声が消えた学校
校舎は、遠くから見るとまだ学校だった。白く剥げた外壁、割れた窓、錆びた非常階段。けれど近づくにつれて、それは「学校だったもの」に変わっていく。子どもたちの声が抜け落ちた場所は、建物というより、巨大な空洞だった。
昇降口のガラス戸は外れて、床に転がっていた。靴箱は乱雑に倒れ、上履きが何足も散らばっている。サイズの小さな靴。紐のほどけたままの靴。履くはずだった足だけが、どこにもいない。
私は、ここに来るつもりはなかった。ただ、道が続いていたから歩いてきただけだ。地図も、目的地も、この世界にはもう存在しない。私はただ、崩れない建物を見つけるたび、「人がいた痕跡」に吸い寄せられるように、足を向けてしまう。
校舎の中は、ひどく静かだった。風が吹き抜ける音だけが、遠くで誰かの呼吸のように反響している。
私は廊下を歩いた。
床に落ちたプリント、色あせた掲示物、黒板に残されたままのチョークの文字。「宿題」「提出」「明日」どれも、未来を前提とした言葉だった。
未来は、ここで終わっている。
私は教室のひとつに入った。机と椅子は、まだ整然と並んでいる。黒板には、授業の途中で止まったらしい数式が残っていた。消されるはずだった線が、何年もそのままにされ、今ではもう、誰にも読めない痕跡に変わっている。
教壇の上に、小さな布製の筆箱が置かれていた。紺色で、端が少しほつれている。中には鉛筆が二本と、消しゴムと、赤ペン。ごく普通の、どこにでもある筆箱だった。私は、それに触れた。
最初に感じたのは、胸の奥に広がる、言葉にできない重さだった。理由のない不安。根拠のない焦り。「間違えてはいけない」という圧迫感が、息をするたびに肺を締めつける。
私は、教室の椅子に座っている。
机は少し高くて、足が床にきちんと届かない。鉛筆を握る手が、汗で湿っている。黒板の前には、先生が立っている。数学の授業だ。けれど、黒板の文字はほとんど頭に入ってこない。
私は。
私は、ここにいるのが、ひどく怖い。
教室には、三十人ほどの生徒がいる。笑っている人もいる。小声で話している人もいる。消しゴムを落とした音がして、誰かが小さく舌打ちをする。それなのに、私は、ひとりで取り残されているような気がしてならない。
黒板を見る。ノートを見る。鉛筆を動かす。でも、どこかがずっとずれている。世界の焦点が、私だけ合っていない。
「じゃあ、この問題、誰かわかる人?」
先生の声がする。教室の何人かが手を挙げる。私は、挙げない。挙げられない。答えは、わからないわけじゃない。けれど、「わかっている」と示すことが、どうしても怖い。
もし間違えたら。もし笑われたら。もし、空気が変わったら。そんな想像が、次々に頭の中を占拠して、私はただ、目を伏せて、呼吸を浅くする。
先生は、別の生徒を指名する。その子は、すらすらと答える。先生は頷き、黒板に丸をつける。その瞬間、胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなる。自分が当てられなかったことへの安堵。同時に、答えられなかったことへの、理由のない自己嫌悪。
いつもこうだ。できないわけじゃない。わからないわけでもない。ただ、「ここにいていい存在だ」と思えない。
休み時間になると、教室は急に騒がしくなる。誰かが立ち上がり、誰かが笑い、誰かが走る。私は、机に座ったまま、筆箱をいじる。誰かに話しかけたいわけじゃない。でも、誰にも話しかけられないのは、やっぱり、少しだけ痛い。
「ねえ。」
突然、声がして、私はびくりと肩を震わせる。振り向くと、隣の席の女子が立っている。短い髪。少し日焼けした頬。笑うと、犬歯が少しだけ目立つ。
「消しゴム貸して。」
私は、慌てて筆箱を開け、消しゴムを差し出す。彼女は受け取って、
「ありがと。」
と言う。それだけで、また、自分の席に戻っていく。会話は、たったそれだけ。でも、胸の奥に、なぜか小さな熱が残る。
私は、その女子の横顔を、ちらりと見る。友達と話している。楽しそうに笑っている。私とは、まったく違う世界に生きているように見える。
けれど。
その日の放課後、私は彼女の泣き顔を見ることになる。
教室に忘れ物を取りに戻ったときだった。教室には、もう誰もいないはずだった。でも、窓際の席に、彼女が座っていた。机に突っ伏して、肩を小さく震わせている。
私は、立ち止まる。声をかけるべきか、迷う。声をかけないまま、帰るべきか、迷う。迷っている間に、時間だけが過ぎる。
結局、私は何も言えずに、教室を出ようとする。
そのとき、彼女が、ぽつりと呟いた。
「……死にたい。」
その声は、とても小さくて、でも、教室の空気を、確実に変えるだけの重さがあった。
私は、足を止める。彼女は、私がいることに気づいていない。独り言のように、机に顔を埋めたまま、続ける。
「疲れた……なんで、こんなに疲れるんだろ……」
私は、心臓が強く脈打つのを感じながら、それでも、何も言えないまま、ただ、そこに立っている。声をかけたら、何が起きるだろう。慰めればいいのか。励ませばいいのか。それとも、聞かなかったふりをすべきなのか。
どれも、わからない。
私自身が、誰かに助けてほしいとき、どうしてほしいのか、わからないまま生きているから。
「……なんで、生きてるんだろ。」
彼女は、そう呟いた。私は、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に、奇妙な共鳴のようなものを感じる。私も、同じことを考えていたからだ。
私は、ゆっくりと、教室の中に戻る。
「……大丈夫?」
自分でも驚くほど、小さな声だった。彼女は、顔を上げる。涙で濡れた目が、私を見る。
「……聞いてたの?」
頷く。彼女は、一瞬だけ、恥ずかしそうに目を逸らし、それから、ふっと、力の抜けた笑い方をした。
「ごめん。変なとこ見られた。」
「……ううん。」
それ以上、何も言えない。沈黙が、教室に落ちる。でも、不思議と、重くはなかった。
「……ねえ。」
彼女が、言う。
「生きてる理由って、何だと思う?」
答えられない。答えられないけれど、それでも、ここにいる。
「……わからない。」
正直に、そう言った。彼女は、少し驚いた顔をして、それから、少しだけ、安心したような表情になる。
「……そっか。わからないよね。」
私たちは、それ以上、何も話さなかった。でも、しばらくのあいだ、同じ教室で、同じ沈黙の中に座っていた。
窓の外では、夕方の光が、校庭を橙色に染めている。どこかで、部活の声が聞こえる。世界は、いつも通り、動いている。
その中で、私たちは、ただ、疲れたまま、生きている。
その日から、彼女は、私に時々話しかけるようになった。
「今日の宿題、多くない?」
「数学、意味わからなくない?」
「給食のパン、固くない?」
どれも、どうでもいい会話だった。
私たちは、親友にはならなかった。一緒に帰ることも、ほとんどなかった。連絡先も、交換しなかった。
けれど、教室にいる間だけは、私たちは、ひとりじゃなかった。
それだけで、充分だった。ある日、彼女は、学校に来なくなった。
最初は、ただの欠席だと思った。次の日も、その次の日も、彼女の席は空いたままだった。
担任は、何も説明しなかった。クラスメイトも、特に話題にしなかった。彼女は、最初からいなかった人のように、教室から消えていった。
私は、何度も、彼女の席を見てしまう。窓際の席。光がよく当たる場所。
彼女が座っていた椅子は、今では、誰の重さも受け止めていない。
私は、あの放課後の教室を思い出す。「死にたい」と呟いた声。「生きてる理由って、何だと思う?」という問い。
私は、答えられなかった。そして今も、答えられていない。
私は、彼女にとって、少しでも、意味のある存在だっただろうか。
あのとき、声をかけたことで、何か、変わっただろうか。
わからない。
でも、もし。
もし、あの短い時間が、彼女の人生の中で、ほんのわずかでも、「ひとりじゃなかった」と思える瞬間になっていたなら。それだけで、それだけで、よかったのかもしれない。
そう、思いたかった。
私は、教室の床に座り込んでいた。
手は、まだ、筆箱に触れたままだ。呼吸が、少し乱れている。胸の奥が、重くて、痛い。ここが、学校だったという事実よりも、誰かが、ここで、そんなふうに生きていたという事実の方が、私には、ずっと、現実的に感じられた。
立ち上がり、教室を見回す。机。椅子。黒板。窓。どれも、さっきまで見ていたものと同じなのに、もう、まったく違って見える。ここには、確かに、「生きる意味がわからないまま生きていた誰か」がいた。
そして、私は。
今も、同じ問いを抱えたまま、生きている。
私は、教室を出て、廊下を歩いた。階段を下り、昇降口を抜け、校舎の外に出る。夕方の光が、校庭に落ちている。錆びた鉄棒。倒れたサッカーゴール。雑草に埋もれたトラック。
私は、しばらく、そこに立っていた。私は、まだ、生きる理由を持っていない。明確な目的も、使命も、希望もない。
でも。
あの教室で、誰かが、「生きる理由がわからない」と呟き、それでも、次の日も、次の週も、教室に通っていたことを思い出す。
理由がなくても、意味がなくても、それでも、生きていた。私は、その事実に、わずかな、しかし確かな重みを感じる。
私は、歩き出す。
この世界には、もう学校はない。生徒もいない。教師もいない。でも、ここには、確かに、人生があった。誰かが、生きる理由を探しながら、それでも、生きていた時間があった。
私は、その記憶を、胸の奥に、そっとしまう。
答えは、まだ、ない。けれど、問いは、少しだけ、変わった。「なぜ生きるべきか」ではなく、「理由がなくても、生きてしまっていること」を、どう扱えばいいのか。そんな問いに。
私は、校門を抜け、再び、誰もいない道路を歩き出した。世界は、終わっている。でも、誰かの人生は、まだ、私の中で、続いている。




