タイトル未定2026/01/31 09:43
建物は、街のはずれに立っていた。三階建ての古いアパート。壁はひび割れ、階段の鉄柵は赤茶色に錆びている。郵便受けには、配達されることのなくなったチラシが、時間だけを積み重ねるように詰まっていた。
私は、ここにも、何かが残っている気がしていた。根拠はない。ただ、壊れかけの場所ほど、人が「生きていた痕跡」を抱え込んでいるような気がする。
階段を上る。足音が、乾いた空気の中で、妙に大きく響く。二階の廊下。三階の廊下。どの部屋のドアも閉じたままで、ノブは冷たく、誰の体温も残していない。
一番奥の部屋だけ、ドアが少しだけ、開いていた。私は、しばらく、その隙間を見つめてから、そっと、押し開ける。
中は、想像以上に整っていた。ワンルームの小さな部屋。ベッド、机、棚、本、衣類。散らかってはいないが、「生活が途中で止まった」感じが、どこか、はっきりと残っている。
机の上には、スマートフォンが置かれていた。電源は入らない。充電ケーブルも、壁のコンセントに差されたままだ。私は、何気なく、その画面に触れた。
最初に感じたのは、夜の静けさだった。耳鳴りがするほど、音がない。冷蔵庫の動作音も、外の車の音も、何も聞こえない。
私は、ベッドの上に座っている。狭い部屋。天井は低く、照明は白く、カーテンは閉じ切られている。
スマートフォンを、手に持っている。画面には、誰からの通知も表示されていない。私は、何度も、画面を点けては消す。意味もなく、ロックを解除しては、また、閉じる。何かを待っているようで、何も待っていない。
時計を見る。23時17分。仕事は、昨日、辞めた。というより、辞めさせてもらった、という言い方の方が正しい。
「今のあなたの状態では、続けるのは難しいと思います」
上司は、そう言った。責める口調ではなかった。むしろ、気遣うような声だった。それなのに、ひどく、責められた気がした。私は、頷いた。
「わかりました」
荷物をまとめて、会社を出た。それだけの出来事だった。誰とも、口論にならなかった。誰とも、泣き叫ばなかった。誰にも、怒鳴られなかった。ただ、働けない人間になった、という事実があるだけ。
私は、ベッドに横になり、天井を見つめる。白い。汚れも、ひびもない。完璧に、どうでもいい天井。私は、何も考えないようにしている。考えると、これからどうするのか、という問いに行き着いてしまうから。
これから、どうするのか。貯金は、少しだけある。家賃は、数か月は払える。食費も、最低限なら、どうにかなる。でも、その先は。
働く気力が、ない。働きたい気持ちも、ない。それなのに、働かない自分を、許すこともできない。私は、生きる理由が見つからないわけじゃない。見つからないのは、生き続ける理由だ。生きていたいわけじゃない。でも、死にたいわけでもない。ただ、生きることを、続けるだけの力が、どこにも見当たらない。
スマートフォンを見つめる。連絡先には、名前がいくつも並んでいる。大学時代の友人。前の職場の同僚。実家の家族。誰かに、メッセージを送ろうと思えば、いつでも送れる。でも、何を書けばいいのか、わからない。
「元気?」「最近どう?」そんな言葉を送る気力がない。正直に、「元気じゃない」と送る勇気もない。私は、誰かと繋がっていないことより、誰かと繋がる努力をしなければならないことの方が、ずっと、しんどい。だから、私は、誰にも連絡しない。誰も、私に連絡しない。そのことを、当然だと思いながら、同時に、どこかで、ひどく傷ついている。
私は、自分が透明になっていくのを、毎日、感じている。会社を辞めてから、誰にも会っていない。誰とも、会話していない。コンビニで、「袋いりますか?」と聞かれ、「大丈夫です」と答える。それが、一日の中で、最も長い会話だ。
自分の声を、久しぶりに聞いた気がする。こんな声だっただろうか。もっと、はっきりしていた気がする。もっと、誰かに届く声だった気がする。私は、少しずつ、誰にも聞こえない存在になっている。それでも、生きている。
朝、目が覚める。顔を洗う。冷蔵庫を開ける。適当に、何かを食べる。日中は、ベッドの上で、スマートフォンを見たり、見なかったりする。夜になると、眠れない。眠れないまま、天井を見つめる。その繰り返しだ。
何かをしたいと思えない。映画を見る気力もない。本を読む集中力もない。散歩に出る元気もない。ただ、時間が過ぎるのを、待っている。何を待っているのかは、わからない。でも、今のままではいけないと思う気持ちだけが、毎日、確実に、積み重なっていく。
私は、何もしていない自分を、誰よりも、強く、責めている。「怠けているだけなんじゃないか」「甘えているだけなんじゃないか」「みんなは、もっと大変なのに」そんな言葉が、頭の中で、止まらない。私は、自分の苦しさを、正当化できない。だから、ますます、黙り込む。
何者かになりたいと思っていた。学生の頃は、ちゃんとした仕事に就いて、ちゃんとした大人になって、ちゃんとした人生を送るつもりだった。でも、ちゃんとした、という言葉の中身が、今では、すべて、わからない。
私は、何者でもない。役割も、肩書きも、誇れる実績も、誰かに必要とされる場所も、今は、何もない。私は、ただ、生きている。それだけだ。それが、どうしてこんなにも、恥ずかしいことのように感じてしまうのか、わからない。
生きているだけで、何かを、証明しなければならないような気がしている。でも、何を証明すればいいのかは、わからない。
ふと、大学時代の友人のことを思い出す。彼は、いつも、冗談ばかり言う人だった。場の空気を軽くするのが、とても上手な人だった。卒業後、彼は、すぐに就職した。私は、少し遅れて、別の会社に入った。最初のうちは、たまに、連絡を取り合っていた。
「仕事どう?」
「忙しいけど、まあまあ」
そんなやり取り。でも、いつの間にか、連絡は途絶えた。理由は、特にない。忙しかったのかもしれない。単に、話題がなくなっただけかもしれない。私は、それを、自然なことだと思うようにしていた。
でも、今になって思う。あのとき、もし、私の方から、もう一度、連絡していたら、何か、変わっていたのだろうか。変わらなかったかもしれない。でも、変わらなかったという事実を、私は、知らない。
私は、いつも、何かを失ったあとで、あのとき、こうしていればと考える。失う前には、ほとんど、何も考えていないのに。
スマートフォンの画面を点ける。連絡先一覧を、ゆっくりと、スクロールする。指が止まる。大学時代の友人の名前。私は、一瞬、タップしそうになる。「元気?」それだけでいい。それだけで、いいはずなのに。でも、指は、動かない。
もし、返事が来なかったら、どう感じるだろうか。もし、「忙しいから、また今度」と言われたら、どう感じるだろうか。もし、既読がついたまま、何日も、何週間も、返事が来なかったら。私は、その想像に、耐えられない。私は、拒絶されるよりも、無視されることの方が、ずっと、怖い。だから、私は、誰にも、何も送らない。送らないまま、誰にも必要とされていないと、ひとりで、結論づける。それが、どれほど、不公平な思考か、わかっていても、やめられない。
ベッドに横になり、目を閉じる。暗闇の中で、自分の呼吸の音だけが、やけに大きく聞こえる。生きることが、しんどい。でも、死ぬことが、楽になるとも思えない。ただ、ここに、存在している。それだけのことが、どうしてこんなにも、重たいのだろう。
昔、小説で読んだ言葉を思い出す。
「生きてるだけで、えらいんだよ」
そのときは、少し、馬鹿にされた気がして、そんなわけないじゃんと、心の中で、思った。でも、今は、その言葉の意味が、少しだけ、わかる気がする。生きているだけで、えらい。それは、すごいことをしているという意味じゃない。たぶん、それだけで、もう、充分なくらい、しんどいことをしているという意味なのだ。私は、そう、思いたい。
スマートフォンを、胸の上に置く。そして、初めて、誰にも見せない声で、小さく、呟く。
「……明日も、起きられたら、それで、いいか」
誰に聞かせるでもない言葉。誰に届くでもない声。でも、私は、それを、はっきりと、聞いた。
私は、アパートの床に、静かに座り込んでいた。手のひらには、冷え切ったスマートフォンの感触が、まだ、残っている。
あの部屋で生きていた青年は、何も成し遂げていなかった。誰にも称賛されていなかった。世界に、何かを残したわけでもなかった。それでも、確かに、毎日、目を覚まし、息をして、時間を過ごしていた。それだけの人生が、ここには、あった。
私は、自分の人生を思う。私も、まだ、何も成し遂げていない。答えも、目的も、はっきりとは、持っていない。それでも、こうして、歩いている。誰もいない世界で、誰かの記憶に触れながら、それでも、前に進んでいる。
あの青年の最後の言葉。
「明日も起きられたら、それでいいか」
その言葉を、何度か、口に出す。それは、目標とは呼べない。希望とも、言い切れない。でも、確かに、生き続けるための、最小単位の理由だった。
アパートを出る。夕暮れの空は、薄く、曇っている。遠くで、風が、壊れた看板を揺らす音がする。
歩き出す。
「明日も起きられたら、それでいい」
その言葉を、まだ、完全には信じられない。でも、信じられなくても、歩くことは、できる。理由がなくても、足は、前に出る。私はそれを、少しだけ、許してみようと思う。世界は終わっている。でも、生きることは、まだ、終わっていない。そして私は、その途中を、今日もひとりで、歩いている




