空白に名前はない
名前を呼ばれなくなったのは、いつからだっただろう。
最初は、気のせいだと思っていた。忙しさのせいで声をかけ忘れただけ。たまたま、視線が合わなかっただけ。そうやって理由をつけることは簡単だった。
けれど、それが何度も続くと、理由は意味を失う。
「――おい」
市場で、商人が誰かを呼んだ。
私は振り返らなかった。自分のことではないと思ったからだ。
商人は困ったように視線を泳がせ、別の人間に声をかけ直した。最初から、私などいなかったかのように。
それは、拒絶ではなかった。
無視ですらなかった。
ただ、認識されていなかった。
無色は、名前を持たない。
正確には、呼ばれない。
人は、役割を持つ者を名前で呼ぶ。
それは、世界に紐づけるための行為だ。
私は紐づけられなかった。
家でも、同じだった。
「……」
母は私を見て、何か言いかけて、やめる。
父は話題を変える。
視線が合っても、すぐに逸らされる。
責めることはできなかった。
どう扱えばいいのか、誰も教えられていないのだから。
私は徐々に、会話の外側に押し出されていった。
役割を得た者たちの話題になると、空気が変わる。未来の話、訓練の話、遠くの街の話。そのどれにも、私は参加できない。
黙っていると、存在が薄くなる。
声を出すと、場が止まる。
どちらも、正解ではなかった。
村の子どもが、私の前で転んだことがあった。
泣き出す前に、私は手を伸ばした。
その瞬間、子どもの母親が子を引き寄せる。
「触らないで」
低い声だった。
理由は言われなかった。
説明もなかった。
それでも、拒絶ははっきりしていた。
無色は、何をもたらすか分からない。
そういう噂が、いつの間にか広がっていた。
私は謝り、距離を取った。
それ以上、何も言われなかった。
夜、部屋に戻り、一人になる。
静かだった。
あまりにも。
自分の呼吸の音が、やけに大きく聞こえる。
それだけが、私がここにいる証拠だった。
鏡を見た。
そこには、確かに私がいる。
顔も、体も、昨日と同じだ。
けれど、世界に映る私は、空白だ。
名前を持たない。
役割を持たない。
だから、呼ばれない。
それでも、消えてはいない。
その事実が、妙に重くのしかかってきた。
――空白に、名前はない。
それが、この世界の答えだった。




