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終末の旅路  作者: 知世
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タイトル未定2026/01/31 09:40

 海は、遠くからでもわかった。街を抜け、低い丘を越えたとき、視界の奥に、淡い青の帯が横たわっているのが見えた。空と溶け合うような色で、それが海だと気づくまで、少し時間がかかった。


 潮の匂いが、風に混じって流れてくる。湿った空気。塩の粒子。遠くで、波が砕ける音。私は、歩調を少しだけ早める。終末世界に、海は似合わない。そう思っていた。広すぎて、明るすぎて、あまりにも、生命の匂いが強すぎる。それなのに、目の前に広がる海は、どこか、ひどく、死んでいるように見えた。


 砂浜には、誰もいない。ビーチパラソルも、浮き輪も、足跡も、何ひとつない。波打ち際には、打ち上げられた漂流物が、白い泡とともに転がっている。壊れたペットボトル。絡まったロープ。色褪せた浮き。そして小さな、ガラス瓶。


 私は、それに目を留める。瓶は、掌に収まるほどの大きさで、中に、紙が折りたたまれて入っていた。口には、コルク栓が、しっかりと差し込まれている。私は、しゃがみ込み、それを拾い上げる。ガラスは、冷たい。潮に洗われたのか、表面は少し曇っている。


 瓶を開ける。中の紙を取り出し、そっと、広げる。そこには、かすれた文字で、短い文章が書かれていた。


「またここで会おう。夏が終わる前に。」


 日付も、名前も、ない。それだけなのに、その一文は、ひどく、強く、胸に刺さった。私は、それに触れた。




 最初に感じたのは、強い日差しだった。目を開けると、視界が、白く、眩しい。砂。空。海。私は、防波堤の上に座っている。コンクリートは、太陽の熱を吸って、じんわりと、熱い。


 隣には、男の人が座っている。年齢は、私より、少し上だろうか。短く切った髪。日焼けした肌。Tシャツの袖から、細い腕が伸びている。


「……暑いね」


 彼が、言う。私は、頷く。


「……夏だし」


「夏だね」


 彼は、そう言って、少しだけ、笑う。私たちは、しばらく、黙って、海を見ている。波が、防波堤に当たり、白いしぶきを上げる。その音が、規則正しく、耳に届く。私は、ペットボトルの水を飲む。冷たい水が、喉を通って、体の中に流れ込む。


「……ねえ」


 彼が、言う。


「ここ、覚えてる?」


「……うん」


「初めて会った場所だもんね」


 そうだ。私は、ここで、彼に出会った。大学に入ったばかりの頃。ひとりで、この海を見に来て、帰り道がわからなくなって、防波堤の上で、ぼんやり座っていた。そのとき、隣に座ってきたのが、彼だった。


「……あのとき、めっちゃ、暗い顔してたよ」


 彼は、笑いながら言う。


「……放っとけなかった」


「……ひどい」


 私は、少しだけ、口を尖らせる。


「ほんとだよ。知らない人に、いきなり、『大丈夫?』とか言われて」


「だって、絶対、大丈夫じゃなかったでしょ」


「……うん」


 あのときの私は、人生が、どこへ向かっているのか、まったく、わからなかった。大学に入った。でも、何をしたいのか、何になりたいのか、何を好きなのか、全部、曖昧だった。生きているのに、どこにも向かっていない感じ。それが、ひどく、怖かった。


「……ねえ」


 私が、言う。


「……もしさ、このまま、何者にもなれなかったら、どうする?」


 彼は、少し考えてから、言う。


「……別に、ならなくても、よくない?」


「……よくないでしょ」


「……なんで?」


「だって……何者かにならないと、意味、ないじゃん」


 彼は、少し、困ったように笑う。


「……意味って、そんなに、必要?」


 言葉に詰まる。


「……必要でしょ」


「……そうかな」


 彼は、海を見る。


「……生きてるだけで、まあまあ、大変じゃん」


「……まあね」


「……それだけで、十分だと思うけどな」


 私は、納得できない。


「……それって、逃げじゃない?」


 彼は、少しだけ、笑みを消す。


「……逃げでも、いいんじゃない?」


 何も言えなくなる。彼は、続ける。


「……逃げても、生きてるなら、それでよくない?」


 私は、海を見る。波が、何度も、岸に打ち寄せて、何度も、引いていく。どこにも、辿り着かない運動。それなのに、止まらない。


「……でも、それって、空っぽじゃない?」


「……空っぽでも、生きてるなら、いいんじゃない?」


 彼は、そう言って、少しだけ、肩をすくめる。私は、彼の横顔を見る。真剣なのか、適当なのか、よくわからない表情。でも、なぜか、安心する。


「……ねえ」


 彼の声。


「……夏、終わる前に、また、ここ来ようよ」


「……なんで?」


「……なんとなく」


 私は、少しだけ、笑う。


「……なんとなくって」


「……いいじゃん」


 私は、頷く。


「……うん」


 それが、瓶の中に書かれていた、あの言葉の、始まりだった。


 私たちは、その夏、何度も、この海に来た。泳いだり、コンビニで買ったアイスを食べたり、防波堤に座って、ただ、話したり。


 話す内容は、大したことじゃなかった。授業の愚痴。バイトの話。テレビの番組。将来の不安。意味のない雑談。でも、私は、それが、ひどく、楽しかった。彼と話していると、「何者かにならなくてはいけない」という焦りが、少しだけ、遠ざかる気がした。私は、自分が、何者でもなくても、ここにいていいような、そんな錯覚を、初めて、抱いていた。


「……ねえ」


 ある日、私は、海を見ながら、言った。


「……私、将来、何したいか、わからないんだよね」


「……いいじゃん」


 彼は、即座に言う。


「……よくないよ」


「……なんで?」


「……だって、みんな、夢とか、目標とか、持ってるのに」


 彼の少し考えた間。


「……じゃあ、とりあえず、生きてみれば?」


 私は、笑う。


「……それ、答えになってない」


「……なってるよ」


 彼は、そう言って、少しだけ、真剣な顔になる。


「……だって、生きてたら、そのうち、何か、起こるかもしれないじゃん」


「……起こらなかったら?」


「……そのときは、そのときで、考えればいい」


 その言葉を、軽いと思う。無責任だと思う。でも、なぜか、少しだけ、救われる。


「……ねえ、ここ、気に入ってる?」


 私は、頷く。


「……じゃあ、また、来よう」


「……うん」


「……夏が終わる前に」


 私は、笑う。


「……それ、毎回、言うね」


「……大事なことだから」


私は、そのとき、なぜか、心が、少しだけ、ざわつくのを感じた。夏は、終わる。それは、当たり前の事実なのに、その言葉は、どこか、別れを予告しているように、聞こえた。


 八月の終わり、私は、この海に、ひとりで来ていた。


 彼から、連絡が来なくなって、一週間が経っていた。忙しいのかもしれない。体調を崩したのかもしれない。スマホを壊したのかもしれない。理由は、いくらでも、考えられる。でも、私は、嫌な予感を、抱えていた。


 私は、防波堤の上に座り、海を見る。波は、変わらず、打ち寄せている。空は、変わらず、青い。世界は、何も、変わっていない。それなのに、私は、なぜか、取り残されたような、気持ちになる。


「……遅いな」


 独り言のように、呟く。返事は、ない。私は、ポケットから、スマホを取り出し、画面を見る。通知は、何もない。私は、ため息をつき、スマホをしまう。そのとき、足元に、小さな瓶が転がっているのに、気づいた。ガラス瓶。中に、紙が入っている。私は、拾い上げる。口には、コルク栓が、差し込まれている。私は、それを開け、中の紙を取り出す。


「またここで会おう。夏が終わる前に。」


 私は、それを見て、思わず、笑ってしまう。


「……なに、それ」


 冗談のつもりだろうか。サプライズだろうか。私は、周囲を見回す。彼の姿は、どこにもない。私は、少しだけ、不安になる。でも、同時に、どこか、安心もしている。だって、これは、彼の字だ。間違いない。


 防波堤の上で、しばらく、待つ。でも、彼は、来ない。日が、傾いていく。空が、少しずつ、橙色に染まる。私は、立ち上がる。


「……帰ろ」


 私は、その瓶を、ポケットに入れて、帰路につく。


 翌日、私は、共通の知人から、連絡を受けた。彼が、事故に遭ったと。海ではない。遠くの街。仕事の帰り道。即死だった、と。私は、スマホを、落とした。床に、ぶつかる音が、やけに、大きく響く。


「……え?」


 声が、自分のものだと、わからない。私は、何度も、聞き返す。冗談だろう。間違いだろう。誰かと、取り違えているんだろう。でも、相手の声は、変わらない。


 私は、その場に、座り込む。息が、うまく、できない。頭の中で、さっきまでの会話が、何度も、再生される。


「……また、来よう」


「……夏が終わる前に」


 その言葉を、思い出す。瓶の中の、あの言葉。彼は、来るつもりだった。来るつもりだったのに、来られなかった。その事実が、ひどく、現実味を欠いて、それでも、胸の奥を、強く、殴る。


 私は、その夜、ほとんど、眠れなかった。目を閉じるたび、防波堤の上の、彼の横顔が、浮かぶ。


「……逃げても、生きてるなら、それでよくない?」


あの言葉が、何度も、頭の中で、反響する。私は、逃げていた。彼と話すことで、自分の人生から、逃げていた。でも、それでも、私は、彼といる時間が、好きだった。それが、ひどく、悔しい。


 葬式の日、私は、会場の隅で、ひとり、立っていた。彼の家族。彼の友人。彼の同僚。みんな、泣いている。私は、泣けなかった。涙が、出ない。代わりに、心が、ひどく、空洞になっている。


 私は、自分が、彼にとって、どれくらいの存在だったのか、わからない。親友だったわけでもない。恋人だったわけでもない。家族だったわけでもない。ただ、同じ夏に、同じ海を見て、同じ場所に、座っていただけ。それなのに、彼が、この世界から、消えてしまったことが、こんなにも、耐えがたい。


 葬式の後、ひとりで、海へ向かう。あの、防波堤へ。空は、曇っている。海は、灰色だ。防波堤の上に座る。隣のスペースが、やけに、広く感じられる。


 ポケットから、瓶を取り出す。あの日、拾ったまま、持ち続けていた。私は、それを、見つめる。


「……ばか」


 思わず、そう、呟く。約束なんて、守れる保証なんて、どこにもないのに。


「……また、来よう」


 その言葉が、どれほど、脆いものか、今なら、よくわかる。瓶の蓋を、開ける。中の紙を、取り出す。同じ言葉。同じ文字。私は、それを、くしゃりと、握りしめそうになって、でも、やめる。代わりに、もう一度、丁寧に、折りたたむ。瓶に戻し、蓋を閉める。そして、それを、海に、投げる。瓶は、空を切り、小さな音を立てて、水面に落ちる。しばらく、浮かんでいる。やがて、波に揺られ、ゆっくりと、遠ざかっていく。私は、それを、最後まで、見届ける。彼が、来られなかった約束は、こうして、海の上を、漂っていく。どこにも、辿り着かないまま。


 奇妙な感覚を、覚える。悲しい。寂しい。悔しい。腹立たしい。でも、それらの感情の奥に、ほんのわずか、温かいものが、残っている。私は、彼と過ごした、あの夏を、確かに、持っている。彼は、もういない。でも、彼と話した言葉。彼と見た海。彼と感じた、何者でもなくてもいいという感覚。それらは、まだ、私の中に、残っている。それだけで、彼の人生は、完全には、消えていない。私は、そう、思いたかった。




 私は、波打ち際に、立っていた。手には、あのガラス瓶がある。だが、それは、もう、私の記憶の中のものだ。現実の瓶は、私が拾ったときと同じように、冷たく、静かに、私の掌に収まっている。


 それを、しばらく、見つめる。約束は、守られなかった。でも、約束が、交わされたという事実だけは、確かに、ここに残っている。私は、その瓶を、そっと、砂浜に置く。そして、立ち上がる。


 まだ、生きる理由を、はっきりとは、持っていない。でも、誰かと、「また来よう」と言い合い、それが、叶わなかったとしても、その時間が、無意味だったとは、思えない。


 私は、それを、少しずつ、理解し始めている。生きる意味は、完成するものじゃない。辿り着く場所でもない。たぶん、途中で、失われたり、途切れたり、叶わなかったりしながら、それでも、残っていくものの中に、滲んでいる。


 海から、背を向ける。波の音が、背後で、静かに、続いている。世界は、終わっている。でも、約束が、途中で終わった場所に、人生が、確かに残っている。私は、その記憶を、胸に、そっとしまいながら、再び、歩き出した。

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