1:虹色の濁る銀座

 季節は春の盛りを迎え、地上は淡いピンク色の桜の季節となっていた。しかし、東京の街並みを彩るはずのソメイヨシノは、どこか彩度が狂ったような、不自然に蛍光がかった毒々しい色合いを見せていた。光の粒子、すなわち光子フォトノが空間の「溝」を通過する際の物理演算が、局所的に狂い始めている証拠だった。

 徳永と玲子が降り立ったのは、激しい春の雨に濡れた銀座の四丁目交差点だった。街灯の白光がアスファルトの深い水たまりに反射しているが、その輝きはプリズムを通したかのようにスペクトル分解され、まるで路面に重厚な油膜が浮いたかのような、どろりとした不気味な虹色のノイズを撒き散らしている。

 徳永は、防水加工された古いツイードのロングコートを纏い、首からは倍率の異なる精密作業用のルーペを幾つも、数珠のようにぶら下げていた。彼は和光の時計塔を見上げ、自身の網膜に焼き付く空間の「揺らぎ」を、瞬時に脳内で数値化していく。

「玲子、見ろ。光の回折計算が完全にズレている。空間という名の透過レンズが、天球の数十億年の回転による金属疲労で、微細な亀裂クラックに満たされているんだ。星々の光が鈍く濁って見えるのは、レンズが物理的に汚れているだけじゃない。空間そのものの『構造的剛性』が失われ、光子が直進するための軌道レールが、圧力で波打っているんだよ」

 玲子は、防滴仕様の白いトレンチコートの襟を立て、十センチのピンヒールで、氷の上を歩くように滑りやすい歩道を慎重に歩いていた。彼女の持つタブレットには、銀座周辺の重力勾配の異常が、心電図のような不規則で不気味な等高線となって、リアルタイムで描かれている。

「先生、光の屈折だけではありません。このエリア一帯で、物理的な『摩擦定数』が極めて不安定になっています。銀座四丁目の交差点付近で、歩行者の歩幅が物理的に不均一になる現象が多発しています。ある者は一歩で三メートル進み、ある者はその場から足が動かない。物理演算エンジンが、部分的に『低解像度』で実行されているかのようです。……いえ、これは演算の『手抜き』です」

宇宙マシンの演算ユニットが、長年の連続稼働による熱膨張で歪んでいるんだよ。物理定数という名の精密ネジが、熱でバカになっている。……おい、玲子。あそこを見ろ。あんな工学的悪夢、時計職人なら失神するレベルだぞ」

 徳永が指差した先、和光の時計塔の巨大な長針が、まるで夏の猛暑で溶けた巨大な飴細工のようにぐにゃりと下向きに曲がり、文字盤の数字を物理的に侵食していた。しかし、それは熱によって金属が融解したのではない。空間の座標軸そのものが、宇宙の回転トルクに耐えきれず、材料力学的な限界を超えて捻じ曲がった結果だった。

「悲鳴が聞こえるな。銀河という名の大型ベアリングが、完全に油切れを起こして、キーキーと金属音を立てて擦れている音が。……星が瞬いているんじゃない。歯車が欠けて、空回りを始めた際の火花が、あの不規則な輝きの正体だよ」


2-2:摩耗する物理定数

「先生、既存の天文学界では、この現象を『暗黒エネルギーの異常膨張による空間の断裂』と定義して、緊急対策会議を招集していますが、現場はパニックです」

「名前なんてどうでもいい。連中はラベルを貼るのが仕事だが、私の仕事は『修理』だ。工学的に言えば、単なるシステムの致命的な経年劣化だよ。物理定数 $G$ や $c$ が宇宙のどこでも一定だなんてのは、工場から出荷されたばかりの新品の宇宙での理想論に過ぎない。数億年もノンストップで回し続ければ、どんな精度を誇る定数だって、物理的な摩擦と振動で痩せ細る。今の宇宙は、シリンダーがガタついた、いつ焼き付いてもおかしくない中古の大型ディーゼルエンジンと同じだ」

 徳永はツイードコートのポケットから、黒ずんだ真鍮製の小さな、しかし重厚な歯車を取り出し、愛おしげに親指の爪でカチンと弾いた。その澄んだ硬質な音が、騒がしい銀座の雑踏の中で、そこだけ異質な密度を持って響く。

「玲子、この宇宙の『整合性』という名の潤滑剤はな、この星に生きる生命の鼓動そのものが発する微細な振動によって、基底構造へと供給される仕組みになっている。だが、文明が肥大化しすぎた今の人間どもは、宇宙のリズムと同期シンクロすることを忘れ、自分勝手な不協和音ばかりを奏で始めた。……機械というものはな、愛でてやり、手入れをしてやらなければすぐに錆びるし、拗ねるんだよ。宇宙も、自分を単なる『背景』としてしか認識しない人類に、愛想を尽かし始めているのさ」

 その時、銀座の空を覆う雲が、まるで受信不良を起こした古いブラウン管テレビのように、激しく上下にブレた。  同時に、周囲の高層ビルの窓ガラスが一斉に、衝撃波もないのに粉々に砕け散った。降り注ぐ雨粒が空中で完全静止したかと思うと、瞬時に円形から立方体の形状へと固まり、そのまま重力を無視して、横方向——水平方向へと不自然に「流れて」いった。

「……来たか。第一段階の物理エンジン・クラッシュだ。玲子、政府の最優先機を手配しろ。今すぐイギリスへ飛ぶ。ストーンヘンジの『メイン・ベアリング』が完全に焼き付いて固着する前に、私のこの筋肉で無理やり回して、新しいグリスを通すための隙間を確保してやる必要がある。固着かじりが起きたら、もうおしまいだ」

 玲子は、足元に飛び散った強化ガラスの鋭利な破片がヒールの接地面に挟まるのを器用に避けながら、表情一つ変えずに、無機質な声で即座に応えた。

「……了解しました。羽田の管理局専用ハンガーに、超音速輸送機『アステリオン』を待機させています。先生のその『スパナ』が、我々の信じてきた脆弱な物理学を救うことを、ほんの僅かだけ期待していますよ」

 二人は、色彩と物理法則がドロドロに融け始めた銀座の交差点を後にし、座標が不安定になり始めた情報の濁流を掻き分けるように、不敵な笑みを浮かべて空港へと急いだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ