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終末の旅路  作者: 知世
3/6

白い部屋で眠る

 病院は、街の外れにあった。


 建物はまだ崩れていない。ガラスも割れていない。看板も残っている。それなのに、ここが「もう機能していない場所」だということは、中に入る前から、なぜかはっきりとわかった。


 病院とは、本来、人が集まる場所だ。痛みを持った人、治りたいと願う人、生き延びたい人、誰かを生かしたい人。そういう人たちの気配が、常に渦巻いているはずの場所だ。


 だが今は、空気だけが、そこに残っている。


 私は、自動ドアの前に立つ。当然、開かない。手で押すと、重たい音を立てて、わずかにずれた。


 中に入ると、消毒液の匂いが、まだ微かに残っていた。時間が経ちすぎて、もう「匂い」というより、記憶の中の感覚に近い。


 受付カウンターには、誰もいない。カルテが散らばっている。椅子は整然と並んだまま、座るはずだった人たちの体温だけが、失われている。


 私は、なぜか、声を落とす。


「……誰か、いますか。」


 返事がないとわかっていても、そう言わずにはいられなかった。


 廊下は、長く、白い。蛍光灯は消えている。窓から入る光が、床に細長い影を落としている。


 病室のドアには、まだ名前のプレートが残っている部屋もあった。知らない名前。読めない字。かすれて消えかけた文字。


 私は、その中のひとつの部屋の前で、足を止めた。


 ドアは、半開きになっている。中を覗くと、ベッドがひとつ。点滴スタンド。小さな棚。椅子。


 そして、枕元の棚の上に、写真立てが置かれていた。


 部屋に入る。


 写真立てには、若い女性と、小さな男の子が写っている。女性は笑っている。男の子は、少し照れたような顔で、それでも、彼女の腕に、しっかりと身を寄せている。親子だろうか。姉弟だろうか。恋人同士というには、年齢が離れすぎている。


 写真に触れた。




 最初に感じたのは、体が重たい、という感覚だった。目を開けるのが、億劫だ。まぶたが、鉛のように重い。呼吸をするたび、胸の奥が、少しだけ痛む。


 私は、ベッドの上にいる。白い天井。白いカーテン。白い壁。どこを見ても、白い。


 点滴の管が、腕に繋がっている。冷たい液体が、体の中に流れ込んでくる感覚がある。


 私は、


 私は、病室にいる。


「……」


 声を出そうとすると、喉がひどく乾いていることに気づく。


 ナースコールに手を伸ばそうとして、途中でやめる。呼べば、誰かが来る。でも、今は、誰にも来てほしくない。


 天井を見つめながら、ただ、呼吸だけを繰り返す。


 生きている。


 まだ、生きている。それが、なぜか、少しだけ、怖い。


 カーテンの隙間から、午後の光が差し込んでいる。


 窓の外では、誰かが歩いている音がする。廊下を行き交う足音。ワゴンの音。遠くのナースステーションの声。


 世界は、動いている。私の知らない場所で、私とは関係なく、世界は、ちゃんと続いている。それが、少しだけ、寂しい。


 私は、ゆっくりと、目を閉じる。


「……起きてる?」


 声がする。


 目を開けると、ベッドの横に、男の子が立っている。小学校低学年くらいだろうか。少し伸びた前髪。少し大きめのTシャツ。手には、折り紙の鶴を持っている。


「あ……」


 声を出そうとして、また、喉が痛む。男の子は、慌てて、水の入ったコップを持ってくる。


 「はい」


 私は、少しずつ、水を飲む。喉を潤すと、ようやく、言葉が出てくる。


「……ありがとう。」


 男の子は、少し照れたように、でも、嬉しそうに笑う。


「今日はね、先生が、折り紙教えてくれたんだよ。」


彼は、そう言って、鶴を差し出してくる。


「これ、あげる。」


 私は、それを受け取る。紙は、少しだけ歪んでいる。でも、形は、ちゃんと鶴だ。


「……きれい。」


 そう言うと、彼は、さらに嬉しそうに笑う。


「えへへ。」


 私は、彼の顔を見る。目が、大きい。まつ毛が長い。どこか、懐かしい顔。


「……今日は、学校どうだった?」


「えっとね、算数でね、わり算、ちょっとだけわかった!」


 彼は、得意げに言う。私は、頷く。


「すごいね。」


「でも、まだちょっと難しい。」


「……難しいよね。」


 私は、そう言って、少しだけ、笑う。


 彼は、ベッドの横の椅子に座る。足が、床に届かず、ぶらぶらと揺れる。


「ねえ。ママ、いつ帰れる?」


 答えに詰まる。


「……まだ、わからない。」


 正直に、そう言う。彼は、少しだけ、口を尖らせる。


「早く帰りたいな。」


「……うん。」


 私も、そう思う。でも、私は、自分が、どこへ帰るのか、もう、よくわからなくなっていた。病室。自宅。


 それとも、


 どこにも、帰れないのだろうか。


 彼は、しばらく黙っていたが、やがて、ぽつりと言った。


「……ママ、死ぬ?」


 その言葉は、あまりにも、静かに落ちた。私は、息を止める。


「……なんで、そう思うの?」


「だって……みんな、ママのこと、悲しそうに見るから。」


 私は、視線を逸らす。天井を見る。点滴の袋を見る。カーテンを見る。どれも、答えにはならない。


「……死なないよ。」


 そう言おうとする。そう言うべきだと、わかっている。


 でも、私は、それを言えない。私は、自分の体のことを、医者から聞いている。病名も、進行度も、治療の限界も。私は、遠くない未来に、この世界からいなくなる。それは、ほぼ、確実な事実だった。


「……わからない。」


 とだけ、私は言った。


 彼は、驚いたような顔をする。


「わからないの?」


「……うん。」


 沈黙。


 彼は、しばらく考え込んだあと、小さな声で言う。


「……ママ、いなくなったら、ぼく、どうしたらいい?」


 私は、胸の奥が、強く締めつけられるのを感じる。


「……ちゃんと、生きて。」


 それしか、思いつかなかった。


「……ちゃんと、生きて、ごはん食べて、寝て、学校行って、笑って……」


 言葉が、途切れる。私は、自分が、どれほど無責任なことを言っているか、よくわかっている。


「……それだけ?」


 彼が、聞く。


 私は、少しだけ、笑う。


「……それだけで、十分だよ。」


 彼は、納得したような、していないような顔をして、それでも、頷く。


「……わかった。」


 私は、彼の頭に、そっと手を置く。少し硬い髪。温かい体温。この感触を、私は、忘れたくない。


 夜になると、病室は、ひどく静かになる。廊下の音も減り、話し声も消え、ただ、機械の音だけが、規則正しく響く。


 眠れずに、天井を見つめている。暗い中で、自分の呼吸の音が、異様に大きく聞こえる。


 私は、考える。死ぬ、ということ。いなくなる、ということ。息をしなくなる、ということ。それらは、まだ実感が伴わない。でも、「息子を置いていく」という事実だけは、はっきりと、理解している。


 私は、彼が、大人になるところを、見ることができない。彼が、誰かを好きになるところも、仕事を選ぶところも、泣くところも、笑うところも、きっと、見ることができない。


 私は、彼の人生から、途中で消える。それが、ひどく、残酷に思える。


「……ごめんね。」


 私は、誰もいない病室で、小さく呟く。謝っても、何も変わらないのに。謝る相手は、もう、眠っている。


 目を閉じる。眠りは、浅く、夢とも現実ともつかない意識の中で、何度も、同じ光景を見る。


 病室の椅子に座る彼。足をぶらぶらさせながら、私を見上げる顔。


「ママ、いつ帰れる?」


 私は、何度も、答えを探す。でも、どの夢の中でも、私は、答えられない。


 ある日、医者が、静かな声で言った。


「……ご家族を、呼んでください。」


 私は、頷いた。心のどこかで、その言葉を、ずっと、待っていた。怖かったけれど、同時に、どこか、ほっとした。これ以上、彼に、「いつ帰れる?」と聞かれなくて済む。これ以上、「わからない」と答えなくて済む。それは、ひどく、歪んだ安堵だった。


 その日、彼は、病室に来た。いつもより、少しだけ、静かだった。


 私は、彼の手を、ぎゅっと握る。小さな手。でも、確かな重さ。


「……ねえ。」


 もう、嘘はつきたくない。


「ママ、もうすぐ、いなくなるかもしれない。」


 彼は、何も言わない。目を伏せたまま、私の手を、ぎゅっと握り返す。


「……でもね。いなくなっても、あなたのこと、ずっと、好きだから。」


 彼は、顔を上げる。目が、潤んでいる。


「……ほんと?」


「……ほんと。」


 笑おうとする。でも、うまく、笑えない。彼は、しばらく、私を見つめてから、ぽつりと言う。


「……ぼくも、ママ、好き。」


 その言葉は、あまりにも、まっすぐで、私は、胸の奥が、壊れそうになる。


「……だから、いなくならないで。」


 私は、答えられない。答えられないけれど、彼の手を、ぎゅっと握り返す。それが、今の私にできる、唯一のことだった。


 時間は、静かに、しかし、確実に、私の体を、終わりへと近づけていく。食欲は、減り、体力は、落ち、眠っている時間が、増えていく。


 それでも、彼は、毎日、来る。折り紙を持って。絵を描いて。学校の話をして。


 私は、その話を聞きながら、できるだけ、普通の母親のふりをする。笑って。頷いて。相槌を打って。でも、心の奥では、常に、時計の針の音が、鳴り続けている。カチ、カチ、カチ。私の残り時間を、刻む音。


 ある日、彼は、いつもより、少しだけ、元気がなかった。


「……どうしたの?」


 彼は、しばらく黙ってから、ぽつりと言った。


「……ねえ。」


「……なに?」


「ママ、死んだら、どこ行くの?」


 考える。天国。あの世。無。別の世界。どれも、確かめようがない。


「……わからない。」


 私は、正直に言う。


「でもね。」


「……うん?」


「どこに行っても、あなたのことは、忘れないと思う。」


 彼は、少しだけ、安心したように、頷く。


「……そっか」


 私は、彼の髪を、撫でる。その感触を、できるだけ、深く、記憶に刻みつける。私は、彼の未来を、見ることはできない。でも、彼が、生きている限り、私は、彼の過去の中で、生き続ける。そう思いたかった。



 その日の夜、私は、ひどく、静かな夢を見る。


 夢の中で、私は、彼の運動会を見ている。彼は、少し大きくなっている。友達と走り、転び、笑い、泣き、それでも、立ち上がる。私は、観客席のどこかに座って、それを見ている。彼は、私に気づかない。でも、それでいい。私は、ただ、彼が、生きている姿を、見ていたい。


 夢から覚めると、病室は、薄暗い朝の光に包まれている。私は、呼吸が、少しだけ、浅くなっているのを感じる。体が、ひどく、重い。でも、不思議と、心は、静かだった。


 私は、ナースコールを押す。看護師が来る。医者が来る。家族が来る。私は、彼の手を、最後に、ぎゅっと握る。


「……ちゃんと、生きて。」


 彼は、涙を流しながら、頷く。


「……うん。」


 私は、それだけで、充分だと思った。




 私は、写真立てを、床に落としていた。割れてはいない。でも、少しだけ、傾いている。私は、それを拾い、棚の上に戻す。


 写真の中の女性は、相変わらず、笑っている。男の子は、少し照れた顔で、それでも、彼女の腕に、しっかりと身を寄せている。


 私は、胸の奥が、ひどく、静かに、痛むのを感じる。


 この部屋で、誰かが、生を願い、託し、誰かが、それを、受け取った。それだけで、この人生は、完全に、無意味だったとは、思えない。


 病室を出る。廊下を歩く。受付を通り過ぎる。自動ドアを押し開ける。


 外の空気は、少し冷たい。空は、ひどく、澄んでいる。


 私は、立ち止まり、しばらく、その空を見上げる。私は、まだ、生きる理由を、はっきりとは、持っていない。


 でも、「誰かが、誰かに、生きてほしいと願った」という事実が、世界のどこかに、確かに、存在していた。それだけで、私は、ほんの少しだけ、前を向いていい気がした。


 私は、再び、誰もいない道を、歩き出す。世界は、終わっている。でも、誰かが、誰かの人生を、最後まで、思い続けた場所が、ここに、確かに、残っている。私は、その記憶を、そっとしまいながら、進んでいく。

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