魔物が、近づかなかった
最初に気づいたのは、違和感だった。
森へ行く用事があった。村の外れにある倉庫へ、道具を取りに行くだけの、いつもの雑用だ。役割を持たない私に回ってくる仕事の一つだった。
森は、少し危険だとされている。
魔物が出ることがあるからだ。
それでも、深く入らなければ問題はない。
少なくとも、これまでは。
木々の間を抜ける途中、音がした。
低く、湿った呼吸のような音。
足を止める。
視線の先、茂みが揺れた。
魔物だった。
灰色の皮膚に、歪んだ手足。
人の形を真似たような、失敗作。
逃げようと思った。
けれど、体が動かなかった。
視線が合った。
その瞬間、魔物が――止まった。
攻撃の構えのまま、動かない。
唸り声も、消えている。
数秒、いや、もっと長かったかもしれない。
時間の感覚が曖昧だった。
やがて、魔物は一歩、後ずさった。
そして、逃げた。
森の奥へ、慌てるように消えていく。
私は、その場に立ち尽くしていた。
何もしていない。
呪文も、武器も、祈りも。
ただ、そこにいただけだ。
しばらくして、足の震えに気づく。
遅れて恐怖が押し寄せてきた。
倉庫へ行くのはやめた。
村へ戻り、息を整える。
話すべきか、迷った。
話せば、説明を求められる。
説明できないことは、危険だ。
結局、誰にも言わなかった。
だが、世界は黙っていなかった。
数日後、同じ森で魔物が出たという話が広がる。
怪我人が出た。
いつもなら、あり得ない場所だった。
「あの辺り、変だよな」
「最近、魔物が避けてる気がする」
避けている。
その言葉が、胸に引っかかった。
私は、もう一度森へ行った。
意図したわけではない。
確認でもない。
ただ、足が向いただけだ。
同じ場所。
同じ時間帯。
魔物は、現れなかった。
いや、正確には――近づかなかった。
茂みの向こうで、気配が揺れる。
だが、一線を越えない。
境界があるようだった。
私を中心に、見えない円が引かれている。
気づいた瞬間、寒気がした。
これは、力じゃない。
そう思った。
力と呼ばれるものには、役割がある。
用途があり、意味がある。
これは、違う。
ただの異常。
ただの例外。
世界が、私を避けている。
そう感じた。
その日の夜、眠れなかった。
もしこれが広まれば、私はますます厄介な存在になる。
役割を持たない上に、説明のつかない影響を及ぼす存在。
無色は、何も救わない。
ただ、歪ませるだけだ。
そう、強く思い込もうとした。
――でも。
魔物が逃げたあの瞬間だけ、
私は確かに、世界に触れてしまった気がしていた。




